物理最強の“無能女”、肝心な時にしか役に立たない名門退魔師に娶られる。


 庭園を渡る風が、青々とした若葉を静かに揺らした。
 縁側の向こうには手入れの行き届いた池が広がっており、中では色鮮やかな錦鯉がのびのびと尾を振る。

「……」
「……」
 
 名家同士の見合いの席らしく、屋敷には張り詰めた空気が(ただよ)っていた。
 互いの親族が『あとは若いお二人で』などと示し合わせ、退室してすぐのこと。

「ひぃっ!」
「……?」

 それまでの沈黙は情けない悲鳴によってあっけなく打ち破られ、状況を知るべく山吹(やまぶき) 香澄(かすみ)は静かに顔を上げた。
 “烏の濡れ羽色”という表現がしっくりくる(つや)やかな髪がはらりと頬を落ち、凛とした美貌を際立たせている。

「たっ、たたたた畳にっ……」

 一方で香澄の向かいに座る男は、信じられないものでも見たように顔を青ざめさせていた。

「む、虫……!」

 存外がっしりと骨ばった(ゆび)が、ぶるぶると震えながら畳の一点を指差す。
 その先には黒く小さな羽虫が一匹。
 どこからか迷い込んだのだろう、畳の上をのそのそと歩いている。

「虫、ですね」
「うわぁ飛んだ!!」
 
 香澄は天井へと飛び立った虫と、座布団から転げ落ちた男を交互に見る。

 ──なるほど。
 ──原因は“これ”に違いない。

 見合い相手の青年は、誰もが思わず目を奪われるほど整った容姿をしていた。
 耳に掛かる銀髪は陽光を受けて淡く輝き、緩やかな双眸(そうぼう)は舞台役者のような華やかさを宿している。
 (数刻前までの)背筋を伸ばして座る姿は絵巻物から抜け出してきた貴公子のようで、見合いの席に顔を出した香澄の妹も頬を染めて見惚れていたほどだ。……『お姉様なんかにはもったいない』とこぼしていたのもばっちり聞いた。

 退魔師の名門、藍原家当主・藍原(あいはら) 久遠(くおん)

 歴代最強の能力と、優れた容姿を持つ男。
 けれど見合いは全敗中。
 そんな前評判を聞いていた香澄も、初対面では“全敗……?”と首を傾げた。だけども。

「見てる見てる見てる!あの虫、俺のこと睨んでる!!」

 この姿を見たら納得せざるをえない。
 虫はただ天井を()っているだけなのに久遠は、畳を擦るようにじりじりと後退(あとずさ)りしている。

「飛びかかる気だ!俺がデカい上に(やかま)しいから!!」

 ──そう思うなら静かにすれば良いのでは……?

 そんな指摘を喉の奥にしまい、香澄は立ち上がる。

「失礼します」
「きっ、危険ですよ!」
 
 久遠が焦った声を上げたのとほぼ同時に、香澄は迷いなく虫の方へ手を伸ばした。

「虫さん、ここに来たら駄目ですよ」
 
 しっ、しっ、と開いた障子の向こうへ追いやるように手を振れば、小さな羽虫は春風に乗ってあっという間に姿を消す。

「もう大丈夫です」
「──はぁっ!」

 障子を閉めた香澄が席へと戻るのを見届けた久遠は深々と息を吐き、胸を押さえた。

「た、助かった……」

 よほど怖かったのか、額にはうっすら汗まで浮かんでいる。

 ──私を試した……わけではなさそう。
 ──本当に虫が苦手なんだ。

 退魔師といえば、あやかしを(はら)い、魔を退ける者。
 そんな人物が羽虫一匹でここまで狼狽(うろた)えるとは。
 
「……アンタも(あき)れただろ」
「……呆れた……?」

 身に覚えのない抗議(こうぎ)に、香澄は目を(またた)かせる。

「俺のこの(ざま)を見て、(さげす)まない女性はいなかった」
「蔑むだなんて……。あんな小さな虫に毎回怖がっていたら大変だなと思っただけです」
「っ、馬鹿にしてる!」

 香澄は正直な感想を言っただけで、欠片(かけら)の悪意もなかったが──こちらの意図(いと)しない方向で受け取ったらしい久遠が両手で頭を抱える。

「そういう反応が一番刺さるんだよ……!あんなちっちゃくて何考えてんのか分かんない奴が部屋をうろついてたら怖いだろっ、おまけに空も飛べるんだぞ!?」
「羽虫にそこまでの脅威(きょうい)を感じたことがないのでなんとも……」
「どうせ」
 
 早々に頭から手を離したと思えば、久遠は力なく肩を落とす。

「どうせ、アンタも情けない男はイヤだって断るんだろ。今までのご令嬢たちみたいに……」

 その声は、先ほどの慌てぶりとは違ってひどくか細かった。
 何度も同じことを経験してきた者の諦めが滲んでいる。

「……」
 
 香澄は無言で久遠を見つめた。
 障子の外では仕事に(いそ)しむ女性たちの足音が聞こえ、(つがい)であろう二羽の小鳥のさえずりが舞う。
 穏やかな日。
 あたたかな空気の中で、ゆっくりと口を開く。

「いえ」

 たった一言だったが、すっかり(よど)みきった久遠の瞳に(わず)かな光が差した。

「私にも事情がありますので……」

 香澄はまっすぐ久遠を見据えたまま、続ける。


「条件付きにはなりますがこの縁談──お受けしたいと思っています」