内々に琰と密約を交わした翌日。
本日付で莉々の専属女官に任命されたという侍女が、嫌々礼装を持ってきた。
曰く、徳妃が朝食会を開くため、莉々は参加しなければならないらしい。
侍女に着替えさせられた莉々は、白とともに後宮の内殿へ案内された。
宮殿にしては質素な造りではあるが、大勢が一堂に会することのできる大きな空間が特徴的だ。
すでに妃嬪は全員そろっているようで用意された案の前で背筋を伸ばしている。
内殿の一番奥には長い案と同じぐらいの長さがある交椅が二つ並んでいた。
(今後宮に夫人は二人しかいない。……あれが私の席か)
探るような視線を隠しもしない妃嬪たちに莉々は内心ため息をつく。
甘い香が焚かれるその空間に色々な香りが混じり合っている。正直、鼻が曲がってしまいそうだ。
しかし莉々はそんな荒れきった心をおくびも出さず、真っ直ぐに前を見据えた。
侍女に促された席へ腰掛ける。
白は莉々の隣に上がると、興味がないと言わんばかりに寝転がった。
(暢気なものだな)
莉々は苦笑の代わりにそっと睫を伏せ、周りと同じように徳妃を待つ。
数分経った頃。
宦官や侍女に連れられた女人が内城の扉をくぐった。居並ぶ妃嬪たちが自然と彼女へと目を向ける。
女人の歩みは静かで、絹の裾が床を掃く音すら計算されているかのようだ。
誰に教わらずとも分かる。
この場の中心となるに相応しい者が現れたのだと。
(彼女が徳妃か)
莉々が薄黄色の瞳を徳妃へと向けると、柳のような眉の下で切れ長の瞳と視線が合う。
ゆったりと細められた彼女の目には、敵意も嘲りといったものは何もない。
白磁のような肌に紅を差した唇が弧を描くと、どこからかほぅっと感嘆が聞こえた。
結い上げられた髪に乗る金細工の歩揺が揺れるたび涼やかな音を立てる。
一分の隙もない化粧も、寸分違わず整えられた裾さばきも、すべてが計算され尽くされているようだ。
誰もが徳妃へと釘付けになっている中で、莉々だけが彼女の足下へと目を向けていた。
(九尾の狐……)
歩く度にゆらゆらと揺れる九つの尻尾。
それは足下を優雅に歩く狐がただの狐ではない証拠だ。
九尾の気配を感じたのか、交椅に伏せていた白が顔を上げた。
白は鼻を数度ひくつかせると、解せないと言わんばかりの声色で呟く。
「あやつ……」
白の声に反応したのは九尾だけでなく、徳妃もだ。
白虎の姿を認めた刹那、完璧に保たれていた微笑みがほんの僅かに引き攣った。
悠然と扇を持っていた指先がこわばる。
だがそれも一瞬のことで、すぐに何事もなかったかのように取り繕っていた。
徳妃が座ると侍女たちが食事を運んでくる。
(今の反応はなんだ? 私がくることは分かっていただろうに)
違和感を抱えたまま、食事会が始まった。
徳妃の隣では毒味役が口にしてから徳妃が箸を付けていたが、莉々に毒味はいない。
それどころか周りの妃嬪たちの器は銀食器だというのに、莉々の食器はただの陶磁器だ。
目に見えた嫌がらせに、白がむくりと起き上がった。
九尾を睨み付けた白の頭を撫で、気にするなと伝える。
呆れたような目を向けられたが知らぬふりを通した。
「あら? 賢妃様。箸が進んでいないようですが、いかがなさいました?」
徳妃はまた美しい笑みを浮かべ、嘲りが乗った声色で問う。
返事をしない莉々に何を思ったのか、徳妃は思い出したように申し訳なさそうな顔を作った。
「挨拶がまだでしたわね。わたくしは徳妃の位をいただいております。玖蘭と申します」
「賢妃、莉々だ」
「莉々様ですね。騎馬民族から召し上げられたと聞き及んでいます。よろしければ後宮の作法を教えて差し上げますわ。もちろん箸の使い方も」
「……お気遣い感謝する。だが私には不要だ」
莉々は箸を持ち、陶磁器に盛り付けられた葱とラクダの蹄の煮込み料理に手を付ける。
舌への刺激もなく毒の混入もなさそうだ。
ひょいひょいと料理を口に運ぶと、腹の飢えが満たされる。
毒味もせずに食事をする莉々がよほど信じられないのか、玖蘭を含めた妃嬪たちは絶句していた。
妙な空気の中料理を食べきった莉々はわざと音を鳴らして箸を置き、立ち上がった。
「食事はすんだ。私は下がらせてもらう」
「後宮に入った者同士、語らおうとは思わないのですか?」
玖蘭から批難の目を向けられ、莉々は肩を竦めた。
「情報交換は望むところではあるんだが……悪いな。私の宮は物取りにあったようでな。どうにかするための時間がいるんだ。少しでも見られる内装にしなければ賢妃の名が泣いてしまう」
すたっと交椅から飛び降りた白を連れ、出入り口へと向かう。
扉をくぐる寸前で莉々は思い出したかのように振り返った。
「私の現状を憂いてくださるなら、何か下賜してくださってもよろしいんですよ? たとえば、女官とか、ね?」
莉々は含みを込めた微笑みを浮かべ、後宮用の言葉遣いで続ける。
「それでは玖蘭様。ご機嫌よう」
凍り付いた空気の中、莉々は両手を体の前で重ねながら軽く片膝を曲げ、腰を落とす。
流れるように宮廷礼をした莉々は体勢を戻すと、今度こそ内殿を出た。
本日付で莉々の専属女官に任命されたという侍女が、嫌々礼装を持ってきた。
曰く、徳妃が朝食会を開くため、莉々は参加しなければならないらしい。
侍女に着替えさせられた莉々は、白とともに後宮の内殿へ案内された。
宮殿にしては質素な造りではあるが、大勢が一堂に会することのできる大きな空間が特徴的だ。
すでに妃嬪は全員そろっているようで用意された案の前で背筋を伸ばしている。
内殿の一番奥には長い案と同じぐらいの長さがある交椅が二つ並んでいた。
(今後宮に夫人は二人しかいない。……あれが私の席か)
探るような視線を隠しもしない妃嬪たちに莉々は内心ため息をつく。
甘い香が焚かれるその空間に色々な香りが混じり合っている。正直、鼻が曲がってしまいそうだ。
しかし莉々はそんな荒れきった心をおくびも出さず、真っ直ぐに前を見据えた。
侍女に促された席へ腰掛ける。
白は莉々の隣に上がると、興味がないと言わんばかりに寝転がった。
(暢気なものだな)
莉々は苦笑の代わりにそっと睫を伏せ、周りと同じように徳妃を待つ。
数分経った頃。
宦官や侍女に連れられた女人が内城の扉をくぐった。居並ぶ妃嬪たちが自然と彼女へと目を向ける。
女人の歩みは静かで、絹の裾が床を掃く音すら計算されているかのようだ。
誰に教わらずとも分かる。
この場の中心となるに相応しい者が現れたのだと。
(彼女が徳妃か)
莉々が薄黄色の瞳を徳妃へと向けると、柳のような眉の下で切れ長の瞳と視線が合う。
ゆったりと細められた彼女の目には、敵意も嘲りといったものは何もない。
白磁のような肌に紅を差した唇が弧を描くと、どこからかほぅっと感嘆が聞こえた。
結い上げられた髪に乗る金細工の歩揺が揺れるたび涼やかな音を立てる。
一分の隙もない化粧も、寸分違わず整えられた裾さばきも、すべてが計算され尽くされているようだ。
誰もが徳妃へと釘付けになっている中で、莉々だけが彼女の足下へと目を向けていた。
(九尾の狐……)
歩く度にゆらゆらと揺れる九つの尻尾。
それは足下を優雅に歩く狐がただの狐ではない証拠だ。
九尾の気配を感じたのか、交椅に伏せていた白が顔を上げた。
白は鼻を数度ひくつかせると、解せないと言わんばかりの声色で呟く。
「あやつ……」
白の声に反応したのは九尾だけでなく、徳妃もだ。
白虎の姿を認めた刹那、完璧に保たれていた微笑みがほんの僅かに引き攣った。
悠然と扇を持っていた指先がこわばる。
だがそれも一瞬のことで、すぐに何事もなかったかのように取り繕っていた。
徳妃が座ると侍女たちが食事を運んでくる。
(今の反応はなんだ? 私がくることは分かっていただろうに)
違和感を抱えたまま、食事会が始まった。
徳妃の隣では毒味役が口にしてから徳妃が箸を付けていたが、莉々に毒味はいない。
それどころか周りの妃嬪たちの器は銀食器だというのに、莉々の食器はただの陶磁器だ。
目に見えた嫌がらせに、白がむくりと起き上がった。
九尾を睨み付けた白の頭を撫で、気にするなと伝える。
呆れたような目を向けられたが知らぬふりを通した。
「あら? 賢妃様。箸が進んでいないようですが、いかがなさいました?」
徳妃はまた美しい笑みを浮かべ、嘲りが乗った声色で問う。
返事をしない莉々に何を思ったのか、徳妃は思い出したように申し訳なさそうな顔を作った。
「挨拶がまだでしたわね。わたくしは徳妃の位をいただいております。玖蘭と申します」
「賢妃、莉々だ」
「莉々様ですね。騎馬民族から召し上げられたと聞き及んでいます。よろしければ後宮の作法を教えて差し上げますわ。もちろん箸の使い方も」
「……お気遣い感謝する。だが私には不要だ」
莉々は箸を持ち、陶磁器に盛り付けられた葱とラクダの蹄の煮込み料理に手を付ける。
舌への刺激もなく毒の混入もなさそうだ。
ひょいひょいと料理を口に運ぶと、腹の飢えが満たされる。
毒味もせずに食事をする莉々がよほど信じられないのか、玖蘭を含めた妃嬪たちは絶句していた。
妙な空気の中料理を食べきった莉々はわざと音を鳴らして箸を置き、立ち上がった。
「食事はすんだ。私は下がらせてもらう」
「後宮に入った者同士、語らおうとは思わないのですか?」
玖蘭から批難の目を向けられ、莉々は肩を竦めた。
「情報交換は望むところではあるんだが……悪いな。私の宮は物取りにあったようでな。どうにかするための時間がいるんだ。少しでも見られる内装にしなければ賢妃の名が泣いてしまう」
すたっと交椅から飛び降りた白を連れ、出入り口へと向かう。
扉をくぐる寸前で莉々は思い出したかのように振り返った。
「私の現状を憂いてくださるなら、何か下賜してくださってもよろしいんですよ? たとえば、女官とか、ね?」
莉々は含みを込めた微笑みを浮かべ、後宮用の言葉遣いで続ける。
「それでは玖蘭様。ご機嫌よう」
凍り付いた空気の中、莉々は両手を体の前で重ねながら軽く片膝を曲げ、腰を落とす。
流れるように宮廷礼をした莉々は体勢を戻すと、今度こそ内殿を出た。


