桔梗が高倉軍の背後に姿を見せたのは、出陣して三日後の深夜だった。
「高倉軍と佐山軍の戦いは膠着状態の様です」
高倉軍が見下ろせる小山の森の中で、桔梗は篝火も焚かず暗闇の中で情報収集をしていた。
「どういう事でしょうか。高倉軍が全軍で突撃すれば、挟撃されている佐山軍は壊滅すると思いますが」
部下の一人が漏らした言葉に、桔梗が高倉軍の様子を見下ろしながら答えた。
「簡単な事だ。高倉氏と小川氏は共通の敵を滅ぼす為に一時的な同盟を組んでいるに過ぎない。佐山氏を滅ぼして領地を分割した後は、再び敵同士だ。その事を互いに理解している。故に、極力犠牲を出したくないのだよ。私なら早急に蹴散らし、佐山氏を配下に収め一気に小川氏を叩く―――――だが、高倉と小川が愚かだった御蔭で、こうして間に合ったのだがな」
桔梗はこちらに全く気付かないまま、厭戦気分が蔓延する高倉軍を眺める。当初はあったかも知れない規律は乱れ、周囲の警戒どころか、前面の佐山軍に対してすら注意を怠っている。この様子であれば例え二千の兵であろうが、桔梗は負ける気がしなかった。
「よし、暫し休息を取れ。明け方に敵軍の真ん中に突撃するぞ」
「「「「「御意」」」」」
それから二刻余り後、高倉軍の篝火は桔梗が放った数人の兵によって全て消失した。闇は一層濃くなり、暗がりに慣れなければ何も見えない程だった。
桔梗は二百の手勢に向かい、最後の作戦を命じる。
「作戦は明瞭だ。以前読んだ兵法書に記載されていた事をよく覚えておけ。
兵は詐を以て立ち、利を以て動き、分合を以て変を為す者なり。故に其の疾きこと風の如く、其の徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如く、知り難きこと陰の如く、動くこと雷震の如く、郷に掠めて衆に分ち、地を郭めて利を分ち、権を懸けて動く―――――つまり、静かに移動し、素早く敵を討つ。そういう事だ」
曖昧な表情の兵達を見渡し、桔梗は苦笑して改めて指示を出した。
「よし、近くまで静かに移動し、一気に蹴散らすぞ」
兵達は声を発さずに、静かに頷いた。
耳が痛くなる程の静寂に包まれ、高倉軍に肉薄した北方軍は桔梗の合図によって雪崩れ込む。
何が起きているのか分からないまま、悲鳴を上げる事も出来ずに高倉軍は数百人を討たれた。その後の戦闘も一方的だった。甲冑も見に着けずに眠っていた兵が大半で、正に風の様に攻め込んで来た北方軍によって、高倉軍は烈火の如く攻め立てられた。その為、態勢を整える暇も無く、見るも無残な状態で敗走した。
北方軍は深追いする事なくその場に留まり、夜明けと共に佐山軍に使者を送った。
<こちら側に陣取っていた高倉軍は蹴散らした。今のところ、そちらに攻め込む予定は無いが、可及的速やかにこの場から撤退しない場合はこの限りではない>
桔梗が書面を送って一刻もしない内に、佐山軍は陣を解体して自領へと引き返して行った。全軍で当たれば、小川軍に負ける事はないだろう。
その頃、彦十郎は出陣の準備を進めていた。
今度こそは、桔梗の元へ駆け付けると決意を固めた。
桔梗への態度は好意そのものである事を、綾乃から教えられた。
恐らく、佐山の侵攻を阻み、凱旋した姿を目にした時に憧憬の念を抱いたのだろう。かつて、己が目指していた場所に佇む姿に、心を奪われたのだ。それであれば、そこまでの思いだった。だが、一日の僅かな時間であっても彦十郎は素の桔梗に出会う。普段の桔梗は戦場での凛々しさではなく、可憐さを纏う女性だ。侍女や側仕え、領民にまで優しく接して慈しむ。その笑顔が人々を虜にし、その勇ましさに歓喜する。その渦に彦十郎も巻き込まれた。
だが、彦十郎はその他大勢ではない。契約上ではあっても夫である。それ故に、他人に向けられた笑顔に苛立ち、形式的な会話をする桔梗が腹立たしかった。
その様子を一番近くで見ていた綾乃は、穏やかな笑顔を見せて告げた。
「そういう、愛の形もあると思います。
いえ、私に対する彦十郎様の御心を疑ってなどいません。私の事は側に居て、生命を懸けて守りたいと御思いなのは分かっています。帰郷様に対しては、並んで一緒に歩みたいと、そう御思いなのでしょう。互いに切磋琢磨して、生害を共に生きたいと。
私の気持ちは、以前お伝えした通りです。家柄や対外的な事を考えましても、正室は桔梗様。私は側室で大丈夫です。ただ、愛情は均等に御願い致しますね」
「後の事は任せたぞ」
彦十郎は綾乃を強く抱き締めると、甲冑を鳴らして城門に向かう。
「お任せ下さい」
綾乃はそう応えると、ゆっくりと頭を下げた。
「高倉軍と佐山軍の戦いは膠着状態の様です」
高倉軍が見下ろせる小山の森の中で、桔梗は篝火も焚かず暗闇の中で情報収集をしていた。
「どういう事でしょうか。高倉軍が全軍で突撃すれば、挟撃されている佐山軍は壊滅すると思いますが」
部下の一人が漏らした言葉に、桔梗が高倉軍の様子を見下ろしながら答えた。
「簡単な事だ。高倉氏と小川氏は共通の敵を滅ぼす為に一時的な同盟を組んでいるに過ぎない。佐山氏を滅ぼして領地を分割した後は、再び敵同士だ。その事を互いに理解している。故に、極力犠牲を出したくないのだよ。私なら早急に蹴散らし、佐山氏を配下に収め一気に小川氏を叩く―――――だが、高倉と小川が愚かだった御蔭で、こうして間に合ったのだがな」
桔梗はこちらに全く気付かないまま、厭戦気分が蔓延する高倉軍を眺める。当初はあったかも知れない規律は乱れ、周囲の警戒どころか、前面の佐山軍に対してすら注意を怠っている。この様子であれば例え二千の兵であろうが、桔梗は負ける気がしなかった。
「よし、暫し休息を取れ。明け方に敵軍の真ん中に突撃するぞ」
「「「「「御意」」」」」
それから二刻余り後、高倉軍の篝火は桔梗が放った数人の兵によって全て消失した。闇は一層濃くなり、暗がりに慣れなければ何も見えない程だった。
桔梗は二百の手勢に向かい、最後の作戦を命じる。
「作戦は明瞭だ。以前読んだ兵法書に記載されていた事をよく覚えておけ。
兵は詐を以て立ち、利を以て動き、分合を以て変を為す者なり。故に其の疾きこと風の如く、其の徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如く、知り難きこと陰の如く、動くこと雷震の如く、郷に掠めて衆に分ち、地を郭めて利を分ち、権を懸けて動く―――――つまり、静かに移動し、素早く敵を討つ。そういう事だ」
曖昧な表情の兵達を見渡し、桔梗は苦笑して改めて指示を出した。
「よし、近くまで静かに移動し、一気に蹴散らすぞ」
兵達は声を発さずに、静かに頷いた。
耳が痛くなる程の静寂に包まれ、高倉軍に肉薄した北方軍は桔梗の合図によって雪崩れ込む。
何が起きているのか分からないまま、悲鳴を上げる事も出来ずに高倉軍は数百人を討たれた。その後の戦闘も一方的だった。甲冑も見に着けずに眠っていた兵が大半で、正に風の様に攻め込んで来た北方軍によって、高倉軍は烈火の如く攻め立てられた。その為、態勢を整える暇も無く、見るも無残な状態で敗走した。
北方軍は深追いする事なくその場に留まり、夜明けと共に佐山軍に使者を送った。
<こちら側に陣取っていた高倉軍は蹴散らした。今のところ、そちらに攻め込む予定は無いが、可及的速やかにこの場から撤退しない場合はこの限りではない>
桔梗が書面を送って一刻もしない内に、佐山軍は陣を解体して自領へと引き返して行った。全軍で当たれば、小川軍に負ける事はないだろう。
その頃、彦十郎は出陣の準備を進めていた。
今度こそは、桔梗の元へ駆け付けると決意を固めた。
桔梗への態度は好意そのものである事を、綾乃から教えられた。
恐らく、佐山の侵攻を阻み、凱旋した姿を目にした時に憧憬の念を抱いたのだろう。かつて、己が目指していた場所に佇む姿に、心を奪われたのだ。それであれば、そこまでの思いだった。だが、一日の僅かな時間であっても彦十郎は素の桔梗に出会う。普段の桔梗は戦場での凛々しさではなく、可憐さを纏う女性だ。侍女や側仕え、領民にまで優しく接して慈しむ。その笑顔が人々を虜にし、その勇ましさに歓喜する。その渦に彦十郎も巻き込まれた。
だが、彦十郎はその他大勢ではない。契約上ではあっても夫である。それ故に、他人に向けられた笑顔に苛立ち、形式的な会話をする桔梗が腹立たしかった。
その様子を一番近くで見ていた綾乃は、穏やかな笑顔を見せて告げた。
「そういう、愛の形もあると思います。
いえ、私に対する彦十郎様の御心を疑ってなどいません。私の事は側に居て、生命を懸けて守りたいと御思いなのは分かっています。帰郷様に対しては、並んで一緒に歩みたいと、そう御思いなのでしょう。互いに切磋琢磨して、生害を共に生きたいと。
私の気持ちは、以前お伝えした通りです。家柄や対外的な事を考えましても、正室は桔梗様。私は側室で大丈夫です。ただ、愛情は均等に御願い致しますね」
「後の事は任せたぞ」
彦十郎は綾乃を強く抱き締めると、甲冑を鳴らして城門に向かう。
「お任せ下さい」
綾乃はそう応えると、ゆっくりと頭を下げた。



