山吹家は、古くからあやかしを祓ってきた退魔師の名門だった。
藍原家ほどではないものの、その名は広く知られ、代々優れた術者を輩出している。
長女として生まれた香澄もまた、幼い頃から厳しい鍛錬を受けて育った。
──……だけど。
何年修行を積んでも香澄があやかしを祓える日は来なかった。
山吹家の当主であり長年退魔師として活動する父はいつしか妹だけに術を教えるようになり、見切りを付けられた香澄は使用人たちに混ざって力仕事をするのが当たり前となった。
そうして妹が護符の扱いを覚える頃には、香澄は成人男子顔負けの腕力を身につけていた。
「妹は父の正式な後継ぎとなり、私はその護衛としてこれまで仕えてきました」
冷や汗をかきながらも腰を据えて聞く久遠に、香澄は淡々と語る。
──生まれ持った使命が違ったんだ。
──あの子は妖を祓って、私はその背を守る。
『無能』と罵られ、あやかしの攻撃の盾にされて痛い目を見ても、そう自分に言い聞かせてきた。
「ある日のことです」
香澄は障子へ視線を向ける。
風に揺られた若葉の影が、さらさらと音を立てた。
「いつもより手強い相手のようでした。妹の術をものともせず突進してきたあやかしが、あの子に牙を剥いて──」
その日の光景が脳裏によみがえる。
鋭い爪。
土煙。
悲鳴。
妹の身体を覆う黒い牙。
考えるより先に身体が動いていた。
「気づけば私は拳を握り……あやかしを殴り飛ばしていました」
鈍い衝撃音。
妹の術を難なく退けたほどの巨体が吹き飛び、地面へ叩きつけられる。
静まり返る村人たち。
妹も、父も、母も──あっけにとられ口を開かなかった。
「私としては妹を守ったつもり、だったのですが」
香澄は長いまつ毛を伏せる。
「その日を境に、皆の私を見る目が変わりました」
『人間が妖を殴り飛ばせるわけがない』
『あれは化け物だ』
『山吹家にあやかしが紛れ込んでいる』
そんな噂が狭い村へ広がるのに時間はかからなかった。
父は苦々しい顔で呟いた。
『やはり種違いであったか』
母は何も言わず、ただ唇を噛む。
香澄を丈夫な盾として扱っていた妹でさえ、以前ほど近寄らなくなった。
守るために振るった拳は、気付けば香澄の居場所を壊していた。
「……」
部屋に静寂が落ちる。
久遠は言葉を失ったようだが──その沈黙が責めるものではないことだけは、不思議と伝わってきた。
“山吹 香澄はれっきとした人間である”。
一方の久遠には、それが分かっていた。
退魔師はあやかしを見分ける。
霊力だけではない。
長年の修行で培った感覚が、人と妖の境界を教えてくれる。
目の前の女性から感じる気配は、紛れもなく人のものだった。
──あやかしを殴り飛ばしたっていう話が本当なら、普通ではないかもしれないけど。
──っていうかこの人さらりと言ってるけど、あやかしを殴るって相当な離れ業だぞ?
「藍原様ほどのお方でしたら、私が人間かどうかは分かると思います」
「あ、ああ。アンタは間違いなく人間だ」
水を向けられそれらしく頷く久遠も、内心穏やかではない。
──ほんとに霊力がないならあやかしに触れもしないはずなんだけどなぁ。
──彼女のお父上もなんとなく分かってて……厄介払いのつもりでこの縁談を持ってきたのかも。
「ですがいくら藍原様の証言でも、家族も村の人たちもすぐには信じないでしょう」
ひっそりとため息をつく久遠をよそに、香澄は続ける。
「ですので」
ここで座卓に額が付くか付かないかくらいに深々と頭を下げて、言う。
「一年ほど時間をかけて、私が人間であることを証明していただきたいのです」
『どんな手を使っても構わない』
『君が生身の人間だと証明出来たら、いっしょに逃げよう』
村人ですらめったに立ち寄らない雑木林の傍。
香澄の手を握り、そう告げた男の存在は──……久遠が知る由もない。
──私は“あの人”との未来だけを支えにここまで来た。
予想とは斜め上の要求に、面食らったのは久遠である。
──結婚の条件が、彼女が人間だと証明するだけ?
──しかも……一年経ったら離縁しても構わないって?
頭の中で腕を組み考える。
久遠には結婚願望というものがない。
あやかし退治という理解を得難い家業に就き、あまつさえ羽虫ごときに怯えるような男に夫婦生活など務まるわけがない。
なのに親族はことあるごとに見合いを組み、『いい加減身を固めろ』と迫ってくる。
──だけど一度結婚して、すぐに離縁したとなれば?
“ご縁があったので結婚したが上手くいかなかった”。
そう言い訳できる。
親族も、離婚歴のある者を未婚の女性に無闇やたらと勧めるわけにもいくまい。
うまくいけばもう二度と縁談は来ないだろう。
──悪くない。
──むしろ願ったり叶ったりだ。
「……分かった」
久遠は脳内で組んだ腕を解いた。
「その条件を受ける」
香澄は目を見開く。
思ったよりあっさりと了承されたからだ。
「あれ?俺、何か変なこと言った?」
「いえ……。妙な条件だと自覚しているので、問い質されるかと」
「俺にとっても都合が良いからね」
「そう、ですか」
──藍原様は結婚自体に抵抗があるらしい。
──事情は分からないけど。
久遠の反応である程度察した香澄だが、なんとも言えない申し訳なさがこみ上げる。
──この縁談を駆け落ちに利用すると思うと罪悪感が湧く。
──せめて、私に出来ることがあれば。
「……私ばかり条件を付けるというのも心苦しいので、藍原様も何かあればお申し付けください」
「俺?そうだなぁ……」
久遠は顎に手を当て考えた。
──正直、結婚してくれるってだけでだいぶ助かるけど。
──何もないっていうのも気にさせちゃうかな?
「ああじゃあ、あやかし以外の脅威から俺を守ってほしい」
つい最近、護衛の者に『虫が出る度に自分らを呼ぶのはやめてくれ』、『我々は害虫駆除のために修行を積んだわけではない』とお叱りを受けたばかりだ。
先ほどの羽虫を涼しい顔で逃がし……あやかしを素手で殴り飛ばした実績のある彼女なら、それくらい造作もないはず。
「あやかし以外の……?」
我ながら妙案だと満足気な久遠に、香澄が首を傾げる。
「虫のことですか?」
「虫もだけど。あと雷と暗闇と大きな音と、それから蛇と犬……」
「……」
「あっ!今、“こんな奴が当主で藍原家大丈夫か”って思っただろ!!」
ひとつひとつ指折り数える久遠に突き刺さる、香澄の冷ややかな視線。
「そこまでは思っていません」
「近しいことは思ったんだな!?」
「……否定はしませんが……」
「ほらぁ!」
分かりやすく項垂れる久遠に、香澄は思う。
──難儀な人。
肩を落としたままの久遠も、心中で呟く。
──なんて不躾な女性だろう。
──今まで破談になったご令嬢たちですら、俺の前ではもう少し取り繕ってたぞ!
障子の隙間を通り抜けた初夏の風が、香澄の髪を撫でる。
かくして、どこか噛み合わない二人の期限付きの契約結婚が幕を開けた。



