逃げている。
感覚のない足をどうにか動かして。無我夢中で、ただひたすらに。
それなのに、何故こんなにも必死に逃げているのか、椛には分からなかった。
呼吸をする度に、喉がつんと痺れ、鉄の臭いがする。空気というより、それはもう刃を吸い込んでいるのに近かった。切り裂かれた喉では肺を満たすことは出来ず、ひどく息苦しくてたまらない。
もう、走るのをやめてしまえば良い――。そう思う端から、背後で低い唸り声が上がる。里の者たちが"堕ちた"と呼ぶ、あの化物の声だ。一度は撒いたはずのそれが、血の匂いを辿って、またすぐそこまで迫っている。獣とも人とも違う、粘りつくような気配が、少しずつ。身体は無意識に震え、弾けるようにまた足が前へ進む。枯れ朽ちた木々の間を縫うように。
「あっ……!」
追手を確認しようと振り返った刹那、地面から這い出た根に足先をとられた。駆けていた勢いのまま身体が前のめりになり、硬い土に顔が叩きつけられる。跳ねた身体は道を逸れて幾度も地を打ち、砂埃と小石を巻き上げながら、切り立った坂道を滑り落ちてゆく。
巨大な石に身体がぶつかり、口の中でくぐもった嗚咽をもらしながら、地面に力なく横たわる。何処かでもげてしまったのではと思うほど、手足は何も感じない。
それでも本能だけで立ち上がろうとするけれど、踏ん張ることが出来ずに、再びぐらりと倒れ込む。呼吸をしている感覚も、これからどうしようという思考も、まるでなかった。仰向けに投げ出したまま、ただぼうっと空だけを眺める。
逃げなければ。――でも、どうして?
もう幾度繰り返したか分からない自問が、何かが近付いてくる足音とともに、あぶくのように弾け飛ぶ。血の臭いが、やけに濃く、甘い。それに誘われた獣でも人でもない“それ”が、すぐ傍にまで来ている。けれどもう、身体はまるで応えなかった。指先すら、少しも動かせない。
ここまでか、と誰かの声が、頭の奥で嗤う。けれど、まだ諦めてはいけない、と、また誰かが頭の中で叫びもしている。逃げなさい、と。答えはくれないくせに、ただただ逃げろと訴え続けている。冷たく、禍々しい気配が近付いてくればくるほど、その声はどんどんと大きくなってゆく。
「ミツ……ケタッ……」
いつの間にか視界の端に、季節外れの彼岸花が咲いていた。雲ひとつない蒼穹と、血濡れたように鮮やかな赤い花。茎の細さに比して、それは随分と大きいのに、どこか儚げで。
「ミツ……ケタッ……」
低い唸り声の合間に、ミツケタ、ミツケタ、と悍ましい声が何度も繰り返される。僅かばかり残っている自我のせいか、それとも疾うにそんなものは失ってしまっているせいか。いずれ“言葉”という形をもったものを口にすることは、出来なくなるだろう。それでも今はまだ、その瀬戸際にいることだけは分かる。
瞼が、ひどく重たい。あちこちから血の臭いがするのに、痛みはまるで感じなかった。感覚が麻痺しているのなら、このまま喰われる方が良いのかもしれない、とふと頭を擡げた考えに、微かに唇が歪む。苦痛にではなく、喜びに。
それならそれで良い。あんな地獄のような日々を送り続けるくらいならば、苦しみのないまま喰われて、命を終えてしまう方がよほど良い、と。
そう思うくせに、ならば何故逃げ出しなどしたのだろう、と不思議に思う。幾度も転び、刃のような爪に引っ掻かれ、身体のあちこちに傷を負ってなお、どうしてそれでも逃げることをやめられなかったのだろう、と。理性は生きることを拒んでいるくせに、本能は生きることを望んでいるという、矛盾――。
でもそれも、もう終わりだ。
胸の内でそう自嘲をこぼしながら、蒼穹をじりじりと蝕んでゆく黒い影を、虚ろな瞳で見つめる。どんなに本能が生に縋ろうとも、もう起き上がることも、走り出すこともできない。あとは如何にひと思いに殺されるか、ただそれだけだ。思い残すことは、何もない。――それを得られるような人生を、歩んでは来なかったのだから。
視界をすっぽりと覆った巨大な影は、思わず顔を顰めたくなるほど、歪でおどろおどろしい形をしていた。爛れた黒い皮膚、身体中にぱっくりと開いた傷口という傷口から、ぎょろりとこちらを見下ろす血走った無数の目玉。紫色のくすんだ肉厚の唇からは、唾液とも膿ともつかない粘液が糸を引きながらだらりと垂れ、言葉にならない呻きが喉の奥からごぼごぼと漏れていた。
ぬらり、ぬらりと上半身を左右に揺らすそれの額には、二本の角がすっと伸びている。かつて鬼であったことを示す、唯一残った名残。けれど全てを蝕まれ、呑まれてしまったこの鬼が、里の誰であるのかなど、もう判別もつかない。
「ミツ……ケタッ……」
唾液――或いは膿――に濡れた鋭い牙が、唇の間に覗く。それを見て、嗚呼もう死ぬのか――と、まるで他人事のように思う。受け入れるでもなく、拒むわけでもなく。ただただ"死"という事実を、ただの事実として。
退路は塞がれたのだ。ろくに抗う術も体力もないのだから、もう何を考えたところで無意味でしかない。そうして諦めを抱くと、頭の中は随分と静かになった。「ここまでか」と嗤う声も、「諦めてはいけない」と叫ぶ声も、もう何も聞こえない。
異様に大きな口が、にぃ、と歪む。耳の位置まで裂けた唇の奥に、鋭利な牙が覗き、不気味な嗤い声がこぼれた。
「……チ……チ……」
短刀と見紛うほどの太く鋭い爪が、少しずつ、少しずつ近付いてくる。無防備に晒した喉元へと。それを見るともなく見ていると、ふっ、と吐息のような笑みが微かにこぼれた。
(産まれてさえこなければ……)
家の恥だと蔑まれることも、嘲笑われ虐げられることも、こんな醜い“成れの果て”に襲われることもなかっただろうに。何故、産まれてきてしまったのだろう。
そう思い、僅かに自嘲を深めた――その時だった。
僅かに揺らいだ影の隙間から、真昼の冴えた大空に、三日月が見えたのは。
刹那、空を切るような音がしたかと思うと、視界の端で赤い彼岸花がゆらりと大きく揺れた。血の甘い臭いに混ざって、白檀の落ち着いた奥深い匂いが、ふわりと鼻先を掠める。殺伐としたこの場にまるで似合わない、清潔な香り。
頭上から聞こえていた唸りが唐突に消え、影の真ん中から、まるで雲の切れ間から差す光芒のように眩い陽光が溢れ出し、思わず目を眇める。
何が起きたのか、分からなかった。そもそも、それを考える力すら、もう僅かも残っていない。ただ、周囲を埋め尽くしていたはずの気味の悪い不快な気配が、ふつりと消えたのだけは分かる。視界を覆っていた影は、まるで燃え滓のように散り散りになって、空に溶けて消えてゆく。その様子を、わけも分からぬまま、ただ呆然と眺めていることしか出来ない。
「おい、生きてるか」
不意に声が聞こえ、澄んだ青空を隠すように、すっと誰かが覗き込んできた。屈んでいるのか、顔が随分と近い。風にゆるく靡く白銀の髪の毛、なめらかな色白の肌、筋の通った鼻梁、形の良い唇。長い睫毛に縁取られた切れ長の目の真ん中で、藤色の瞳が微かに動く。ほんの一瞬、けれど確かにそれは、傍らに咲く季節外れの彼岸花を捉え、そして僅かに見開かれた。
「君、まさか――」
言葉を失っている男の顔を、ゆっくりと霞んでゆく瞳で見つめながら、嗚呼この人は――と思う。思ったくせに、ひと瞬く間によく分からなくなって、そのまままるで暗幕が降りたかのように、椛の意識はそこでぷつりと途切れた。
感覚のない足をどうにか動かして。無我夢中で、ただひたすらに。
それなのに、何故こんなにも必死に逃げているのか、椛には分からなかった。
呼吸をする度に、喉がつんと痺れ、鉄の臭いがする。空気というより、それはもう刃を吸い込んでいるのに近かった。切り裂かれた喉では肺を満たすことは出来ず、ひどく息苦しくてたまらない。
もう、走るのをやめてしまえば良い――。そう思う端から、背後で低い唸り声が上がる。里の者たちが"堕ちた"と呼ぶ、あの化物の声だ。一度は撒いたはずのそれが、血の匂いを辿って、またすぐそこまで迫っている。獣とも人とも違う、粘りつくような気配が、少しずつ。身体は無意識に震え、弾けるようにまた足が前へ進む。枯れ朽ちた木々の間を縫うように。
「あっ……!」
追手を確認しようと振り返った刹那、地面から這い出た根に足先をとられた。駆けていた勢いのまま身体が前のめりになり、硬い土に顔が叩きつけられる。跳ねた身体は道を逸れて幾度も地を打ち、砂埃と小石を巻き上げながら、切り立った坂道を滑り落ちてゆく。
巨大な石に身体がぶつかり、口の中でくぐもった嗚咽をもらしながら、地面に力なく横たわる。何処かでもげてしまったのではと思うほど、手足は何も感じない。
それでも本能だけで立ち上がろうとするけれど、踏ん張ることが出来ずに、再びぐらりと倒れ込む。呼吸をしている感覚も、これからどうしようという思考も、まるでなかった。仰向けに投げ出したまま、ただぼうっと空だけを眺める。
逃げなければ。――でも、どうして?
もう幾度繰り返したか分からない自問が、何かが近付いてくる足音とともに、あぶくのように弾け飛ぶ。血の臭いが、やけに濃く、甘い。それに誘われた獣でも人でもない“それ”が、すぐ傍にまで来ている。けれどもう、身体はまるで応えなかった。指先すら、少しも動かせない。
ここまでか、と誰かの声が、頭の奥で嗤う。けれど、まだ諦めてはいけない、と、また誰かが頭の中で叫びもしている。逃げなさい、と。答えはくれないくせに、ただただ逃げろと訴え続けている。冷たく、禍々しい気配が近付いてくればくるほど、その声はどんどんと大きくなってゆく。
「ミツ……ケタッ……」
いつの間にか視界の端に、季節外れの彼岸花が咲いていた。雲ひとつない蒼穹と、血濡れたように鮮やかな赤い花。茎の細さに比して、それは随分と大きいのに、どこか儚げで。
「ミツ……ケタッ……」
低い唸り声の合間に、ミツケタ、ミツケタ、と悍ましい声が何度も繰り返される。僅かばかり残っている自我のせいか、それとも疾うにそんなものは失ってしまっているせいか。いずれ“言葉”という形をもったものを口にすることは、出来なくなるだろう。それでも今はまだ、その瀬戸際にいることだけは分かる。
瞼が、ひどく重たい。あちこちから血の臭いがするのに、痛みはまるで感じなかった。感覚が麻痺しているのなら、このまま喰われる方が良いのかもしれない、とふと頭を擡げた考えに、微かに唇が歪む。苦痛にではなく、喜びに。
それならそれで良い。あんな地獄のような日々を送り続けるくらいならば、苦しみのないまま喰われて、命を終えてしまう方がよほど良い、と。
そう思うくせに、ならば何故逃げ出しなどしたのだろう、と不思議に思う。幾度も転び、刃のような爪に引っ掻かれ、身体のあちこちに傷を負ってなお、どうしてそれでも逃げることをやめられなかったのだろう、と。理性は生きることを拒んでいるくせに、本能は生きることを望んでいるという、矛盾――。
でもそれも、もう終わりだ。
胸の内でそう自嘲をこぼしながら、蒼穹をじりじりと蝕んでゆく黒い影を、虚ろな瞳で見つめる。どんなに本能が生に縋ろうとも、もう起き上がることも、走り出すこともできない。あとは如何にひと思いに殺されるか、ただそれだけだ。思い残すことは、何もない。――それを得られるような人生を、歩んでは来なかったのだから。
視界をすっぽりと覆った巨大な影は、思わず顔を顰めたくなるほど、歪でおどろおどろしい形をしていた。爛れた黒い皮膚、身体中にぱっくりと開いた傷口という傷口から、ぎょろりとこちらを見下ろす血走った無数の目玉。紫色のくすんだ肉厚の唇からは、唾液とも膿ともつかない粘液が糸を引きながらだらりと垂れ、言葉にならない呻きが喉の奥からごぼごぼと漏れていた。
ぬらり、ぬらりと上半身を左右に揺らすそれの額には、二本の角がすっと伸びている。かつて鬼であったことを示す、唯一残った名残。けれど全てを蝕まれ、呑まれてしまったこの鬼が、里の誰であるのかなど、もう判別もつかない。
「ミツ……ケタッ……」
唾液――或いは膿――に濡れた鋭い牙が、唇の間に覗く。それを見て、嗚呼もう死ぬのか――と、まるで他人事のように思う。受け入れるでもなく、拒むわけでもなく。ただただ"死"という事実を、ただの事実として。
退路は塞がれたのだ。ろくに抗う術も体力もないのだから、もう何を考えたところで無意味でしかない。そうして諦めを抱くと、頭の中は随分と静かになった。「ここまでか」と嗤う声も、「諦めてはいけない」と叫ぶ声も、もう何も聞こえない。
異様に大きな口が、にぃ、と歪む。耳の位置まで裂けた唇の奥に、鋭利な牙が覗き、不気味な嗤い声がこぼれた。
「……チ……チ……」
短刀と見紛うほどの太く鋭い爪が、少しずつ、少しずつ近付いてくる。無防備に晒した喉元へと。それを見るともなく見ていると、ふっ、と吐息のような笑みが微かにこぼれた。
(産まれてさえこなければ……)
家の恥だと蔑まれることも、嘲笑われ虐げられることも、こんな醜い“成れの果て”に襲われることもなかっただろうに。何故、産まれてきてしまったのだろう。
そう思い、僅かに自嘲を深めた――その時だった。
僅かに揺らいだ影の隙間から、真昼の冴えた大空に、三日月が見えたのは。
刹那、空を切るような音がしたかと思うと、視界の端で赤い彼岸花がゆらりと大きく揺れた。血の甘い臭いに混ざって、白檀の落ち着いた奥深い匂いが、ふわりと鼻先を掠める。殺伐としたこの場にまるで似合わない、清潔な香り。
頭上から聞こえていた唸りが唐突に消え、影の真ん中から、まるで雲の切れ間から差す光芒のように眩い陽光が溢れ出し、思わず目を眇める。
何が起きたのか、分からなかった。そもそも、それを考える力すら、もう僅かも残っていない。ただ、周囲を埋め尽くしていたはずの気味の悪い不快な気配が、ふつりと消えたのだけは分かる。視界を覆っていた影は、まるで燃え滓のように散り散りになって、空に溶けて消えてゆく。その様子を、わけも分からぬまま、ただ呆然と眺めていることしか出来ない。
「おい、生きてるか」
不意に声が聞こえ、澄んだ青空を隠すように、すっと誰かが覗き込んできた。屈んでいるのか、顔が随分と近い。風にゆるく靡く白銀の髪の毛、なめらかな色白の肌、筋の通った鼻梁、形の良い唇。長い睫毛に縁取られた切れ長の目の真ん中で、藤色の瞳が微かに動く。ほんの一瞬、けれど確かにそれは、傍らに咲く季節外れの彼岸花を捉え、そして僅かに見開かれた。
「君、まさか――」
言葉を失っている男の顔を、ゆっくりと霞んでゆく瞳で見つめながら、嗚呼この人は――と思う。思ったくせに、ひと瞬く間によく分からなくなって、そのまままるで暗幕が降りたかのように、椛の意識はそこでぷつりと途切れた。

