弑逆契約 〜双牙妃の後宮生存戦略〜

 宮城の西に位置する一画。
 手入れすらされておらず荒れ果てた離宮へと案内された莉々は、白を抱きしめて目を瞬かせた。
 莉々をこの場所まで連れてきた女官はにやにやとした笑みを隠しもせず莉々の様子を窺っている。

「ここが私の離宮?」
「はい」

 白の暖かな毛に顔を埋めるように俯く。
 そんな莉々の反応に女官は笑みを深くした。
 しかし、

「――素敵!」

 ぱっと顔を上げた莉々の表情に、女官の口元が引き攣った。
 宮城に入って初めて見せた満面の笑みだったが、お気に召されなかったらしい。
 端から見ると整えられてすらいない離宮は明らかに嫌がらせのそれだ。
 しかし、蝶よ花よと育てられたお嬢様たちには信じられないだろうが、莉々にはこの場所が桃源郷に見えた。

「本当に素敵だわ。案内してくれてありがとう。貴女は下がっていいわよ」
「はい」

 悔しげな女官の足音がしなくなったことを確認し、莉々は白を地面に下ろした。
 白は鼻をひくひくと動かしながら匂いを確かめているようだ。
 莉々は改めて離宮を見渡す。
 建物自体に痛みが少ないのは、定期的な手入れはされているからだろう。
 雨漏りの心配もなく寝られそうで、莉々は満足げに頷いた。
 広い庭も、窮屈な後宮からはかけ離れているようで気分がいい。
 その上、庭のあちこちで青々と生い茂る草花は食用にも薬にもなるものばかり植えられている。
 庭の隅に井戸があり、飲み水の心配もないだろう。

「白も運動不足にならずにすみそうだ」
「ほれ、中も確認するぞ」

 白が莉々の裾を咥え、離宮にぐいぐいと引っ張っていく。

「わかったわかった。そう急かすんじゃない」

 苦笑しながら離宮に入る。
 調度品一つないそこに、莉々は呆れすら湧かなかった。
 一つ一つ部屋を見て回るが、どの部屋も似たり寄ったりだ。
 唯一残っていたのは架子床(かししょう)だった。

「予想していたが、これまた大胆にやったな」
「寝床が残っていたのは大きくて運び出せなかったからだろうなぁ」
「白、みなまで言うな」

 本来、天蓋のから吊るされているはずのカーテンがないのはご愛敬だ。
 この際布団がないことにも目を瞑ろう。
 白と一緒に寝れば凍えることはない。

「まぁなんとかなるだろう」

 莉々は架子床に腰掛け、体から力を抜いた。
 自身で感じているよりも肩肘を張っていたようで、どっと疲れが押し寄せてくる。

「まだ寝るなよ」
「……あぁ」
「おい。ちゃんと起きておけ。これからどうするつもりだ?」
「もちろんおばばの無念を晴らす」

 莉々は懐から取り出した杖のかけらを握りしめる。
 所々血のついたそれは、唯一の形見だ。
 白に連れられて落ち延びた莉々は、泣くことすらできずにただ皇帝の元へ来た。
 脅威が去り、腰を据えても、莉々は泣けなかった。
 涙腺は壊れてしまったかのようにぴくりとも動かない。

「そうすれば、泣ける気がするんだ」
「……莉々」
「そもそも和睦を結ぼうとしたはずの将軍が、夜襲をかけてくるなど思うものか」

 憂いを吐いた莉々が体を清めようと立ち上がった直後。

「物取りにでもあったのか。ここは」

 突如聞こえた声に、莉々はびくりと肩を揺らした。
 音もなく現れた声の主へ目を向け、ぎょっと目を剥く。

「貴様、どうしてここに」

 そこには先ほどとは打って変わり宦官のような衣を身に纏った琰がいた。

「俺の妃の元に足を運んで何が悪い」
「いかにも忍んできたような装いで来られてもな」
「仕方ないだろう。事は一刻を争う」
「……どういうことだ」

 琰は小さく微笑み、大股で莉々へと近づいてきた。
 不躾にも架子床にどかりと座ると、長い足を組む。

「いきなり尋ねてきたわりに偉そうだな」
「俺をもてなすのはお前の役目だろう?」
「はぁ? 私の名前すら知らぬ貴殿に言われたくはない」
「莉々」
「は」
「お前の名は莉々であろう? 何を驚いている」

 莉々は何とも言えない表情を浮かべ、あっけらかんとしている琰を見た。
 二人の様子を黙って見ていた白がくつりと笑う。

「一本取られたな。莉々」
「うるさい」
「それで? 皇帝がお忍びでなんの用だ?」
「あぁ。お前の望みを叶える代わりに、俺の望みも叶えろ」

 突然の申し出に、莉々は眉間にシワを寄せた。
 目の前の男は何を言い出すのだろうか。
 だが真っ直ぐに莉々を見つめる赤色の瞳に揺らぎはない。
 とんっと架子床に飛び乗った白も、真意を探るように彼の双眸を見つめ――笑った。

「この男の目に嘘偽りはない。いい目だ」
「白虎に言われるとは……。悪い気がしないな」
「先ほどの宣言を聞いていなかったのか? 私は貴殿に牙を剥こうとしているんだぞ? 正気か?」
「もちろんだ」

 琰の節くれ立った手が莉々の手首を取り、彼の首へ導く。

「俺の望みが叶った暁には、この首お前にくれてやろう」

 手に力を入れてしまえば、息の根を止めることができそうなほど無防備すぎるその行為に、莉々は背筋が凍った。
 捨て身の信用の稼ぎ方に内心頭を抱えたくなる。
 それは白も同じだったようで、複雑そうな顔をしていた。
 琰の首に添えられた自身の手を引っ込めた莉々は、これみよがしにため息をつく。

「……わかった。最後まで聞いてやる」
「牙を突き立てる千載一遇の機会だったと思うんだがな」

 首元から手を離された琰がくつくつと笑う。
 自殺願望でもあるのかと疑ってしまいそうな行動だったが、どうやら試されていたらしい。

(抜け目のない男だ)

 莉々がじとりと琰を睨んだ拍子に艶のない白髪が揺れた。
 顔にかかった横髪を払い、莉々は問う。

「それで貴殿の望みは?」
「三ヶ月後。秋狝(しゅうしん)がある。囲場(いじょう)で行われる狩猟大会だ。それが閉幕してから一週間後まで、生き残れ。それが俺の望みだ」

 告げられた望みに、莉々の眉間のシワは深くなるばかりだ。

「意味がわからん」
「今この後宮には神獣を持つ者がお前の他に一人いる。お前が来るまでは皇后に一番近いとされていた徳妃だ」
「ちなみに私の地位は」
「? 賢妃だが」

 心底意外そうな顔で提示された位は莉々には分不相応で、すでに投げ出してしまいたい気分だ。

「ほかに夫人は?」
「いない。嬪は複数人いるが」
「あぁそういう……。まったく一騎打ちとは穏やかじゃないな」

 莉々はげんなりとした声色で呟く。
 面倒だと言わんばかりに顔をしかめたが、琰が気にした様子はなかった。

「琰の名において、俺の望みが叶った暁には莉々の望みを叶えると誓おう」
「私がお膳立てされなければ貴殿を殺せないと、そう言いたいのか」

 地を這うような莉々の声に、琰は目を細め笑った。
 心底楽しいと言わんばかりに。

「あぁ。俺の喉に噛みつきたくば、この後宮で生き残ってみせろ」
「言われるまでもない。その喉、必ず食い破ってやるわ」