弑逆契約 〜双牙妃の後宮生存戦略〜

 視界の奥で炎が弾ける。
 天幕が轟々と燃え盛り、夜の闇を嘲笑うかのように照らしていた。
 黒煙は夜空と混じり合って消えてゆく。その様すら非現実的で脳が理解を放棄している。
 ひりつく喉から浅い吐息しか吐き出せず、莉々(りり)は目の前の光景を疑った。
 野営地を囲む兵達が掲げるのは、朱雀の紋様の旗だ。
 それは莉々たち双牙(そうが)の一族と和睦のため交渉にきた朱陽国(しゅようこく)を表している。
 だが、昼間外交に訪れた禁軍の将軍との交渉は上手く進み、明日の早朝返事をするはずだった。
 だというのに、なぜ朱陽国の兵たちは双牙の民たちを襲っているのだろうか。

「どうして……?」

 愕然と呟くと、足下からうなり声が聞こえた。
 莉々を急かすように足にこの双牙の一族の守り神、白虎が体当たりをした。

(はく)
「お前の役割はなんだ」

 白の言葉に莉々は奥歯を噛み締め、指笛を鳴らす。
 白を素早く抱き上げると、駆けてきた馬へと飛び乗った。
 愛馬を走らせながら、周りの状況を把握していく。

(血の臭いはしない。まだ、大丈夫だ)

 莉々は一度大きく息を吐くと、ゆっくり息を吸い込んだ。
 じわりと汗の滲む手のひらが気持ち悪い。
 金属音が激しい方へと向かえば、目当ての人物がその中心で守られていた。

「――おばばっ!」

 背後から近づく敵に馬を突進させ、目を丸くしたおばばの隣に莉々は着地する。莉々の隣には白も綺麗な着地を決めていた。
 莉々の背丈の半分ほどしかないおばばは、大きな杖で体を支えながらしっかりと立っている。
 見たところ怪我もない。

「莉々。白虎様」
「私が応戦する。おばばと白は私が守るわ」

 腰に下げていた剣を抜き、構える。
 莉々の背後ではいつでも任せろと言わんばかりに愛馬が鼻息を荒くしていた。
 足裏に力を込め、一足飛びに間合いを詰める。
 敵の剣をいなし、得物を弾き飛ばす。
 峰打ちで意識を刈り取っていくと、ばちばちと場違いな拍手の音が鼓膜を震わせた。

(なに……?)

 燃える炎が照らす敵たちの影が左右に割れる。それはまるで誰かを通すための道のようだ。
 確かな足取りで敵の間を通り、莉々とおばばの前で止まったのは体躯のがっしりとした男だった。
 逆光の中で、男の口元がいやらしくにたりと歪む。

「皇帝陛下の勅命である。双牙の一族は御しがたしと判じられた。一族は皆殺しだ。だが聖獣白虎を明け渡すのであれば見逃すとも仰せだ」
「っ!?」
「おや。昼間とお話が違うようですな?」

 一族の者たちと莉々は息を呑んだ。
 だがおばばは何食わぬ顔で問い返すと、大きな杖をドンッと地面に突き立てる。

「はて、そうでしたかな?」
「和睦の証に我が孫を後宮へと仰っていたのをもうお忘れのようじゃな」

 呆れたようにため息をついたおばばが癪に障ったのか、男が舌打ちを零した。
 男の品定めをするような視線に、莉々は思わず剣の柄を強く握りしめる。
 じろじろと不躾な視線が往復すると、男は鼻で笑った。

「はっ野蛮な女を後宮に入れられるわけがなかろう?」
「……なるほどのぉ」
「? おばば?」

 したり顔のおばばに、莉々は首を傾げた。
 おばばのしわくちゃな手が得物を持つ莉々の手と重なる。
 目だけでしゃがめと言われてしまい、莉々は片膝をついた。
 男が訝かしげな視線を向けてくるが、おばばは気にしていないようだ。

「莉々。よく聞け」

 それは莉々の耳にだけ届かせるような小さな声だった。
 返事の代わりに目を一度瞬かせると、おばばは満足げに笑う。

「莉々。白虎様を頼んだぞ」

 その一言でおばばが何をしようとしているのか、理解してしまった。
 それは白にも伝わったのか、莉々の足下で毛を逆立てて唸り、今にも飛びかかりそうだ。
 目の前の男以外は白のうなり声で及び腰になっている。

「おばば。私に宣言させて」
「あぁ」
「我ら双牙の一族は白虎と共に生きる民。白のみを明け渡すなどありはしない!」

 莉々の凜とした声が、草原の闇に広がっていく。
 水面に広がる波紋のように、双牙の一族たちの士気が持ち直したと肌に伝わる空気で分かった。
 にたにたと笑う男は残念ながら感じることができなかったようだが。

「交渉決裂ですな」
「いいや? 我ら一族は、貴国の傘下に降る」
「……は?」

 驚愕に染まったのは男だけで、ありえないと口元が動く。
 だが動揺は寸秒のことですぐに顔色が変わった。

「我が孫が言ったであろう? 白虎様のみを明け渡す気はないと」

 ひくりと男の顔が引き攣った。

「よかろう。陛下には私から伝えておこう。白虎を手放さなかったために、一族は皆殺しになったと」

 男が小さく口笛を鳴らせば、じゃらりと嫌な音が夜の闇を切り裂くように空気を裂いた。
 莉々は反射的に音のした方へと剣を突き出す。
 しかし、飛んできた古びた鎖は剣をすり抜け、白に巻き付いた。
 その鎖は白から自由を奪うかのように四肢へと伸びる。

「なっ!?」
「ひひひっ! 神獣捕縛の法具の威力は本物のようだなぁ」

 男がけたけたと笑う。
 神獣捕縛の法具だと告げられた鎖は、みるみるうちに白の自由を奪っていく。
 慌てて白を抱き上げようとした莉々だったが、石になってしまったかのように重く、持ち上げられなかった。

「傘下へと降ると告げたというのにっ! その結果がこれかっ!」

 莉々が白を庇うように覆い被さり、男を睨み付ける。
 男は笑みを深くするだけだ。
 悔しげに顔を歪めた莉々の視界から男を消すようにおばばの杖が掲げられた。

「貴殿の思い通りにはいかせんよ!」

 おばばが白へ杖をかざした瞬間。
 白を捕らえていた法具にひびが入った。
 同時におばばの腕がひび割れ、血が滲む。

「え」

 法具に一つ傷が入るとおばばにも傷が増える。おばばの傷がそれと連動しているのは、誰の目にも明らかだった。
 白を捕らえる法具が破壊されたとき、何が起こるかも明白だ。
 だがおばばは痛みを感じていないのか、普段と同じ優しげな笑みを浮かべている。

「お、ばば……?」
「莉々。真に守らねばならぬものを見誤るでないぞ」

 この場に似つかわしくないほど穏やかすぎる声色に、莉々はひくりと喉が引き攣った。
 まるで今生の別れのような言葉だ。
 嫌だと震える手を伸ばしたが、莉々の腕がおばばに届くことはなかった。
 おばばを抱きしめるはずの両腕には白と杖のかけらが投げられてしまったからだ。
 法具が、おばばが壊れる直前、莉々は周りの一族たちに引っ張られ、おばばから離された。

「行け! 莉々を後宮へ……!」

 法具の効力が切れると、大きくなった白に子猫のごとく咥えられた。
 風よりも早く駆ける白の口元で莉々は力一杯暴れる。

「おばばっ! 離せ! おばばっ、おばば――!!」

 だが、莉々の力では白から逃れることはできず、遙か後方でまた炎が燃え上がったのを見ているしかなかった。
 夜の闇の中で爛々と輝き続ける炎を、莉々は生涯忘れないだろう。