予想だにしていなかった言葉に意表を突かれ、椛は思わず、間の抜けたように瞬きを繰り返す。からかうのはやめて――そう言い返そうと口を開きかけたが、至極真面目な千隼の双眸を見ていると、喉元まで込み上げていた言葉はどれも、あぶくが弾けるように次々と消えていった。ただ眉間に寄った皺だけが、きゅっと深さを増す。
「あやかしの世界では、夫婦の契を結んだ相手には、如何なる理由があろうと手を出すことは許されない、という“掟”があると聞いた」
確かにあやかしの世界には、彼の言った通り不可侵の掟がある。しかし彼の認識は半分正しく、半分間違いでもあった。不可侵の掟は、自身よりも“力が格上か否か”に大きく左右されるからだ。
夫婦の契りは、男は女に、女は男に、己の標をその身体に刻む。それにより、妖力の低い者は、妖力の高い者の庇護を得られる。つまり自身の妖力に関係なく、夫婦となるだけで、その者と同等の地位を得られるのだ。
故に、少しでも恵まれた能力を持つ者と婚姻を結べるよう、誰も彼もが躍起になる。己の身の安全の為に。そして一族の血をより高め、繁栄させ続ける為に。
「まあ、それが人間との婚姻で有効かどうかは分からないが……少なくとも俺の使役する式神を護衛としてつけることは可能になる。君ひとりでいるよりは、余程安全だろう。もちろん、衣食住は十分に保証する」
「……だから私の血を治療に使わせてくれ、と」
千隼は苦笑とも自嘲ともつかない笑みを微かにこぼし、袖から引き抜いた手を膝の上に置いてかたく握り締める。
「君の力を貸してほしい」
なんて狡い男だろう、と思った。狡いのに、そのくせまっすぐに向けられる瞳はひどく誠実だ、とも。
頼られたことなど、生まれてこの方一度もなかった。妖力を持たぬことを蔑まれ、鬼ではないと嘲られ、一族の恥晒しだと罵られ。使用人以下の、見窄らしい生活。誰も彼もが椛をいないものとして扱い、誹り以外の言葉をかけられたことなど、殆どなかった。
不思議なものだ、と椛は胸の内で小さく息を吐く。何の取り柄もない自分に、初めて“力を貸してほしい”と言ってきたのが、鬼でもあやかしでもなく、人間だとは。
「もし嫌になったら、いつでも出て行って構わない。契約を解くのも、君の意思に任せる」
千隼は恐らく、鷹宮家の当主なのだろう。そんな彼の“妻”ともなれば、家を存続させてゆく跡継ぎを産む役目を担う、重要な存在であるはずだ。それを承知の上で、出会って間もない、素性も知れぬあやかしにその地位を与えようとするのが、椛にはやはり分からなかった。
それほど姉のことが大事なのだろうか。万が一、己の立場が危うくなり得ると分かっていてもなお、浄血を欲するほどに。
「ただ……これだけは、先に言っておきたい」
そう前置きすると、千隼は一度唇を閉ざし、僅かに視線を落とした。躊躇うような、最適な言葉を探し倦ねているような。
しかしそれは、ほんの束の間のことだった。再び視線が重なった刹那、椛は気付く。彼のかんばせに、瞳に、強い意志が滲んでいるのを。
「君には申し訳ないが、俺にとって何より最優先は姉上だ。だから――夫婦としてであっても、愛情の類は期待しないでほしい。応えられるものが、俺にはないだろうから」
そんな彼の眼をじっと見つめたまま、椛は胸の内でひそりと溜息をこぼす。馬鹿なことを言うな、と叫んで拒絶することは出来るだろう。いつでも出て行って構わない、と言うくらいなのだから、この男はそれを許すはずだ。大事な姉の為に、喉から手が出るほど“浄血”を望んでいても。
搾取されるのは嫌だ、と思う。けれど、此処を去ったところで何処へ向かえば良いのだろう、とも思う。無一文で行く宛もなく、あの里へももう戻れない。戻りたいという気も、まるでない。
妖魔に見つかったら、どうしよう。里の者や人間に捕らえられたら、どうしよう。妖力を持たぬ身では、抗うことなど出来やしない。その先に待ち受けるのは、“死”のみだ。
それでも良い、と思っていた――はずだった。もう生きていたくはない、と。それなのに妖魔を前にすると、自然と身体が動き、迫りくる死から逃げ出してしまった。どうしてそうしてしまったのか、未だに分からない。
けれども今、こうして生きている。深手を負いながらも、心臓はまだしっかりと動いている。助けてくれた男の目の前に、力を貸してほしいと真摯に乞う男の目の前に、ちゃんと生きて存在している――。
「……分かりました」
静かに答えると、男ははっと弾けるようにして、大きく目を見開いた。
「本当に、良いのか?」
信じられない、と言いたげな視線に呆れつつ、椛は「ええ」と短く返して、そっと首を縦に振る。信じられない――と言いたいのは寧ろこちらの方だ、と思いながら。そもそも、あやかしに契約結婚などというものを持ち出してくるこの男の頭が、そして、そうと分かりつつもそれを受け入れた己の頭が信じられない、と。
「構いません。私は身を護ることが出来ますし、貴方は浄血を手に入れられる……相互利益ですから、問題ないかと。それに、助けていただいた恩も返さなくてはなりませんし」
「助けた恩など、どうでも良い。俺は己の役目を果たしただけだ、返す必要はない。……それでも、本当に良いのか」
どうして、そんなにも確かめずにいられないのだろう。椛は僅かに瞼を伏せ、千隼の言動を訝しむ。契約さえ結べれば良いはずなのに、この男は、まるで椛自身の心を気にかけているかのように、幾度も同じ問いを重ねてくる。
本気ではなかった、とでも今更言い出すつもりなのだろうか。何もかもが嘘だった、と。しかしそれならば、これほどまで相手の心を気にかける必要などないはずだ。
「何故、幾度もお訊きになるのですか」
「それは……」
心做しか気まずそうに、千隼は口籠る。
そんな彼をじっと見ていると、不意に、椛は遠い昔に読んだ古い絵巻物を思い出した。大昔の人間の詠んだ詩が、幾つも書きつけられた絵巻物。愛する男を想うあまり白昼夢を見る女、望まぬ男のもとへ嫁ぐ運命を嘆く花嫁――そんな詩の数々を頭の片隅に思い浮かべながら、椛はああ、と察する。千隼が気にしているのは、契約内容のことではないのだろう、と。
「ご安心下さい。恋だの愛だのというものを求めるつもりはありません。姉君を最優先にされるのも、どうぞお好きになさって構いません。ご家族を護るのは、当然のことですから」
家族――そんなものの価値を知ったことなど、一度たりともないけれど。
そう思いながら胸中で自嘲をこぼしていると、視線の先で、千隼が今まで以上に大きく目を瞠らせた。まるで思考が止まってしまってでもいるかのように、彼はそのまま暫し動きを固め、ただ呆然と椛を見つめている。
何かおかしなことでも言っただろうか。椛は困惑気味に、そんな彼の顔を窺い見る。
「あの……?」
「いや、すまない。あまりにも君が平然としていたから、少し面食らってしまってな。……そういう反応をされたのは、初めてだったものだから」
そう言って苦笑した千隼のかんばせには、微かな戸惑いが滲んでいた。とはいえ、そんなに引っかかるようなことを言ったつもりは微塵もない。至極当たり前のことを口にしただけだ。椛には、彼の反応の方こそ理解し難く、眉根を寄せたまま小さく首を傾げた。
「あやかしの世界では、結婚に愛など必要ないのが普通です。結婚はあくまで双方の利害が一致して結ばれる契であり、重要なのは“想い”ではなく、“条件”でしかないのですから」
淡々とした口調で告げると、千隼は意外そうに目を瞬かせ、「なるほど」とまるで独り言のように呟いた。そういうものなのか、とも付け加えて。
「それなら、俺にとっては寧ろ都合が良い。……契約成立、ということで問題ないか?」
念を押すようにまっすぐ見据えられ、椛はひとつゆっくりと瞬いてから頷く。千隼の為でも、彼の姉の為でもなく、ただ己の為だけに。
けれど、掛け布団を握り締める指先は、微かに震えていた。もう後には戻れない――そんな確信めいた予感のようなものが、胸の奥へ静かに沈んでいくのを感じながら。
「あやかしの世界では、夫婦の契を結んだ相手には、如何なる理由があろうと手を出すことは許されない、という“掟”があると聞いた」
確かにあやかしの世界には、彼の言った通り不可侵の掟がある。しかし彼の認識は半分正しく、半分間違いでもあった。不可侵の掟は、自身よりも“力が格上か否か”に大きく左右されるからだ。
夫婦の契りは、男は女に、女は男に、己の標をその身体に刻む。それにより、妖力の低い者は、妖力の高い者の庇護を得られる。つまり自身の妖力に関係なく、夫婦となるだけで、その者と同等の地位を得られるのだ。
故に、少しでも恵まれた能力を持つ者と婚姻を結べるよう、誰も彼もが躍起になる。己の身の安全の為に。そして一族の血をより高め、繁栄させ続ける為に。
「まあ、それが人間との婚姻で有効かどうかは分からないが……少なくとも俺の使役する式神を護衛としてつけることは可能になる。君ひとりでいるよりは、余程安全だろう。もちろん、衣食住は十分に保証する」
「……だから私の血を治療に使わせてくれ、と」
千隼は苦笑とも自嘲ともつかない笑みを微かにこぼし、袖から引き抜いた手を膝の上に置いてかたく握り締める。
「君の力を貸してほしい」
なんて狡い男だろう、と思った。狡いのに、そのくせまっすぐに向けられる瞳はひどく誠実だ、とも。
頼られたことなど、生まれてこの方一度もなかった。妖力を持たぬことを蔑まれ、鬼ではないと嘲られ、一族の恥晒しだと罵られ。使用人以下の、見窄らしい生活。誰も彼もが椛をいないものとして扱い、誹り以外の言葉をかけられたことなど、殆どなかった。
不思議なものだ、と椛は胸の内で小さく息を吐く。何の取り柄もない自分に、初めて“力を貸してほしい”と言ってきたのが、鬼でもあやかしでもなく、人間だとは。
「もし嫌になったら、いつでも出て行って構わない。契約を解くのも、君の意思に任せる」
千隼は恐らく、鷹宮家の当主なのだろう。そんな彼の“妻”ともなれば、家を存続させてゆく跡継ぎを産む役目を担う、重要な存在であるはずだ。それを承知の上で、出会って間もない、素性も知れぬあやかしにその地位を与えようとするのが、椛にはやはり分からなかった。
それほど姉のことが大事なのだろうか。万が一、己の立場が危うくなり得ると分かっていてもなお、浄血を欲するほどに。
「ただ……これだけは、先に言っておきたい」
そう前置きすると、千隼は一度唇を閉ざし、僅かに視線を落とした。躊躇うような、最適な言葉を探し倦ねているような。
しかしそれは、ほんの束の間のことだった。再び視線が重なった刹那、椛は気付く。彼のかんばせに、瞳に、強い意志が滲んでいるのを。
「君には申し訳ないが、俺にとって何より最優先は姉上だ。だから――夫婦としてであっても、愛情の類は期待しないでほしい。応えられるものが、俺にはないだろうから」
そんな彼の眼をじっと見つめたまま、椛は胸の内でひそりと溜息をこぼす。馬鹿なことを言うな、と叫んで拒絶することは出来るだろう。いつでも出て行って構わない、と言うくらいなのだから、この男はそれを許すはずだ。大事な姉の為に、喉から手が出るほど“浄血”を望んでいても。
搾取されるのは嫌だ、と思う。けれど、此処を去ったところで何処へ向かえば良いのだろう、とも思う。無一文で行く宛もなく、あの里へももう戻れない。戻りたいという気も、まるでない。
妖魔に見つかったら、どうしよう。里の者や人間に捕らえられたら、どうしよう。妖力を持たぬ身では、抗うことなど出来やしない。その先に待ち受けるのは、“死”のみだ。
それでも良い、と思っていた――はずだった。もう生きていたくはない、と。それなのに妖魔を前にすると、自然と身体が動き、迫りくる死から逃げ出してしまった。どうしてそうしてしまったのか、未だに分からない。
けれども今、こうして生きている。深手を負いながらも、心臓はまだしっかりと動いている。助けてくれた男の目の前に、力を貸してほしいと真摯に乞う男の目の前に、ちゃんと生きて存在している――。
「……分かりました」
静かに答えると、男ははっと弾けるようにして、大きく目を見開いた。
「本当に、良いのか?」
信じられない、と言いたげな視線に呆れつつ、椛は「ええ」と短く返して、そっと首を縦に振る。信じられない――と言いたいのは寧ろこちらの方だ、と思いながら。そもそも、あやかしに契約結婚などというものを持ち出してくるこの男の頭が、そして、そうと分かりつつもそれを受け入れた己の頭が信じられない、と。
「構いません。私は身を護ることが出来ますし、貴方は浄血を手に入れられる……相互利益ですから、問題ないかと。それに、助けていただいた恩も返さなくてはなりませんし」
「助けた恩など、どうでも良い。俺は己の役目を果たしただけだ、返す必要はない。……それでも、本当に良いのか」
どうして、そんなにも確かめずにいられないのだろう。椛は僅かに瞼を伏せ、千隼の言動を訝しむ。契約さえ結べれば良いはずなのに、この男は、まるで椛自身の心を気にかけているかのように、幾度も同じ問いを重ねてくる。
本気ではなかった、とでも今更言い出すつもりなのだろうか。何もかもが嘘だった、と。しかしそれならば、これほどまで相手の心を気にかける必要などないはずだ。
「何故、幾度もお訊きになるのですか」
「それは……」
心做しか気まずそうに、千隼は口籠る。
そんな彼をじっと見ていると、不意に、椛は遠い昔に読んだ古い絵巻物を思い出した。大昔の人間の詠んだ詩が、幾つも書きつけられた絵巻物。愛する男を想うあまり白昼夢を見る女、望まぬ男のもとへ嫁ぐ運命を嘆く花嫁――そんな詩の数々を頭の片隅に思い浮かべながら、椛はああ、と察する。千隼が気にしているのは、契約内容のことではないのだろう、と。
「ご安心下さい。恋だの愛だのというものを求めるつもりはありません。姉君を最優先にされるのも、どうぞお好きになさって構いません。ご家族を護るのは、当然のことですから」
家族――そんなものの価値を知ったことなど、一度たりともないけれど。
そう思いながら胸中で自嘲をこぼしていると、視線の先で、千隼が今まで以上に大きく目を瞠らせた。まるで思考が止まってしまってでもいるかのように、彼はそのまま暫し動きを固め、ただ呆然と椛を見つめている。
何かおかしなことでも言っただろうか。椛は困惑気味に、そんな彼の顔を窺い見る。
「あの……?」
「いや、すまない。あまりにも君が平然としていたから、少し面食らってしまってな。……そういう反応をされたのは、初めてだったものだから」
そう言って苦笑した千隼のかんばせには、微かな戸惑いが滲んでいた。とはいえ、そんなに引っかかるようなことを言ったつもりは微塵もない。至極当たり前のことを口にしただけだ。椛には、彼の反応の方こそ理解し難く、眉根を寄せたまま小さく首を傾げた。
「あやかしの世界では、結婚に愛など必要ないのが普通です。結婚はあくまで双方の利害が一致して結ばれる契であり、重要なのは“想い”ではなく、“条件”でしかないのですから」
淡々とした口調で告げると、千隼は意外そうに目を瞬かせ、「なるほど」とまるで独り言のように呟いた。そういうものなのか、とも付け加えて。
「それなら、俺にとっては寧ろ都合が良い。……契約成立、ということで問題ないか?」
念を押すようにまっすぐ見据えられ、椛はひとつゆっくりと瞬いてから頷く。千隼の為でも、彼の姉の為でもなく、ただ己の為だけに。
けれど、掛け布団を握り締める指先は、微かに震えていた。もう後には戻れない――そんな確信めいた予感のようなものが、胸の奥へ静かに沈んでいくのを感じながら。

