人々の歓声の中、桔梗は凱旋した。
重軽傷者は複数いるものの生命に別状は無く、奇跡的に死亡者は無かった。佐山は又兵衛が討たれた後、単騎で突撃してきた桔梗に恐れ戦き、恥も外聞も無く戦線を離脱した。残された兵達に指揮官は不在で、七倍以上の兵力を有しながら背を向けて敗走。全兵力の七割以上を失う事となった。
桔梗と配下の二百の兵達は領の境まで追い掛けた後、意気揚々と自領へと引き返したのだ。
元々住民の人気があった桔梗であったが、全員が無事、しかも憎き佐山を散々に打ち破ったとあって熱狂的に迎えられた。
桔梗は城門が見える位置まで戻った時、そこに彦十郎の姿が在る事に気付いた。直ぐに下馬すると、馬を近くの兵に預けて彦十郎の元へと急ぐ。そして、三間程離れた位置で片膝を突き、その頭を垂れた。
「殿、佐山勢を返り討ちにして参りました。これで佐山は当面、我が領地に攻めて来る事は出来ないものと思われます」
その様子を目にした彦十郎は、非常に不愉快になった。
契約結婚とはいえ、彦十郎と桔梗は夫婦なのである。にも関わらず、ようやく表情が汲み取る事が出来る距離で、妻が片膝を突いて報告をしているのだ。これではまるで、主君と部下にしか思えない。
「良くやった。褒めて遣わす」
彦十郎が冷淡にも聞き取れる声音で告げると、桔梗は顔を上げて満面の笑みを浮かべた。
「はい、ありがとうございます!!」
泥や返り血で黒く曇った顔でありながら、桔梗の笑顔を目にした瞬間、彦十郎の呼吸が止まった。
黒澤を手討ちにしたため、彦十郎の安穏とした生活が終わりを告げた。外交は小山、合戦は桔梗に丸投げしているものの、内政を取り仕切る者がいななくなった為だ。綾乃は彦十郎と共に過ごす時間が減る事に対して不満を口にするものと思われたが、逆に仕事をしている姿が頼もしいと褒め称えた。これにより、彦十郎はより仕事に打ち込む事が出来た。
一方、桔梗は三日の休暇を兵達に与え、次の戦への準備を始めた。どうにか均衡が取れていた地域が、佐山氏の大敗により崩れたからだ。次に動く可能性があるのは、西の高倉だろう。今や兵力だけを考えれば、高倉氏は佐山氏より優位に立っている。それに、もし東の小川と同時に攻め込む様な事があれば、佐山氏が滅亡する可能性が高い。いずれにしても、その次は北方氏の番になる。そもそも、現状でも、佐山より北方氏の方が兵力的には少ないのだから。
兵達に休暇を与えたが、桔梗は凱旋した翌朝から訓練場で木刀を振っていた。
身体を動かしていると思考が明確になる事もあり、早朝から一心不乱に振り続けている。後頭部で一つに纏められた髪を振り乱し、首筋には頬から流れ落ちた汗が光っていた。既に、裸足の足下は汗で水溜りの様だ。
その光景を、寝屋から仕事場へと向かったはずの彦十郎が見詰める。
なぜか彦十郎の足が、仕事場とは真逆の訓練場に向かった。それは昨夜、満面の笑みを浮かべる桔梗を思い出して眠れなかった為かもしれない。佐山氏の陰謀を阻むための契約結婚であり、心など微塵も通い合っていない夫婦。その自覚がありながら、前を向く桔梗の姿を目にすると活力が湧き、負けない様にと自らの足を動かしてしまう。
これが過去の憧憬に対する残滓なのか、それとも、知らぬ感情の発露はのか。未だ、己の中に眠る感情について、彦十郎は考えてすらいなかった。
重軽傷者は複数いるものの生命に別状は無く、奇跡的に死亡者は無かった。佐山は又兵衛が討たれた後、単騎で突撃してきた桔梗に恐れ戦き、恥も外聞も無く戦線を離脱した。残された兵達に指揮官は不在で、七倍以上の兵力を有しながら背を向けて敗走。全兵力の七割以上を失う事となった。
桔梗と配下の二百の兵達は領の境まで追い掛けた後、意気揚々と自領へと引き返したのだ。
元々住民の人気があった桔梗であったが、全員が無事、しかも憎き佐山を散々に打ち破ったとあって熱狂的に迎えられた。
桔梗は城門が見える位置まで戻った時、そこに彦十郎の姿が在る事に気付いた。直ぐに下馬すると、馬を近くの兵に預けて彦十郎の元へと急ぐ。そして、三間程離れた位置で片膝を突き、その頭を垂れた。
「殿、佐山勢を返り討ちにして参りました。これで佐山は当面、我が領地に攻めて来る事は出来ないものと思われます」
その様子を目にした彦十郎は、非常に不愉快になった。
契約結婚とはいえ、彦十郎と桔梗は夫婦なのである。にも関わらず、ようやく表情が汲み取る事が出来る距離で、妻が片膝を突いて報告をしているのだ。これではまるで、主君と部下にしか思えない。
「良くやった。褒めて遣わす」
彦十郎が冷淡にも聞き取れる声音で告げると、桔梗は顔を上げて満面の笑みを浮かべた。
「はい、ありがとうございます!!」
泥や返り血で黒く曇った顔でありながら、桔梗の笑顔を目にした瞬間、彦十郎の呼吸が止まった。
黒澤を手討ちにしたため、彦十郎の安穏とした生活が終わりを告げた。外交は小山、合戦は桔梗に丸投げしているものの、内政を取り仕切る者がいななくなった為だ。綾乃は彦十郎と共に過ごす時間が減る事に対して不満を口にするものと思われたが、逆に仕事をしている姿が頼もしいと褒め称えた。これにより、彦十郎はより仕事に打ち込む事が出来た。
一方、桔梗は三日の休暇を兵達に与え、次の戦への準備を始めた。どうにか均衡が取れていた地域が、佐山氏の大敗により崩れたからだ。次に動く可能性があるのは、西の高倉だろう。今や兵力だけを考えれば、高倉氏は佐山氏より優位に立っている。それに、もし東の小川と同時に攻め込む様な事があれば、佐山氏が滅亡する可能性が高い。いずれにしても、その次は北方氏の番になる。そもそも、現状でも、佐山より北方氏の方が兵力的には少ないのだから。
兵達に休暇を与えたが、桔梗は凱旋した翌朝から訓練場で木刀を振っていた。
身体を動かしていると思考が明確になる事もあり、早朝から一心不乱に振り続けている。後頭部で一つに纏められた髪を振り乱し、首筋には頬から流れ落ちた汗が光っていた。既に、裸足の足下は汗で水溜りの様だ。
その光景を、寝屋から仕事場へと向かったはずの彦十郎が見詰める。
なぜか彦十郎の足が、仕事場とは真逆の訓練場に向かった。それは昨夜、満面の笑みを浮かべる桔梗を思い出して眠れなかった為かもしれない。佐山氏の陰謀を阻むための契約結婚であり、心など微塵も通い合っていない夫婦。その自覚がありながら、前を向く桔梗の姿を目にすると活力が湧き、負けない様にと自らの足を動かしてしまう。
これが過去の憧憬に対する残滓なのか、それとも、知らぬ感情の発露はのか。未だ、己の中に眠る感情について、彦十郎は考えてすらいなかった。



