虐げられた鬼女は、最強軍人の契約妻になる

 目が覚めると、見知らぬ天井が視界を覆った。粗末な板を並べただけのそれではなく、艶やかに磨き込まれた杢目の美しい格天井。

 それを寝ぼけ眼で見るでもなく眺めながら、椛は徐に目を瞬かせる。陽が昇っているのが、起き抜けの頭でも分かるほど、室内はとても明るい。

 いつもならば、たとえ昼間でも薄暗く、じめつく陰湿な空気に満ちているというのに。嗅ぎ慣れた埃や黴の臭いはまるでなく、呼吸をすればするほど、新鮮な空気がすうっと肺へ流れ込んでくる。

(此処はいったい……)

 幾度か瞬いて漸く、身体を包み込む程よい重みに気付く。まだ真新しいのか、綿の詰め込まれた布地には張りがある。微かに顔を動かすと、耳元で蕎麦殻の鳴る小さな音が聞こえた。

 ざらりとした藁の感触も、継ぎ接ぎだらけの薄い布のごわつきも、石のように硬い枕の圧迫感も、どこにもない。

 指先も、頬に触れる空気も、驚くほど軽い。まるで、身体ごと知らない誰かのものに入れ替わってしまったかのように。それが却って、不安とも焦りともつかない感情を煽り立てる。

 此処は一体何処だろう――。そう思いながら恐る恐る上体を起こそうとした途端、腹の辺りに鈍い痛みが走り、椛は堪えるように顔を顰めた。意識が明瞭になったせいで、麻痺していた感覚もまた目覚めたのだろう。身体のそここから、悲鳴じみた疼きが、何かを訴えるかのように押し寄せる。

 それをどうにか宥めながらゆるゆると身を起こし、ふう、と一息ついて、椛はくるりと室内を見回した。燦々とした日差しの滲む書院窓のある、質素ながらも品の良い、畳の青い香りがふわりと薫る八畳ほどの部屋。

 その真ん中で、椛は呆然としながらもう一度考える。果たして此処は何処だろう、と。意識が途切れる間際に居たのは、それもまた何処とも知れない場所だったけれど。あそこは外で、枯れ朽ちた木々が邪魔ったらしく生えた荒れ地だった。

 雲ひとつない青い空、季節外れの彼岸花、ひどく甘い臭いを放つ鮮血――。記憶を、椛はゆっくりと掻き集めてゆく。真昼の三日月、白檀の香り、風に靡く白銀の髪。

 ――おい、生きてるか。

 見知らぬ男の顔が脳裏で形を結んだのと、微かな音を立てて襖が開いたのは、ほぼ同時だった。

 突然のことに驚いて、椛はぴくりと肩を震わせる。何かあったとしても、こんな身体では、逃げおおせることなど出来やしない。満身創痍の状態で、あの“化物”から逃げ惑っていたことが、今となっては不思議に思える。

 家主だろうか。それとも――。胸を締め付けるような不安に駆られながら、椛はそろそろと襖の方へ目を向けた。もしまた、あの化物がそこにいたら。そう考えれば考えるほど、警鐘のように、心臓の動きが早くなる。

 しかし、そんな椛の視界に映り込んだのは、自我を失った化物ではなく、深い藍色の長着を身に纏った白銀の男だった。

「おっ、漸くお目覚めか」

 彼は椛と目が合うや否や、まるで豆鉄砲を喰ったかのように大きく目を瞠ったが、すぐに柔和な笑みを浮かべ、静かに襖を閉める。そのかんばせは、意識を手放す間際に見た男のそれとほぼ同じだった。凛として整い、長躯ではあるものの、着物を変えれば女と言われても信じてしまいそうなほど艶やかで麗しい。

 その美貌に浮世離れした雰囲気が漂うのは、白銀の髪のせいだろう。霊力の高い者ほど、人ならざる神秘性を纏うと聞く。彼もその類なのだろうと、肌に伝わる気配から容易に察せられた。

「もう起きて大丈夫なのか?」

 そう問いながら傍らに腰を下ろす男へ、椛は「ええ」と躊躇いがちに返事をしながら、掛け布団を握ったままの手元に視線を落とす。

 寝間着の袖口から覗く手首には、白く清潔な繃帯が幾重にも丁寧に巻かれていた。恐らく足や腹も同じ有様だろう。

「丸三日眠ったきりで、全然意識が戻りそうになかったから、もう一度医者を呼ぼうと思っていたんだが……目が覚めて良かった」

 男は目元を緩め、僅かに笑みを深めた。

「流石あやかしだな。やはり回復力が違う」

 普通の人間であれば、疾うに死んでいただろう。そう言い添えた男の言葉に、椛は喉の奥で小さく息を詰まらせた。手首に落としていた視線を、おずおずと上げる。掛け布団を握る手に、無意識に力がこもった。

「どうして……」

 微かな、殆ど独りごちるようなその呟きに、男は一瞬意外そうに眉を跳ね上げる。不思議でならない、とでも言いたげに椛を見つめ、至極真面目な面持ちのまま小さく首を傾げた。

「――君は、鬼だろう?」

 さも当然のことのようにそう告げた男の、涼やかな紫色の瞳を見据えながら、椛はじわりと目を見開く。

 産まれた時から妖力を殆ど持たず、それ故に角さえないこの身の何処に、鬼だと見抜く手がかりがあったというのだろう。里の者たちにさえ、お前は鬼どころかあやかしですらない、と言われ蔑まれたこの身の何処に、果たして。

 言葉を紡ごうと開きかけた唇を、椛は逡巡しながら噤む。喉の奥で言葉が幾つも渦を巻いているのに、そのどれひとつとして声になりそうになくて。そのまま頷くことすら出来ずにいると、男はふっと吐息のような笑い声をこぼし、ゆっくりとひとつ瞬いた。

「ある程度霊力を持つ者であれば、あやかしかそうでないかくらい、容易に見分けはつく。たとえ妖力がなくともな」

 まるで胸の内を見透かしたかのようなその一言に、渦巻いていた言葉たちがぽろぽろと形を失って喉の奥に消えてゆく。呆れたものだ、と心底思う。襲われていたのが人間であるなら兎も角、それがあやかしだと分かっていて、それでもなお助けようとするなんて、と。しかもこの男はあの時、軍服を着ていなかっただろうか。

 どうであれ命の恩人であることに違いはないのだから、そんな相手に抱く感情ではないのだろうけれど。それでも、男の言動は、どうしても呑み込み難いものだった。人間にとってあやかしがどういう存在であるのかを知っているからこそ。

 余程のお人好しなのだろうか。そう考えながら黙っていると、唐突に、男がすっと腰を上げた。そんな彼の顔をまるで追うように、椛は反射的に視線を上向ける。何か話したいことがあるわけでもないというのに。無意識でしかない自身のその行動に椛が気付いたのは、随分と離れた場所から見下ろす紫色の瞳とかち合ってからのことだった。

「取り敢えず、傷が癒えるまでは此処に居て構わない」
「えっ……?」

 聞き間違いだろうか、と、思わず頓狂な声が漏れてしまい、椛は慌てて口を引き結ぶ。しかし男は気にした素振りもなく、踵を返しながら先を続けた。

「その傷では、ろくに立ち上がることも出来まい。里へ戻ろうにも、戻れないだろう?」

 そんなこと――と喉元まで込み上げるが、椛は一呼吸置いてから、それをこくりと呑み込んだ。“里”という言葉が頭の中にこだませばこだますほど、薄ら寒いものが背筋を撫で上げる。あそこは確かに、鬼の棲まう里だった。椛の生まれ育った、鬼の里。

 けれどもまたあそこへ戻りたいかと言えば、そんな気持ちはまるでなかった。そもそも戻りたくとも、もう二度と戻ることは叶わないだろう。あの化物に襲われたせいで、あそこには幾つもの血痕を残してきてしまった。ほんの僅かな血でさえ、あの濃く甘い匂いは決して薄れない。

「飯は食えそうか? いくらあやかしと言えど、体力がなければ――」
「……戻る場所など、何処にもありません」