数日後、鏡を見た六華は目を見張った。
宿花の蕾がいっそう膨らみ、ほんの少しほころびかけた中心部に、花弁のようなものがのぞいていたからだ。
肝心の色は――赤に近い紫に見える。
「どうしましょう。深紫にはほど遠いわ」
どう甘めに見ても、もっと青みが強くなければ『深紫』とは呼べない。このままでは使命を果たせないと、六華は焦燥に駆られた。
一体何が足りないのか。
霊力の多寡に問題ないことは、秋月家からお墨付きをもらっている。何不自由ない生活という点でも、何の不満もない。
宿主が花を咲かせることに同意しているか……誰より六華自身が、そう願っているというのに。
たまらず鈴に相談してみたが、彼も困惑した表情を浮かべるばかりで。
「蕾から開花までの間に色が変わることもある。あまり思いつめないほうがいい」
「わたくし何かほかに、深紫の花が咲く条件があるように思えますの。旦那さまは心当たりございませんか?」
歴代の秋月家当主が鬼神との契約を果たしてきたのなら、もっと何か聞いているのではないか。
「あるいは鬼神さまに直接お尋ねになられても……」
「それはできないんだ」
鈴は困ったように視線を落とす。
「『深紫の花を咲かせる方法を己で見つけること』これも式神との契約条件に入っている」
「まあ……そうでしたの」
六華はようやく合点がいった。鈴から深紫の花が咲く条件を聞いたとき、どうにも違和感があったのだ。
歴代当主の立場を左右するほどの『重要事項』であるはずなのに、ずいぶん曖昧な内容だと。
しかしこれも彼の推測にもとづいたものであれば納得がいく。
沈黙する六華に、鈴は逡巡してから切り出した。
「子供の頃、私は先代宿主に会ったことがある」
彼によると、先代当主は宿花の宿主をなかなか見つけられず、先に鈴の母となる正妻を迎えたのだそうだ。
ようやく宿主となる娘が見つかったのは、鈴が物心ついたとき。つまり秋月家では一時期「二人の妻」が暮らしていたこととなる。
「……どんなお方でしたか?」
「人の好い優しい女性だった。だから父も愛したのだろう」
鈴の父は宿主の娘を慈しみ、愛したのだそうだ。鈴の母親にしてみれば複雑な思いだったろうが……内心はどうあれ、宿主の娘との関係は悪くなかったという。
きっと割り切ったのだ、と六華は思った。
夫が愛しているのは、いずれいなくなる秋月に尽くした娘。正妻として華族の淑女として、誇りを護り抜いたのだと。
「その方が咲かせた花は、深紫だったのですよね?」
「私は直接見ていないが、見事な深紫だったそうだ。今の君と同じように、蕾の段階では違う色だったが」
先代宿主は使命を果たし、生涯を終えた。彼女が最期に見た景色は、どんなものだっただろう。六華には想像することしかできないが、優しいものであったらと願う。
「……あのひとはいつも笑っていた。今の君のように」
鈴のまなざしが六華をとらえた。
「彼女の表情が陰るのを見たことがないし、そのために父も尽くしていたように思う。だから私も君に何不自由なく暮らしてもらうよう、配慮したつもりだったが……なかなか思うようにいかないものだ」
六華に退屈という不自由を与えてしまったことを、鈴は恥じ入っているようだった。
「相手を理解するのは簡単ではありませんわ。心を通じ合わせていても、すれ違うのが人情というもの」
「そうだな。最近になって、分かるようになってきたよ」
苦笑する彼に微笑み返しながら、しみじみと呟いた。
「先代宿主さまはお幸せでしたのね」
直接会ったわけではないが、六華にはわかる。きっと彼女の日常は、愛とひとさじの切なさで満たされていたのだろう。そうでなければ、深紫の花は咲かなかったような気がして――
「君はどうだ?」
視線をあげた先で、鈴がじっとこちらを見つめていた。
「わたくしは――」
その先を口にする前に、彼はいやとかぶりを振った。
「余計なことを訊いた。今の質問は忘れてくれ」
沈黙する六華に鈴は歩み寄ると、そっと髪に触れようとして――躊躇した。触れたってかまわないのに、という言葉を呑み込む。
「……私は君に何をしてやれるだろうか」
「もう十分すぎるほど、していただいていますわ」
これ以上望むことなど、あるはずがない。けれど六華の奥底にあるなにかが、ちくりと痛む。
鈴のまなざしに宿る影が、彼女の胸をうずかせて仕方がなかった。
結局、深紫の花が咲くかどうか分からないまま、数日が過ぎた。
蕾の色に変化はないが、日に日に膨らんでいるのがわかる。そう遠くないうちに開花するのではないか――誰もが口には出さないが、そう確信しているような気配だ。
六華はいつも以上に明るく振る舞った。使用人や女中たちが、六華の蕾がふくらむたびに顔を曇らせるのが心苦しかったから。
それは鈴に対しても同じで、お菓子を作って振る舞ってみたり、好きな本の話で語り合ったりと、なるべく宿花の話題に触れないよう心がけている。
そうして開花が間近に迫った矢先、事件は起きた。
その日、六華は朝から使用人とともに育ち盛りの薬草をせっせと摘んでいた。メボウキなどは葉がやわらかなうちに摘まないと、味も触感も落ちてしまう(琥珀の食いつきも悪くなる)。
このところの雨で一気に成長が進んだのを、放置するわけにはいかない。
「何もいま君がやらなくても」
鈴はそう言ってくれたが、六華は”来たる日”までなるべくいつも通り過ごしたかったし、彼もその気持ちを汲んでくれた。
「今日は月に一度の庭園手入れの日ですし。休んでなどいられませんわ」
秋月家には専属の庭師がいるが、庭園の規模が大きいため、月に一度は外部の庭師を呼び、大掛かりな手入れを行う。普段はやらないような大規模剪定や季節花の植え替えをやるため、六華はひそかに楽しみにしていたのだ。
みなと手分けして作業を始め、一時間が経過した頃。
夢中になっていた六華は、自身の周囲から人がいなくなっていることに気づかなかった。
ふと背後に気配を感じ振り向くと、庭師の格好をした男がふたり立っている。今日の助っ人として来たひとたちだろうと、六華はにこやかに挨拶した。
「ご苦労さまですわ」
けれど次の瞬間、彼女の口は彼らによって先さがれた。何が起きたのかわからないまま抵抗するが、身動きが取れず次第に目の前が暗くなっていく。
意識が薄れゆくなか――六華は秋月家の敷地内だからと油断したことを後悔した。
宿花の蕾がいっそう膨らみ、ほんの少しほころびかけた中心部に、花弁のようなものがのぞいていたからだ。
肝心の色は――赤に近い紫に見える。
「どうしましょう。深紫にはほど遠いわ」
どう甘めに見ても、もっと青みが強くなければ『深紫』とは呼べない。このままでは使命を果たせないと、六華は焦燥に駆られた。
一体何が足りないのか。
霊力の多寡に問題ないことは、秋月家からお墨付きをもらっている。何不自由ない生活という点でも、何の不満もない。
宿主が花を咲かせることに同意しているか……誰より六華自身が、そう願っているというのに。
たまらず鈴に相談してみたが、彼も困惑した表情を浮かべるばかりで。
「蕾から開花までの間に色が変わることもある。あまり思いつめないほうがいい」
「わたくし何かほかに、深紫の花が咲く条件があるように思えますの。旦那さまは心当たりございませんか?」
歴代の秋月家当主が鬼神との契約を果たしてきたのなら、もっと何か聞いているのではないか。
「あるいは鬼神さまに直接お尋ねになられても……」
「それはできないんだ」
鈴は困ったように視線を落とす。
「『深紫の花を咲かせる方法を己で見つけること』これも式神との契約条件に入っている」
「まあ……そうでしたの」
六華はようやく合点がいった。鈴から深紫の花が咲く条件を聞いたとき、どうにも違和感があったのだ。
歴代当主の立場を左右するほどの『重要事項』であるはずなのに、ずいぶん曖昧な内容だと。
しかしこれも彼の推測にもとづいたものであれば納得がいく。
沈黙する六華に、鈴は逡巡してから切り出した。
「子供の頃、私は先代宿主に会ったことがある」
彼によると、先代当主は宿花の宿主をなかなか見つけられず、先に鈴の母となる正妻を迎えたのだそうだ。
ようやく宿主となる娘が見つかったのは、鈴が物心ついたとき。つまり秋月家では一時期「二人の妻」が暮らしていたこととなる。
「……どんなお方でしたか?」
「人の好い優しい女性だった。だから父も愛したのだろう」
鈴の父は宿主の娘を慈しみ、愛したのだそうだ。鈴の母親にしてみれば複雑な思いだったろうが……内心はどうあれ、宿主の娘との関係は悪くなかったという。
きっと割り切ったのだ、と六華は思った。
夫が愛しているのは、いずれいなくなる秋月に尽くした娘。正妻として華族の淑女として、誇りを護り抜いたのだと。
「その方が咲かせた花は、深紫だったのですよね?」
「私は直接見ていないが、見事な深紫だったそうだ。今の君と同じように、蕾の段階では違う色だったが」
先代宿主は使命を果たし、生涯を終えた。彼女が最期に見た景色は、どんなものだっただろう。六華には想像することしかできないが、優しいものであったらと願う。
「……あのひとはいつも笑っていた。今の君のように」
鈴のまなざしが六華をとらえた。
「彼女の表情が陰るのを見たことがないし、そのために父も尽くしていたように思う。だから私も君に何不自由なく暮らしてもらうよう、配慮したつもりだったが……なかなか思うようにいかないものだ」
六華に退屈という不自由を与えてしまったことを、鈴は恥じ入っているようだった。
「相手を理解するのは簡単ではありませんわ。心を通じ合わせていても、すれ違うのが人情というもの」
「そうだな。最近になって、分かるようになってきたよ」
苦笑する彼に微笑み返しながら、しみじみと呟いた。
「先代宿主さまはお幸せでしたのね」
直接会ったわけではないが、六華にはわかる。きっと彼女の日常は、愛とひとさじの切なさで満たされていたのだろう。そうでなければ、深紫の花は咲かなかったような気がして――
「君はどうだ?」
視線をあげた先で、鈴がじっとこちらを見つめていた。
「わたくしは――」
その先を口にする前に、彼はいやとかぶりを振った。
「余計なことを訊いた。今の質問は忘れてくれ」
沈黙する六華に鈴は歩み寄ると、そっと髪に触れようとして――躊躇した。触れたってかまわないのに、という言葉を呑み込む。
「……私は君に何をしてやれるだろうか」
「もう十分すぎるほど、していただいていますわ」
これ以上望むことなど、あるはずがない。けれど六華の奥底にあるなにかが、ちくりと痛む。
鈴のまなざしに宿る影が、彼女の胸をうずかせて仕方がなかった。
結局、深紫の花が咲くかどうか分からないまま、数日が過ぎた。
蕾の色に変化はないが、日に日に膨らんでいるのがわかる。そう遠くないうちに開花するのではないか――誰もが口には出さないが、そう確信しているような気配だ。
六華はいつも以上に明るく振る舞った。使用人や女中たちが、六華の蕾がふくらむたびに顔を曇らせるのが心苦しかったから。
それは鈴に対しても同じで、お菓子を作って振る舞ってみたり、好きな本の話で語り合ったりと、なるべく宿花の話題に触れないよう心がけている。
そうして開花が間近に迫った矢先、事件は起きた。
その日、六華は朝から使用人とともに育ち盛りの薬草をせっせと摘んでいた。メボウキなどは葉がやわらかなうちに摘まないと、味も触感も落ちてしまう(琥珀の食いつきも悪くなる)。
このところの雨で一気に成長が進んだのを、放置するわけにはいかない。
「何もいま君がやらなくても」
鈴はそう言ってくれたが、六華は”来たる日”までなるべくいつも通り過ごしたかったし、彼もその気持ちを汲んでくれた。
「今日は月に一度の庭園手入れの日ですし。休んでなどいられませんわ」
秋月家には専属の庭師がいるが、庭園の規模が大きいため、月に一度は外部の庭師を呼び、大掛かりな手入れを行う。普段はやらないような大規模剪定や季節花の植え替えをやるため、六華はひそかに楽しみにしていたのだ。
みなと手分けして作業を始め、一時間が経過した頃。
夢中になっていた六華は、自身の周囲から人がいなくなっていることに気づかなかった。
ふと背後に気配を感じ振り向くと、庭師の格好をした男がふたり立っている。今日の助っ人として来たひとたちだろうと、六華はにこやかに挨拶した。
「ご苦労さまですわ」
けれど次の瞬間、彼女の口は彼らによって先さがれた。何が起きたのかわからないまま抵抗するが、身動きが取れず次第に目の前が暗くなっていく。
意識が薄れゆくなか――六華は秋月家の敷地内だからと油断したことを後悔した。
