引手に指をかけたまま、男が肩越しに振り返る。そこで漸く、椛は胸の内でこぼしただけだったと思っていた言葉を、つい声にのせて、唇の合間からぽつりと漏らしてしまったことを悟った。
目覚めたばかりだからか。それとも、訝しげに眉根を寄せる見知らぬ男の言動のせいか。どうにも調子が狂う。
気まずい沈黙が、淡い陽光に満ちた室内に重く垂れ込める。訊きたいことがあるのだろうということは、横顔に向けられる眼差しからなんとなく察しはついたが、しかし男は何も言わない。ただ静かに、じっと椛を見つめている。
あの里に戻ったところで――。胸中でひそりと溜息をつきながら、椛は男から視線を逸し、僅かに目を伏せる。そこに待っているのは以前までの暮らしよりも一層厳しい“現実”でしかないことは、考えるまでもない。血痕を残してきてしまった以上、そこに隠された”秘密”に、彼等が気付かないはずがないのだから。
もしかしたら彼等は血眼になって行方を探すかもしれない。家族を、仲間を案じてではなく、ただ偏にこの"血"を求めて。あの化物と同じ様に――。そう思うと、喉の奥がひりつくように渇いた。
もし、里へ連れ戻されでもしたら。こくりと唾を呑み、椛は唇を強く噛み締める。あの里で待ち受けているのはもう、監禁、搾取、生贄――これまで以上に暗く陰湿な“未来”だけだ。或いは、“血”さえあれば、命など彼等にとっては不要かもしれない。自我すら煩わしいだけで、“血”だけを抜き取ってしまえば、あとはもう――。
「……君、名前は?」
どれくらい黙りこくっていただろう。長くも短くも感じられた重苦しい沈黙を唐突に破ったのは、何の脈絡もない彼の問いだった。その声にはっと我に返り、椛はいつの間にか詰めていた息を静かに吐き出す。膝の上に置いた指先が、知らず爪を立てるほど強く握り込まれていた。腹の底からじわりと込み上げる恐怖のせいで。
頭が追いつかず、すぐに応えを返せずにいると、男はそれを拒絶とでも受け取ったのか、再び布団の隣に腰を下ろしながら「ああ、すまない」と申し訳なさそうな声音で謝罪を述べた。
「まずは己が名乗るのが礼儀だな。……俺の名は鷹宮千隼。帝国陸軍で、対妖魔討伐隊を率いている」
鷹宮――。聞き覚えのあるその名に、椛は俯けていた顔を恐る恐る上げ、男の苦笑の滲んだ端正なかんばせへと視線を移す。
“鷹宮”という名と、その色の薄い容姿が頭の中で重なると、椛は呆れに似た脱力感に襲われた。どうして今の今まで気付かなかったのだろう、と。人間でありながら、これほどまでの力を身に宿した者など、そうそういるはずがないというのに。
鷹宮家と言えば、千年ほど前から続く由緒正しい陰陽師の名家だ。その名は、里の外へ出たことのなかった椛ですら、一度ならず耳にしたことがある。現当主は、開祖に匹敵する天才と謂れ、数百年に一度しか顕現しない瞳術を扱えるという。
そこまで思い出し、ああ――と椛は納得する。道理であの化物を、たった一太刀で斬り伏せることが出来たわけだ、と。瘴気に呑まれた化物は、本来持ち得る妖力以上の力を纏う為、あやかしですら遣り合うことは難しいというのに、それでも。
「それで、君の名は?」
「……椛」
暫し逡巡した後に、椛は小さな声でぼそりと呟く。それでも男――千隼の耳にはしっかりと届いていたようで、彼はふっと表情を緩ませ、「美しい名だな」と穏やかに告げた。「君によく似合っている」とも。
今までろくにまともな扱いを受けてこなかった椛にとって、千隼のその言葉は、未知の感覚でしかなかった。まだ出会って間もないのだから、何を知るわけでもないくせに。そう思うものの、身体の何処とも言えない場所が、何故だかむずむずとする。
どうせ彼にとっては、常套句のひとつに過ぎないのだろう。里の男にも、そういう誑し者はいた。この男の見目であれば、里の男どもよりも容易く、女のひとりやふたり釣れるに違いない。
否、彼ほどの美貌と地位があれば、寧ろ放っておいても女の方から寄ってくるはずだ。そんな至極どうでも良いことを考えていると、ふと、千隼の纏う空気がすっと色を変えた。柔和に綻んでいたかんばせは引き締まり、紫色の瞳に真摯な光が宿る。
そのまま彼は、暫し何事かを思案しているようだったが、意を決したような、或いは諦念のような息を深く吐いて、ゆっくりと唇を開いた。
「椛」
名を呼ばれ、椛はびくりと肩を震わせる。怒っているのとはまた違う、真剣故の迫力に気圧されて。
そんな椛の心中を知ってか知らずか、千隼は凛とした表情を崩さぬまま、低い声音で先を続けた。
「単刀直入に言う。――俺と、取引をしないか」
とり、ひき。とりひき。取引――。
何を言われたのかすぐには理解出来ず、椛は間の抜けた表情のまま瞬きを繰り返す。けれども、頭が追いついてくると、むくりと擡げた猜疑に眉根が寄った。信じられない、という呆れも伴って。
聞き間違いなどでなければ、この男は“取引”と言った。取引をしないか、と。いくら鷹宮家の人間といえど、あやかしにそんなことを持ちかけるとは、とても正気の沙汰とは思えない。人にとってあやかしは、忌避と畏怖の対象でしかないはずだというのに。
「どういう、おつもりですか」
意図が掴めず問いかけると、千隼は相も変わらず椛を、まっすぐに見つめたまま、すっと意味深に目を細めた。
「――君、“浄血”だろう?」
刹那、椛は息を呑んだ。激しく跳ね上がった心臓の音が、鼓膜の裏側で鳴り響いている。どくん、どくんと。
それをぼんやりと聞きながら、椛はじわりと目を見開いた。どうして、と言いたいのに。勘違いよ、と投げつけたいのに。声が喉に貼り付いて、何ひとつ出てこない。
「君を助けた時、季節外れの彼岸花が傍らに咲いていた。あの一帯は、先の戦いで妖魔の瘴気に穢されて以来、彼岸花は一輪も咲かなくなっていたはずだというのに」
この男もまた――。千隼の声を遠くに感じながら、椛は思う。あの忌まわしい化物と同じように、この“血”を狙っているのだ、と。
自身の身体に流れる“血”が、同族のそれとはまるで違うのだと知ったのは、幼少の頃のことだった。
食材の下処理中に包丁で指を切り、地面に落ちたほんの一粒の血から、疾うに刈り取られたはずの菜の花が勢い良く生え出たあの瞬間を、今でも鮮明に覚えている。妖力を持たぬ椛に、そんな芸当が出来るはずもないのに。けれど確かにこの目で見たそれは、“現実”だった。
後に異質な“血”によるものだと知った時、椛の頭に真っ先に浮かんだのは“秘匿”だった。誰からも――父母兄姉だけでなく、長老や他の者たちからも――隠し通さねば、と。
“浄血”は、瘴気を癒す唯一の存在として、大昔から強奪の対象とされてきた。妖魔だけでなく、人やあやかしからも。どの書物にも、嘗ての“浄血”の持ち主たちが辿った悲惨な末路が綴られている。妖魔に喰われた者、あるいは“不老不死の秘薬”として惨殺された者――。
そう思うと、何故だか少し落胆した。裏切られたような、嵌められたような、何とも言えない虚しさが、胸をざわつかせる。
そんな椛の心裡をまるで見透かしたかのように、千隼は引き締めていた表情をふっと緩め、申し訳なさそうに眉を下げて苦笑した。
「君から搾取したい、というわけではないんだ。ただ――」
そこで一度言葉を区切ると、千隼は袖に両手を入れて腕を組みながら、珍しく椛から視線を逸らした。そのまま暫し沈黙が落ち、やがて彼は眉間に皺を寄せ、ゆっくりと唇を開いた。
「実は、俺には三つ上の姉が一人いるんだが……二年ほど前、妖魔に襲われた折に呪いを受けてな。それ以来、寝たきりのままだ」
そう語った千隼の顔にも声にも、憂いのような翳りが滲んでいた。言葉はまるで鉛のように重く、耳の奥にずしりと沈む。それを聞いていると、彼の胸の内には、もっとどろりとした耐え難いものが蟠っているのだろう、と思えた。
呪いに蝕まれ苦しむ姉と、彼女を助けたい弟。そんな二人の前に現れた“浄血”の女は、千隼にとって願ってもない邂逅だったに違いない。彼岸花を見た時点で気づいていたからこそ、邸へ連れ帰り手当てまで施したのだろう。
“浄血”を持つ者は、そう滅多に生まれ落ちない。書物には、数百年現れない場合もあると記されるほどの、稀有な存在だ。故にあやかしも人間も、瘴気を払う道具として、或いは不老不死の材料として、これを欲する。
「……それで、取引とは」
淡々とした声で問いかけると、千隼は息をひとつ吐き、腹を括ったような面持ちで、まっすぐに椛を見た。
「――俺と、結婚しないか。あくまで“契約”として」
目覚めたばかりだからか。それとも、訝しげに眉根を寄せる見知らぬ男の言動のせいか。どうにも調子が狂う。
気まずい沈黙が、淡い陽光に満ちた室内に重く垂れ込める。訊きたいことがあるのだろうということは、横顔に向けられる眼差しからなんとなく察しはついたが、しかし男は何も言わない。ただ静かに、じっと椛を見つめている。
あの里に戻ったところで――。胸中でひそりと溜息をつきながら、椛は男から視線を逸し、僅かに目を伏せる。そこに待っているのは以前までの暮らしよりも一層厳しい“現実”でしかないことは、考えるまでもない。血痕を残してきてしまった以上、そこに隠された”秘密”に、彼等が気付かないはずがないのだから。
もしかしたら彼等は血眼になって行方を探すかもしれない。家族を、仲間を案じてではなく、ただ偏にこの"血"を求めて。あの化物と同じ様に――。そう思うと、喉の奥がひりつくように渇いた。
もし、里へ連れ戻されでもしたら。こくりと唾を呑み、椛は唇を強く噛み締める。あの里で待ち受けているのはもう、監禁、搾取、生贄――これまで以上に暗く陰湿な“未来”だけだ。或いは、“血”さえあれば、命など彼等にとっては不要かもしれない。自我すら煩わしいだけで、“血”だけを抜き取ってしまえば、あとはもう――。
「……君、名前は?」
どれくらい黙りこくっていただろう。長くも短くも感じられた重苦しい沈黙を唐突に破ったのは、何の脈絡もない彼の問いだった。その声にはっと我に返り、椛はいつの間にか詰めていた息を静かに吐き出す。膝の上に置いた指先が、知らず爪を立てるほど強く握り込まれていた。腹の底からじわりと込み上げる恐怖のせいで。
頭が追いつかず、すぐに応えを返せずにいると、男はそれを拒絶とでも受け取ったのか、再び布団の隣に腰を下ろしながら「ああ、すまない」と申し訳なさそうな声音で謝罪を述べた。
「まずは己が名乗るのが礼儀だな。……俺の名は鷹宮千隼。帝国陸軍で、対妖魔討伐隊を率いている」
鷹宮――。聞き覚えのあるその名に、椛は俯けていた顔を恐る恐る上げ、男の苦笑の滲んだ端正なかんばせへと視線を移す。
“鷹宮”という名と、その色の薄い容姿が頭の中で重なると、椛は呆れに似た脱力感に襲われた。どうして今の今まで気付かなかったのだろう、と。人間でありながら、これほどまでの力を身に宿した者など、そうそういるはずがないというのに。
鷹宮家と言えば、千年ほど前から続く由緒正しい陰陽師の名家だ。その名は、里の外へ出たことのなかった椛ですら、一度ならず耳にしたことがある。現当主は、開祖に匹敵する天才と謂れ、数百年に一度しか顕現しない瞳術を扱えるという。
そこまで思い出し、ああ――と椛は納得する。道理であの化物を、たった一太刀で斬り伏せることが出来たわけだ、と。瘴気に呑まれた化物は、本来持ち得る妖力以上の力を纏う為、あやかしですら遣り合うことは難しいというのに、それでも。
「それで、君の名は?」
「……椛」
暫し逡巡した後に、椛は小さな声でぼそりと呟く。それでも男――千隼の耳にはしっかりと届いていたようで、彼はふっと表情を緩ませ、「美しい名だな」と穏やかに告げた。「君によく似合っている」とも。
今までろくにまともな扱いを受けてこなかった椛にとって、千隼のその言葉は、未知の感覚でしかなかった。まだ出会って間もないのだから、何を知るわけでもないくせに。そう思うものの、身体の何処とも言えない場所が、何故だかむずむずとする。
どうせ彼にとっては、常套句のひとつに過ぎないのだろう。里の男にも、そういう誑し者はいた。この男の見目であれば、里の男どもよりも容易く、女のひとりやふたり釣れるに違いない。
否、彼ほどの美貌と地位があれば、寧ろ放っておいても女の方から寄ってくるはずだ。そんな至極どうでも良いことを考えていると、ふと、千隼の纏う空気がすっと色を変えた。柔和に綻んでいたかんばせは引き締まり、紫色の瞳に真摯な光が宿る。
そのまま彼は、暫し何事かを思案しているようだったが、意を決したような、或いは諦念のような息を深く吐いて、ゆっくりと唇を開いた。
「椛」
名を呼ばれ、椛はびくりと肩を震わせる。怒っているのとはまた違う、真剣故の迫力に気圧されて。
そんな椛の心中を知ってか知らずか、千隼は凛とした表情を崩さぬまま、低い声音で先を続けた。
「単刀直入に言う。――俺と、取引をしないか」
とり、ひき。とりひき。取引――。
何を言われたのかすぐには理解出来ず、椛は間の抜けた表情のまま瞬きを繰り返す。けれども、頭が追いついてくると、むくりと擡げた猜疑に眉根が寄った。信じられない、という呆れも伴って。
聞き間違いなどでなければ、この男は“取引”と言った。取引をしないか、と。いくら鷹宮家の人間といえど、あやかしにそんなことを持ちかけるとは、とても正気の沙汰とは思えない。人にとってあやかしは、忌避と畏怖の対象でしかないはずだというのに。
「どういう、おつもりですか」
意図が掴めず問いかけると、千隼は相も変わらず椛を、まっすぐに見つめたまま、すっと意味深に目を細めた。
「――君、“浄血”だろう?」
刹那、椛は息を呑んだ。激しく跳ね上がった心臓の音が、鼓膜の裏側で鳴り響いている。どくん、どくんと。
それをぼんやりと聞きながら、椛はじわりと目を見開いた。どうして、と言いたいのに。勘違いよ、と投げつけたいのに。声が喉に貼り付いて、何ひとつ出てこない。
「君を助けた時、季節外れの彼岸花が傍らに咲いていた。あの一帯は、先の戦いで妖魔の瘴気に穢されて以来、彼岸花は一輪も咲かなくなっていたはずだというのに」
この男もまた――。千隼の声を遠くに感じながら、椛は思う。あの忌まわしい化物と同じように、この“血”を狙っているのだ、と。
自身の身体に流れる“血”が、同族のそれとはまるで違うのだと知ったのは、幼少の頃のことだった。
食材の下処理中に包丁で指を切り、地面に落ちたほんの一粒の血から、疾うに刈り取られたはずの菜の花が勢い良く生え出たあの瞬間を、今でも鮮明に覚えている。妖力を持たぬ椛に、そんな芸当が出来るはずもないのに。けれど確かにこの目で見たそれは、“現実”だった。
後に異質な“血”によるものだと知った時、椛の頭に真っ先に浮かんだのは“秘匿”だった。誰からも――父母兄姉だけでなく、長老や他の者たちからも――隠し通さねば、と。
“浄血”は、瘴気を癒す唯一の存在として、大昔から強奪の対象とされてきた。妖魔だけでなく、人やあやかしからも。どの書物にも、嘗ての“浄血”の持ち主たちが辿った悲惨な末路が綴られている。妖魔に喰われた者、あるいは“不老不死の秘薬”として惨殺された者――。
そう思うと、何故だか少し落胆した。裏切られたような、嵌められたような、何とも言えない虚しさが、胸をざわつかせる。
そんな椛の心裡をまるで見透かしたかのように、千隼は引き締めていた表情をふっと緩め、申し訳なさそうに眉を下げて苦笑した。
「君から搾取したい、というわけではないんだ。ただ――」
そこで一度言葉を区切ると、千隼は袖に両手を入れて腕を組みながら、珍しく椛から視線を逸らした。そのまま暫し沈黙が落ち、やがて彼は眉間に皺を寄せ、ゆっくりと唇を開いた。
「実は、俺には三つ上の姉が一人いるんだが……二年ほど前、妖魔に襲われた折に呪いを受けてな。それ以来、寝たきりのままだ」
そう語った千隼の顔にも声にも、憂いのような翳りが滲んでいた。言葉はまるで鉛のように重く、耳の奥にずしりと沈む。それを聞いていると、彼の胸の内には、もっとどろりとした耐え難いものが蟠っているのだろう、と思えた。
呪いに蝕まれ苦しむ姉と、彼女を助けたい弟。そんな二人の前に現れた“浄血”の女は、千隼にとって願ってもない邂逅だったに違いない。彼岸花を見た時点で気づいていたからこそ、邸へ連れ帰り手当てまで施したのだろう。
“浄血”を持つ者は、そう滅多に生まれ落ちない。書物には、数百年現れない場合もあると記されるほどの、稀有な存在だ。故にあやかしも人間も、瘴気を払う道具として、或いは不老不死の材料として、これを欲する。
「……それで、取引とは」
淡々とした声で問いかけると、千隼は息をひとつ吐き、腹を括ったような面持ちで、まっすぐに椛を見た。
「――俺と、結婚しないか。あくまで“契約”として」

