その日の夜。
琰は約束通り、莉莉の宮へ訪れた。
それも正式な手順を踏んだお渡りとして。
甘い香が焚かれる中綺麗にめかし込まれてしまった莉莉は、そわそわと落ち着かない気持ちで琰を迎え入れた。
宮へ足を踏み入れた琰が目を丸くしたのは、間髪入れずに白が朱雀を咥えてどこかへと行ってしまったからだろう。
「驚いた。馬子にも衣装か」
「……喧嘩なら買うぞ」
「いや、俺はこの首を差し出しにきたつもりだったんだが、こうも着飾った莉莉を見られるとは……予想外でな」
薄い夜着をじろじろと見られ、莉莉はじとりと目を向けた。
琰は楽しそうに笑うと、腰に帯刀していた剣を鞘ごと莉莉へと渡した。
「今日で契約は終了だ。お前は俺との約束を守った。だから次は俺が約束を守る番だ」
琰は莉莉に剣を握らせ、真っ直ぐに見てくる。
それは今から殺される男の目ではない。
莉莉も力強く見つめ返し、確認の言葉を舌に乗せた。
「本当にいいんだな」
「あぁ」
「最後に聞きたい。なぜおばばを助けた?」
「余計な犠牲は払わん主義でな」
「私を独房に入れたのも?」
「あれより安全な檻が宮中になかった。かといってお前を野放しにすれば計画通りに進まないと確信していた」
「私はじゃじゃ馬か」
「その自覚がないとは言わせんぞ。だがそうだな、強いて言えば、俺の予想を超える唯一の女ということだ」
「なんだ、それは……」
小さく笑った琰がもう喋ることはないと言わんばかりに目を閉じた。
ごくりと喉が鳴ったのはどちらだったか。
莉莉は手に持ったままの鞘を握りしめる。
一歩、琰に近づいた。
この上なく無防備な姿だ。
今から殺されるというのに、肩肘のこわばりもない。
もう一歩、琰に近づく。
莉莉が近づいても伏せられた睫ひとつ震えない様は、すでに覚悟は決まっていると言わんばかりだ。
どくどくと莉莉の心臓が脈打つ。
さらにもう一歩近づけば、彼の体に触れることのできる距離まで近づいた。
息をすることすら憚られるような空気の中、莉莉は琰の襟元へ手を伸ばす。
手触りの良い絹が莉莉の手で歪んだ。
莉莉の口から小さな吐息が漏れる。
閉じられた赤い目が開かれる気配はない。
脳裏に蘇ったのはおばばの手紙だ。
双牙の一族が誇りとする、あり方。
(いや、それがなくとも私は……)
莉莉は握り込んだ襟元を自身へと引き寄せる。同時に床へ落ちた剣がかしゃんと音を立てた。
唇に柔らかな感触が伝わる。
真っ赤な瞳を零れんばかりに見開かせた琰と視線が絡んだ。
柔らかく触れただけの、ほんの一呼吸ほどの口づけだったが、よほど衝撃的だったらしい。
そっと身を離したが、琰はこれまで見たことのない色を目に宿したまま動かなかった。
己の首を差し出すことにすら躊躇のなかった男が、たかが口づけ一つにここまで呆気なく言葉を失うとは。
「……琰?」
呼びかけても返事がない。
琰の薄く開いたままの唇から掠れた息だけが漏れる。
動揺とかけ離れた男が、今は迷子のように莉莉を見ていた。
噴き出しそうになるのを堪え、莉莉は追い打ちをかけるように囁いた。
「――牙は立てた。だから私が死ぬまで、勝手に死ぬことは許さん」
ようやく我に返ったのか、琰の喉がごくりと鳴る。
「……重い、刑だな」
震える声で紡がれたその一言は、これまで聞いたどの台詞よりも、確かな熱を孕んでいた。
琰は莉莉の存在を確かめるように頬をなぞる。
「謹んで受けよう。俺の隣はお前だけのものだ」
「あぁ」
どちらからともなく目を閉じられる。
唇がもう一度触れる寸前――
「莉莉! ようやっとくっついたか!」
「っ、白虎! あなたはなんでそう後先考えず飛び込んで――あ」
――飛び込んできた神獣たちに、莉莉と琰の顔は真っ赤に染まった。
琰は約束通り、莉莉の宮へ訪れた。
それも正式な手順を踏んだお渡りとして。
甘い香が焚かれる中綺麗にめかし込まれてしまった莉莉は、そわそわと落ち着かない気持ちで琰を迎え入れた。
宮へ足を踏み入れた琰が目を丸くしたのは、間髪入れずに白が朱雀を咥えてどこかへと行ってしまったからだろう。
「驚いた。馬子にも衣装か」
「……喧嘩なら買うぞ」
「いや、俺はこの首を差し出しにきたつもりだったんだが、こうも着飾った莉莉を見られるとは……予想外でな」
薄い夜着をじろじろと見られ、莉莉はじとりと目を向けた。
琰は楽しそうに笑うと、腰に帯刀していた剣を鞘ごと莉莉へと渡した。
「今日で契約は終了だ。お前は俺との約束を守った。だから次は俺が約束を守る番だ」
琰は莉莉に剣を握らせ、真っ直ぐに見てくる。
それは今から殺される男の目ではない。
莉莉も力強く見つめ返し、確認の言葉を舌に乗せた。
「本当にいいんだな」
「あぁ」
「最後に聞きたい。なぜおばばを助けた?」
「余計な犠牲は払わん主義でな」
「私を独房に入れたのも?」
「あれより安全な檻が宮中になかった。かといってお前を野放しにすれば計画通りに進まないと確信していた」
「私はじゃじゃ馬か」
「その自覚がないとは言わせんぞ。だがそうだな、強いて言えば、俺の予想を超える唯一の女ということだ」
「なんだ、それは……」
小さく笑った琰がもう喋ることはないと言わんばかりに目を閉じた。
ごくりと喉が鳴ったのはどちらだったか。
莉莉は手に持ったままの鞘を握りしめる。
一歩、琰に近づいた。
この上なく無防備な姿だ。
今から殺されるというのに、肩肘のこわばりもない。
もう一歩、琰に近づく。
莉莉が近づいても伏せられた睫ひとつ震えない様は、すでに覚悟は決まっていると言わんばかりだ。
どくどくと莉莉の心臓が脈打つ。
さらにもう一歩近づけば、彼の体に触れることのできる距離まで近づいた。
息をすることすら憚られるような空気の中、莉莉は琰の襟元へ手を伸ばす。
手触りの良い絹が莉莉の手で歪んだ。
莉莉の口から小さな吐息が漏れる。
閉じられた赤い目が開かれる気配はない。
脳裏に蘇ったのはおばばの手紙だ。
双牙の一族が誇りとする、あり方。
(いや、それがなくとも私は……)
莉莉は握り込んだ襟元を自身へと引き寄せる。同時に床へ落ちた剣がかしゃんと音を立てた。
唇に柔らかな感触が伝わる。
真っ赤な瞳を零れんばかりに見開かせた琰と視線が絡んだ。
柔らかく触れただけの、ほんの一呼吸ほどの口づけだったが、よほど衝撃的だったらしい。
そっと身を離したが、琰はこれまで見たことのない色を目に宿したまま動かなかった。
己の首を差し出すことにすら躊躇のなかった男が、たかが口づけ一つにここまで呆気なく言葉を失うとは。
「……琰?」
呼びかけても返事がない。
琰の薄く開いたままの唇から掠れた息だけが漏れる。
動揺とかけ離れた男が、今は迷子のように莉莉を見ていた。
噴き出しそうになるのを堪え、莉莉は追い打ちをかけるように囁いた。
「――牙は立てた。だから私が死ぬまで、勝手に死ぬことは許さん」
ようやく我に返ったのか、琰の喉がごくりと鳴る。
「……重い、刑だな」
震える声で紡がれたその一言は、これまで聞いたどの台詞よりも、確かな熱を孕んでいた。
琰は莉莉の存在を確かめるように頬をなぞる。
「謹んで受けよう。俺の隣はお前だけのものだ」
「あぁ」
どちらからともなく目を閉じられる。
唇がもう一度触れる寸前――
「莉莉! ようやっとくっついたか!」
「っ、白虎! あなたはなんでそう後先考えず飛び込んで――あ」
――飛び込んできた神獣たちに、莉莉と琰の顔は真っ赤に染まった。


