弑逆契約 〜双牙妃の後宮生存戦略〜

 離宮の中へ入り、その変わりように莉々は呆気にとられてしまった。
 今朝とは違い、質のいい家具や調度品が必要な場所に鎮座していたのだから、驚くなというのは無理な話だろう。

「……これは」
「琰の仕業だろうな」
「物取りに遭ったと言ったばかりだというのに、これでは信憑性に欠けるではないか」
「そもそも宮の家具が物取りに遭うこと自体、おかしいんだけどな」
「言うな、白」

 肩を落とした莉々は、痛む頭を押さえながら現実から目を逸らすために離宮から出た。
 夏の緑の匂いを大きく吸い込み、心を落ち着かせる。
 大きく伸びをすると雲一つない青空が広がっていた。
 離宮にさんさんと陽光が降り注ぐ。
 昨日は気がつかなかったが、太陽に照らされ離宮の奥にも道が続いていると分かった。

「少し見て回るか」
「今日こそは湯に浸かりたいところだ」
「風呂を焚く宦官すらいないところをみるに、湯の支度も私がするしかなさそうだが」
「そのくらい朝飯前だろう? いやもう朝飯は食べたな……」

 わざとらしくとぼけた白に、莉々は頬を緩めた。
 白は莉々の反応に満足したのか、楽しげに跳ねながら先導する。
 外周に沿って離宮の裏側へ行くと、そこには馬場が広がっていた。
 厩舎も完備されているようで、莉々は目を瞬かせた。

「……私はもう驚かんぞ」
「ほぉ。これはずいぶんと思い切ったことをしてくれる」
「楽しげに言うな。……よしまず馬の確認だ」
「莉々もこの状況を楽しんでいるではないか」
「当たり前だろう! 馬だぞ!」

 先ほどとは打って変わり、弾んだ声と足取りで莉々は厩舎に向かう。
 期待に胸を躍らせながら近づくと、水の入った桶と野菜の詰まった桶が見えた。
 莉々は高揚する心のまま厩舎に入る。
 緩みきった顔を取り繕うことなく踏み入れたが、目に飛び込んできた馬と人に表情が抜け落ちてしまった。

「来たか」
「なんでいるのよ。皇帝って暇なの?」
「暇ではないな」
「嫌味を真面目に返さないで!」

 またも宦官の衣を着た琰が優しく馬を撫でている。
 鼻を鳴らし喜んでいる馬は、どこからどうみても莉々の愛馬だ。

「お? 馬ってのはお前だったか。元気そうでなにより」

 入り口から動かない莉々の足下をすり抜けた白が馬に声をかける。
 馬は嬉しそうに白を舐めており、莉々の愛馬に違いないようだ。

「どうしてここに私の馬が?」
秋狝(しゅうしん)のためだ。狩猟には夫人も参加が必須だからな」
「そうか」

 莉々の愛馬がこの場にいるということは、琰はあの後どうなったか報告を受けているはずだ。
 琰に問えば、おばばがどうなったのか聞くことができる。
 だが、莉々にはその勇気がなかった。
 縫い止められたかのように動かない莉々を不思議に思ったのか、琰が首を傾げた。

「撫でないのか?」
「……撫でる」

 よたよたと愛馬へ近づき、手を伸ばす。
 すり寄ってきた顔を撫でてやると、また機嫌がよさそうに鼻が鳴った。
 じわりと浮かびそうになった涙を見られたくなくて、莉々は思わずぎゅうっと愛馬に抱きついてしまう。
 しばらく柔らかなたてがみに顔を埋めていると、足音が離れていった。
 つんとした鼻を無理やり押さえ込み、莉々は顔を上げる。

「あの男は?」
「あぁ、それなら――」
「こっちだ」

 琰は馬場へと続く出入り口で佇んでいた。
 手招きをされ、警戒しながらも琰の傍へ足を向ける。

「そんなところに何があると……これは」
「鞍だな」
「見ればわかる。私が言いたいのはそういうことではない」
「いいものを揃えておいたがこれでいいか?」
「おい。話を聞け」

 琰は莉々の言葉を無視して鞍の隣に置かれていた箱を開ける。
 ふわりと漂った交ざりけのない油の香りに、莉々は思わずぎょっと目を見開いた。
 そこにはやはりというべきか、鞍や鐙革(あぶみがわ)などに使う精製獣脂だけでなく、弓用の桐油と蜜蝋が並んでいた。

「手入れ油を用意させた。足りるか?」
「足りるもなにも、こんな質の良い油……使ってもよいと……?」
「狩猟には夫人も出ると言ったであろう? 使え。鈍った牙を見せられては興が削がれるのでな」
「わかった。ありがたくいただこう」
「現金な奴」
「うるさい! こんな良い油は滅多にお目にかかれないんだ! これを使わずして何を使う!?」
「ふっ。では俺は戻る。励めよ」

 小さく笑った琰が厩舎を出ていく。
 うっとりと油を眺めていた莉々だったが、閉じられた扉の音で我に返った。

「……義によって曹操(そうそう)(はな)つことを期待しているのか……?」
「うーん、微妙にすれ違ってる気がするなぁ」
「それ以外の目的で私に物を贈る意味がないだろう!?」
「ふはっ! 不憫な男だなぁ、あいつ」

 けたけたと笑う白に、莉々は眉を寄せた。

 ◇

「やはり秋狝(しゅうしん)に賢妃も出るのね」
「間違いないかと」
「そう。わかったわ。下がっていいわよ」

 莉々専属の侍女は膝を床に付け頭を下げると、命令通り部屋を後にした。
 静まり返った室内で、紅の引かれた唇がにたりと歪んだ。

「ねぇ九尾? わたくしのほうが、あんな女よりも上よね」
「えぇ。あたしが選んだのだから当たり前でしょう?」

 甘く媚びるように囁いた九尾の尻尾は陽炎のように揺れていた。