穏やかな日が過ぎていった。
夏が近づくにつれ、六華が手入れを手伝っている薬草たちは収穫が追い付かないほどに生い茂っている。
霊獣たちはすっかり彼女に懐き、さながら子育てをしている気分だ。
頭上の宿花は順調に成長を続け、蕾は大きく膨らみ、そろそろ花弁が見えてきそうだ。まだ何色かは分からないため、六華は毎朝鏡を確認してはやきもきしている。
鈴との関係は特段変化はないが、時々贈り物をもらうようになった。訳を尋ねると「君はちっとも物を欲しがらない。不自由があっては困る」とのこと。
贈られた銀細工の髪飾りや、絹のショールや、黄水晶の耳飾りはひと目で良いものと分かるものばかりで、どれも驚くほど六華に似合う。これらを身に着けて出かける機会がないのが、残念なところではあるのだが。
六華が喜ぶ顔をすると鈴も嬉しそうにするので、この儀式はふたりの間で習慣となった。合理的判断が時に正しいわけじゃないことを、彼女もよくわかっている。
凪いだ日常に波風が立ったのは、鈴への訪問客がきっかけだった。
秋月家への訪問客は日頃から多いが、六華が応対することはない。客とて『そう遠くないうちに死ぬ期間限定妻』を紹介されたことろで反応に困るだろう。
けれどその日だけは、勝手が違った。鈴から『今日の客には君を紹介する』と言われ、一体相手が誰なのか気になったものの、六華も特に尋ねることはせず了承の旨を伝えた。
この時点で確かめておくべきだったと、のちのち後悔することになるのだが。
「おお! こちらが宿花の宿主ですか」
六華の姿を認めた瞬間、その客の男は目の色を変えて喜んだ。年の功は六華より一回りくらい上だろうか。痩せた顔に目だけがぎょろりとしていて、先ほどから六華の頭に釘づけた。
戸惑う彼女に、鈴が視線を遮るように間に入る。
「彼女が妻の六華だ」
「ああ申し遅れましたね、私、国立研究院の渡部といいます」
「六華と申します。国立研究院……というのはどういう所ですの?」
「国家に関わるあらゆる研究を行っていますがね。私は妖界植物についてが専門でして」
渡部は六華を舐めまわすように眺めながら、興奮気味に言いやる。
「妖界植物が人界に生息範囲を広げた例はそこそこあるが、この宿花ほど素晴らしいものはない! 人間の娘のみに寄生する摩訶不思議な生態、宿主の命を喰らいつくすたった一度きりの開花、あまりに興味深い……」
ねっとりとした視線に肌が粟立つ。思わず鈴を見上げると、苦虫を嚙み潰したような表情をしていた。しかし渡部は気づいてもいないようで、ずいっと六華に近づいてくる。
「ところで宿主さまは」
「六華だ。気安く妻に近づかないでくれ」
苛立ったように鈴が渡部を突き飛ばす。はずみでよろめいた渡部は舌打ちをしながら、へらへらと嗤った。
「やだなあ、何を怒ってるんです?」
「妻に不躾な視線をよこす男を不快に思うのは当然だ」
渡部はへえ!とわざとらしく驚いてみせる。
「理解できませんねえ。少々弄るくらい構わんでしょう。どうせ死ぬ女なんですから」
「貴様!」
怒声とともに鈴が腰の刀に手をかけるのを、六華は慌てて止める。
「旦那さま! 駄目です!」
「っ……! 今すぐ出ていけ。二度と妻の前に顔を見せるな!」
「わかりましたよ。今日のところはね」
こちらを見やる湿度の高い視線に、ぞっとする。
渡部を部屋から追い出した鈴は、六華を振り向き頭を下げた。
「すまなかった……! 君にこんなこと、許されるわけがない」
「頭を上げてくださいな。一体何がありましたの?」
顔を上げた鈴ははっきりと分かるほど苦渋の表情をしていて、六華の胸はぎゅっとなる。
聞けば研究員の所長と鈴の上司が懇意らしく、宿花を研究員に見せてやってほしいと頼まれたのだそうだ。
「気は進まなかったが、上司の頼みとあってつい受け入れてしまった。あんな男だと知っていれば……どう詫びればいいか」
「お気になさらないで。少し驚いただけですわ」
しょげきっている彼の様子がいたたまれず、六華はなるべく明るく言った。
「渡部さまの研究がのちのち旦那さまのお役に立つかもしれないのでしょう? わたくしは大丈夫ですから」
あの男の目に嫌悪感を覚えたのは事実だが、それだけで拒むほど六華も子供ではない。
しかし鈴ははっきりとかぶりを振った。
「あの男は今後一切、君に近づけさせない。二度と君に嫌な思いをさせない。約束する」
「ありがとうございます、旦那さま」
心配しないでと告げるように笑んでみせると、彼の目が揺らいだ。
どうしたのだろうと小首を傾げていると、漏らすようなつぶやきが聞こえてくる。
「……どうして君はいつもそうなんだ」
「といいますと?」
「なぜ怒りをあらわにしない? 私を責めない? これほど理不尽な扱いを受けているのに」
どこか投げやりめいた問いかけに、六華はぱちくりと瞬きした。
「そう言われましても……。わたくし、本当に恨みつらみなどありませんのに」
契約結婚のことは自分の意思で受け入れたことだし、いまだに後悔どころか秋月家に対しては感謝最高値が日々更新され続けている。
今回のことだって六華にしてみれば、契約上の夫でしかない彼が自分を慮ってくれただけで十分だ。
「わたくしの実家がああなったことに忸怩たる思いはありますけれど。旦那さまには何の落ち度もないことです」
「それはそうだが……」
「何度もお伝えしていますが、わたくし何不自由なく暮らしております。旦那さまのおかげですわ」
だからもう、そんな顔はしないで。
そっと彼の頬に手を伸ばした。泣いている妹弟にそうしてきたように、つい自然に出てしまったことだった。
けれど指先が触れた瞬間、鈴の頬がびくりと硬直し、紅潮していくのが分かった。思わず手を離すと、彼は「すまない頭を冷やしてくる」と言って出て行ってしまう。
残された六華は情動の余韻に浸りながら、胸に手を当てた。
(どうしてかしら……ここが苦しいわ)
この感情の正体は知りたくない気がした。知ってしまうと、六華を形作るものが変わってしまうような気がして――
夏が近づくにつれ、六華が手入れを手伝っている薬草たちは収穫が追い付かないほどに生い茂っている。
霊獣たちはすっかり彼女に懐き、さながら子育てをしている気分だ。
頭上の宿花は順調に成長を続け、蕾は大きく膨らみ、そろそろ花弁が見えてきそうだ。まだ何色かは分からないため、六華は毎朝鏡を確認してはやきもきしている。
鈴との関係は特段変化はないが、時々贈り物をもらうようになった。訳を尋ねると「君はちっとも物を欲しがらない。不自由があっては困る」とのこと。
贈られた銀細工の髪飾りや、絹のショールや、黄水晶の耳飾りはひと目で良いものと分かるものばかりで、どれも驚くほど六華に似合う。これらを身に着けて出かける機会がないのが、残念なところではあるのだが。
六華が喜ぶ顔をすると鈴も嬉しそうにするので、この儀式はふたりの間で習慣となった。合理的判断が時に正しいわけじゃないことを、彼女もよくわかっている。
凪いだ日常に波風が立ったのは、鈴への訪問客がきっかけだった。
秋月家への訪問客は日頃から多いが、六華が応対することはない。客とて『そう遠くないうちに死ぬ期間限定妻』を紹介されたことろで反応に困るだろう。
けれどその日だけは、勝手が違った。鈴から『今日の客には君を紹介する』と言われ、一体相手が誰なのか気になったものの、六華も特に尋ねることはせず了承の旨を伝えた。
この時点で確かめておくべきだったと、のちのち後悔することになるのだが。
「おお! こちらが宿花の宿主ですか」
六華の姿を認めた瞬間、その客の男は目の色を変えて喜んだ。年の功は六華より一回りくらい上だろうか。痩せた顔に目だけがぎょろりとしていて、先ほどから六華の頭に釘づけた。
戸惑う彼女に、鈴が視線を遮るように間に入る。
「彼女が妻の六華だ」
「ああ申し遅れましたね、私、国立研究院の渡部といいます」
「六華と申します。国立研究院……というのはどういう所ですの?」
「国家に関わるあらゆる研究を行っていますがね。私は妖界植物についてが専門でして」
渡部は六華を舐めまわすように眺めながら、興奮気味に言いやる。
「妖界植物が人界に生息範囲を広げた例はそこそこあるが、この宿花ほど素晴らしいものはない! 人間の娘のみに寄生する摩訶不思議な生態、宿主の命を喰らいつくすたった一度きりの開花、あまりに興味深い……」
ねっとりとした視線に肌が粟立つ。思わず鈴を見上げると、苦虫を嚙み潰したような表情をしていた。しかし渡部は気づいてもいないようで、ずいっと六華に近づいてくる。
「ところで宿主さまは」
「六華だ。気安く妻に近づかないでくれ」
苛立ったように鈴が渡部を突き飛ばす。はずみでよろめいた渡部は舌打ちをしながら、へらへらと嗤った。
「やだなあ、何を怒ってるんです?」
「妻に不躾な視線をよこす男を不快に思うのは当然だ」
渡部はへえ!とわざとらしく驚いてみせる。
「理解できませんねえ。少々弄るくらい構わんでしょう。どうせ死ぬ女なんですから」
「貴様!」
怒声とともに鈴が腰の刀に手をかけるのを、六華は慌てて止める。
「旦那さま! 駄目です!」
「っ……! 今すぐ出ていけ。二度と妻の前に顔を見せるな!」
「わかりましたよ。今日のところはね」
こちらを見やる湿度の高い視線に、ぞっとする。
渡部を部屋から追い出した鈴は、六華を振り向き頭を下げた。
「すまなかった……! 君にこんなこと、許されるわけがない」
「頭を上げてくださいな。一体何がありましたの?」
顔を上げた鈴ははっきりと分かるほど苦渋の表情をしていて、六華の胸はぎゅっとなる。
聞けば研究員の所長と鈴の上司が懇意らしく、宿花を研究員に見せてやってほしいと頼まれたのだそうだ。
「気は進まなかったが、上司の頼みとあってつい受け入れてしまった。あんな男だと知っていれば……どう詫びればいいか」
「お気になさらないで。少し驚いただけですわ」
しょげきっている彼の様子がいたたまれず、六華はなるべく明るく言った。
「渡部さまの研究がのちのち旦那さまのお役に立つかもしれないのでしょう? わたくしは大丈夫ですから」
あの男の目に嫌悪感を覚えたのは事実だが、それだけで拒むほど六華も子供ではない。
しかし鈴ははっきりとかぶりを振った。
「あの男は今後一切、君に近づけさせない。二度と君に嫌な思いをさせない。約束する」
「ありがとうございます、旦那さま」
心配しないでと告げるように笑んでみせると、彼の目が揺らいだ。
どうしたのだろうと小首を傾げていると、漏らすようなつぶやきが聞こえてくる。
「……どうして君はいつもそうなんだ」
「といいますと?」
「なぜ怒りをあらわにしない? 私を責めない? これほど理不尽な扱いを受けているのに」
どこか投げやりめいた問いかけに、六華はぱちくりと瞬きした。
「そう言われましても……。わたくし、本当に恨みつらみなどありませんのに」
契約結婚のことは自分の意思で受け入れたことだし、いまだに後悔どころか秋月家に対しては感謝最高値が日々更新され続けている。
今回のことだって六華にしてみれば、契約上の夫でしかない彼が自分を慮ってくれただけで十分だ。
「わたくしの実家がああなったことに忸怩たる思いはありますけれど。旦那さまには何の落ち度もないことです」
「それはそうだが……」
「何度もお伝えしていますが、わたくし何不自由なく暮らしております。旦那さまのおかげですわ」
だからもう、そんな顔はしないで。
そっと彼の頬に手を伸ばした。泣いている妹弟にそうしてきたように、つい自然に出てしまったことだった。
けれど指先が触れた瞬間、鈴の頬がびくりと硬直し、紅潮していくのが分かった。思わず手を離すと、彼は「すまない頭を冷やしてくる」と言って出て行ってしまう。
残された六華は情動の余韻に浸りながら、胸に手を当てた。
(どうしてかしら……ここが苦しいわ)
この感情の正体は知りたくない気がした。知ってしまうと、六華を形作るものが変わってしまうような気がして――
