次に目覚めたとき、六華は見知らぬ場所で横たわっていた。
喉は乾き、背中や腕が痛む。かなりの時間気を失っていたようだ。
そろそろと体を起こそうとするが、強いめまいに襲われる。なんとか意識を保ちながら周囲を観察すると、周囲は鉄格子に囲まれており、どうやら大きな檻に入れられているらしいと理解した。
(まるで動物のような扱いね)
床は硬く、無機質な冷たさが、人間らしい扱いをされていないことを伝えてくれる。
おそらく六華を攫った男たちは、庭師に紛れて秋月家に侵入したのだろう。
こんなことをする相手の心当たりを探していると、間もなくして檻が置かれた部屋の扉が開いた。そこに現れた痩せぎすの顔を見ても、彼女は驚かない。
「お久しぶりですわね、渡部さま」
国立研究院の渡部が、こちらを舐めまわすように眺めてから、口の端を上げた。
「可憐な外見と違ってずいぶん落ち着いてますねえ。宿主さま」
「あら。泣き喚いたほうがよろしかったかしら?」
「それも悪くないですがね。面倒がなくていい」
渡部は檻に顔を近づけ、すうと鼻から息を吸った。匂いを確かめられているようで、うぶ毛がぞわりと逆立つ。
六華が目覚めてからそれほど間を置かず現れたところを見ると、この部屋は監視されているのだろう。目前の男を見据えながら、『攫った理由』を確かめる。
「目的は宿花ですわね?」
その問いかけに、渡部は躊躇することなく肯定した。
「ちゃんと手順を踏むつもりだったんですがね。邪魔が入ったんで」
やはり宿花を手に入れるために、六華を攫ったということだ。それならば交渉の余地があるかもしれない。
「ねえ渡部さま。開花までの経過観察が目的でしたら、わたくしが責任をもって旦那さまを取りなします」
六華はこの男への嫌悪感を必死に隠しながら、余裕めいた笑みを浮かべてみせる。
「行き違いは誰にでもあること。今ならまだ間に合いますから、帰していただけませんか?」
しかしそれを聞いた彼は、さもおかしそうに笑い声をあげた。
「まったくどこまでもお目出たいかただ。まあそれくらいじゃないと、妖界植物のエサなんて引き受けないんでしょうが」
絶句する六華の前で、渡部は濁った眼に恍惚とした光を宿す。
「せっかく手に入れたお宝を手放す馬鹿がいると思います? 咲く前も咲いたあとも調べ尽くすつもりですよ」
狂気じみた相貌に、怖気が走った。その目は話し合いが通じないことを、明確に示していて。
渡部は六華に視線を留めたまま、檻の周りを歩きぶつぶつと呟く。
「とりあえず計測だな。宿花本体だけでなく宿主も……」
六華は後ずさりながら、これから行われようとしていることを想像し、吐き気を催した。
「渡部さまお止めになってください! このような人道にもとる行い、許されることではありませんわ!」
「別に許されるつもりなんてありませんよ。どうでもいいことなんで」
檻に差し入れられた渡部の手を、反射的に弾く。こちらを眺める目に、愉悦の色が宿った。
「まあいいですよ。暴れられないようにするだけなんで」
こんな男に辱められるぐらいなら死んだ方がマシだ。けれど死んだところで、この男の好きにされるだけ。
檻の鍵が開く音がし、がちゃりと扉が開いた。縄を手にした渡部が、片方の手で六華の髪をぐいと引っ張る。
「ああ美しい……この花が咲く瞬間は、どれほど素晴らしいのか」
生暖かい吐息がうなじにかかり、全身が総毛立つ。
恐怖と嫌悪感で、六華の心は今にも粉々になってしまいそうだった。吐き気と涙を必死にこらえながら、無意識のうちにその名を呼ぶ。
「旦那さま――」
どうか、私を見つけて。
「鈴さま……!」
その刹那、唸るような雷鳴が轟き、天井が大きく振動した。何事かと渡部が見上げた直後、切り裂かんばかりの轟音が鳴り響き辺りが闇に染まる。
「くそ……っ落雷か!」
忌々しそうな渡部の声が少し遠ざかり、がちゃがちゃと檻の鍵をかける音がした。その後扉が開く音がして、彼の足音が遠ざかっていく。
(何が起きているの……?)
恐怖で声すら出せない六華は、息をじっと息をひそめていた。
数秒後、渡部のものと思われる悲鳴が響き渡り、一瞬、静寂に包まれる。こちらに近づく足音が聞こえたあと、荒々しく扉が開かれた。
「六華!」
その声を聴いた瞬間、目に涙があふれた。
見えなくともわかる。六華はただただ、待ちわびたその人の名を呼んだ。
「鈴さま! 六華はここにおります!」
駆け寄ってきた鈴は檻を確かめ、「すぐにここから出してやる」と言うと、足元に向って呼びかけた。
「起きろ、琥珀」
琥珀も来てくれていたのかと思う間もなく、光の明滅が起きたあと、馬に似た大きな生き物が現れた。
白銀の鱗に似た毛でおおわれた体躯、黄金色に輝くたてがみと、額にまっすぐ伸びる同色の角が目を引く。
「まあ……! これが琥珀さんの本当の姿ですの」
思わず声をあげた先で、白の麒麟がぶおんと鳴いた。琥珀色に煌く瞳だけが普段の姿の面影を感じさせる。
琥珀がいとも簡単に檻の入り口を破壊すると、鈴が中に飛び込んできた。
旦那さまと呼びかけるより早く、六華の身体は強く抱きしめられる。
息もできないほどの、抱擁。互いの存在を確かめるように、伝わる体温を逃がすまいと、微動だにせず。
「どこか痛いところはないか? 奴に何かされたか?」
「大丈夫です。何も」
それを告げた瞬間、鈴は脱力するように再び彼女を抱きしめた。
「無事でよかった……」
少し掠れた声に、全身が熱くなるような感覚をおぼえた。体の芯から湧き上がる感情のかたまりに、気を抜けば翻弄されそうになる。
彼の腕の中で、六華は唐突に理解した。
私、このひとを愛しているわ。
伝わる鼓動が、息づかいが。
六華を見つめる瞳が、呼びかける声が。
彼女の胸を甘く締めつけ、震えるように吐息を漏らす。
「鈴さま……ご心配をおかけしました」
「遅くなってすまなかった。よく耐えてくれた」
彼の手が、六華の髪を慈しむように撫でた。その手つきの優しさに、内側を撫でられたような感覚をおぼえる。
その後、鈴が率いる陰陽寮の師団員たちが駆け付け、辺りは騒然となった。
どうやら渡部は六華を監禁していたこの場所で、他にも違法な研究を行っていたらしい。これから現場検証や証拠保全が始まるのだそうだ。
鈴は足元が悪いからと六華を抱き上げ、憔悴した様子でつぶやいた。
「もっと君の身に危険が及ぶ可能性を警戒していれば……二度と嫌な思いをさせないと言っておきながらこのザマだ」
「わたくしも迂闊でした。必ず使命を果たすと言っておきながら、お恥ずかしい話ですわ」
「君は何も悪くない。これはすべて私の責任だ」
六華がいなくなったあと、秋月家の人間だけでなく、陰陽寮の鈴の部下たちまでもが彼女の捜索に当たったという。
この場所は帝都中心部からずいぶん離れた山中にあり、駆け付けるのに時間がかかってしまったそうだ。
「よくわたくしの居場所がお分かりになりましたね」
「琥珀が君の霊力の匂いを覚えていたからな」
「まあ琥珀さんのおかげで。ありがとうございます」
いつものまるっこい姿に戻った琥珀は、ぷいぷい!と誇らしげに胸を張った(ように見えた)。ふふと微笑みながら、もこもこの体をめいっぱいもふもふする。
帰り道は再び大きくなった琥珀が、背に乗せてくれた。
風のように駆ける琥珀の背で、六華はうとうとし始めていた。気丈に振る舞ってはいたものの、ずいぶん疲れていたらしい。
「……そういえば、あの雷鳴も琥珀さんが?」
「いや。あれは私の式神だ」
雷鳴を起こすなど、どれほどの力を持っているのだろう。お礼を申し上げたいと伝えると、鈴は彼女が落ちないよう抱き寄せながら耳元でつぶやいた。
「近いうちに会える」
ふわふわとした浮遊感が、六華を心地よく包み込んだ。
眠りに落ちてしまう前に、彼女は改めて助けてくれたことの礼を告げる。
「礼など不要だ。これは私の不始末だと言ったろう」
「わたくしはこうしてぴんぴんしておりますし、格好いい旦那さまを見られて満足ですのよ」
「まったく……君はいつも返答に困ることを言う」
「あら。本心ですのに」
ちらりと見上げた先で、彼は迷子の子犬のような目をしていた。いつもとは違う弱り切った顔に、胸がきゅうっとなってしまう。
六華はそっと彼の胸に頬を寄せ、瞳を閉じた。このまま時が止まってくれればいいのにと、口に出せない願いを唇だけでなぞる。
愛しい私の旦那さま。
どうか今だけは、許してほしい。
あとひと月もすれば消えてなくなる、泡沫のような想いだから――と。
