舞踏会当日。時人と共に選んだドレスと装飾品を身につけ、周防伯爵邸の使用人に綺麗に仕上げてもらった奈月は時人にエスコートされて、絢瀬侯爵邸の持つ豪華絢爛で壮大な舞踏ホールに立っていた。
二週間みっちり作法の先生に教えてもらい、太鼓判まではいかなかったが見られる程度にはなったと合格はもらえた。とはいえ、奈月にとっては初めての舞踏会。時人の腕に添えた指先が震えてしまうのも仕方なかった。
そんな奈月を気遣うように、そっと時人の手が重ねられる。顔を上げた奈月の目に入ってきたのは、いつもと変わらない無表情にも見える時人の顔。だが眼差しや無表情の奥にはこちらを気遣う気持ちにあふれている。
自然と奈月の震えはおさまり、あっという間に穏やかな笑みを浮かべられるまでになった。
言葉も交わさず、ただ見つめ合うだけで分かり合っているようなふたりを見た舞踏会の参加者たちは、口々に噂した。
「まあ……見ました? 周防伯爵のお顔」
「あんなお顔もされるのね。噂は本当だったのかしら」
「ああ、なんでも伯爵が一目惚れして挙式を上げる間も惜しんで娶ったとかいう、あの?」
「そんなのあり得ないわと思っていましたけれど、おふたりの雰囲気を見るに、ねえ」
「周防伯爵が結婚したと聞いた時はどこの馬の骨がと思いましたけれど……あの方なら、なんとなく結婚する気持ちも分かる気がしますわ」
時々口さがない内容もあったが、概ね時人と奈月の結婚は肯定的に受け止められていた。
会場内の噂をひとしきり見て回った国見は満足したようにうなずいて、人だかりを抜けて時人と奈月の元へと赴く。
「やあ、時人。それから初めまして、奈月さん。僕は国見千良、時人の上司兼友人だよ」
「初めまして、国見様。周防奈月と申します」
奈月は教師から教えられたとおり、丁寧に礼を取る。国見も同じように礼を返した。
「来たか。……で、どうだった?」
「うーん、今のところは。とりあえず君たちの希望だった証人との接触は叶いそうだよ。何人か、ここに来てることを確認した」
どうしたって部外者で一般人の奈月と事件関係者を調査の名目で接触させることは難しい。それゆえに時人と国見は舞踏会での接触を試みる方針を固めた。
適当に主催者や知り合いに挨拶を済ませた後、偶然を装って対象者に近づく。挨拶と称し握手を求めることで自然と触れ合って異能の声を聞く。そういう手筈だった。
(……あれ?)
段取りどおり全てうまくことが運び対象者と触れ合った奈月は、近くで聞こえるようになった異能の声に、違和感を覚えた。
「どうかされまして?」
「あ、いえ。すみません。初めての参加なもので……少し酔ってしまったようです」
「まあ、大変。周防伯爵、休憩室へ連れて行ってあげてはいかが?」
「お言葉に甘えてそうさせていただきます。また何かあれば、いつでも相談に来てください」
時人と奈月は揃って頭を下げ、休憩室へと赴いた。ソファに奈月を座らせた時人は奈月の顔色が悪くなっていることに気づき、額に手の甲をあてがう。
奈月は一瞬肩を揺らしたが、時人の手を拒むことはなかった。
「本当に人に酔ったのか? それとも異能の影響か、どちらだ」
「……すみません、少しだけ、待っていただけますか。考えがまだ、自分の中で整理できていなくて」
「わかった。あなたが考えをまとめている間に、なにか飲み物をもらってこよう。少し席を外すな」
「申し訳ありません、ありがとうございます」
お辞儀をした奈月の頭を時人が軽く撫でる。
よほど顔色が悪く見えたのだろうか。時人が休憩室を出た後、扉を見ながら奈月はそっと時人が触れた頭部に手を当てた。
(困ったわ。考えなくちゃいけないことがあるのに……でも、あの方の役に立ちたいなら、今気にしなきゃいけないことを間違えてはいけないわ)
奈月は自分に言い聞かせ、先ほど対象者と触れ合った手をじっと見つめる。
聞こえた異能の声はふたつ。ひとつは対象者本人のもの。もうひとつは、証拠品から聞こえてきた声。同じく遠くかすかに聞こえる程度のものだったが、それでも証拠品からではわからなかった痕跡を辿ることができた。
その痕跡こそが奈月を混乱させた原因だった。
(……間違いがなければ、わたしはこの異能の声を知っている。異能石を通じてだけれど嫌というほど何度も聞かされたから、聞き間違えるはずがない)
なぜ、どうして――本当に間違っていない?
時人へ話す前に何度も、何度も自問自答と確認を繰り返した。そうしているとふいに足音が聞こえてきた。軍靴の音。だが切れ味はなく、なんとなくあまり聞いていたくはない。
足音は扉の前で止まり、軽く扉が叩かれた。「はい」と奈月が応えると扉が開き、見慣れた時人の姿がそこにある。持ってくると言っていた飲み物は手にしていない。
コン、と軍靴の底が床を打った。鈍いその音を聞いて、奈月は確信した。
「……あなたは、誰ですか?」
× × ×
階下の会場でもらった飲み物を片手にした時人が休憩室へと戻っている最中、ふいに廊下の向こうに人影が見えた。見覚えのある服装。時人が悩みに悩んで見繕い贈ったドレスだ。
奈月は休憩室で休んでいるはずだが、何かあったのかもしれない。急いで近づき、声をかけた。
「どうしたんだ? 何かあったのか?」
「時人様……」
片手を伸ばせば届くほどに距離を縮め、見上げてくる表情を確かめ話し方を聞いて、時人は思い切り眉間に皺を寄せて二歩分距離を取った。
「……なるほど、そういうことか。まさか犯人自ら出てくるとは思わなかったよ。だが、なんのために?」
「なんのお話ですか? 私はただ、時人様に大事なお話があって……」
「あの人は……奈月は、そんな顔をしない。俺の名を呼ぶこともない。待てと言われたら大人しく待つ人でもある。悪いが正体を暴かせてもらおう」
広げたばかりの距離を時人は一瞬で詰め、奈月の姿をした女の手を取った。異能を発動させると、どろりと空気が溶けていく。
「きゃあっ!」
甲高い悲鳴とともに姿を現したのは、逢坂汐里だった。
予想だにしなかった相手に時人は目を瞬かせ、一瞬怯んでしまう。その隙をついて汐里はどんっと時人を突き飛ばすと、来た道を戻るよう懸命に走り始めた。時人も急いで後を追いかける。
「っ……待て!」
しばらくもしないうちに汐里はどこかの部屋へ飛び込んだ。時人も何も考えず、後を追う。そして、一瞬瞠目してしまう。
部屋の中は混沌としていた。窓際に追い詰められた奈月に、追い詰める側に回った時人と同じ姿をした男。そしてなぜか、元久までいるではないか。
時人は全く状況が読み込めなかったが、奈月の危機であることと、これが追っていた事件と関係があることだけは考えるまでもなく分かった。
だから、迷いなく異能を使って自分の顔をした男をぶん殴った。ついでに、なぜか身体強化の異能を使い殴りかかってきていた元久も思いっきり投げ飛ばして押さえつける。
「何が何だかわからんが、スッキリはしたよ。まあ、この程度では今まで粗雑に扱われてきた奈月の分にもならないが」
「あ、ああ……」
汐里はその場にくずおれる。時人の顔をしていた男は異能を使っていたらしく、元の顔に戻って床に伸びていた。
「奈月、大丈夫か?」
「はい、おかげさまで……」
「いったい何があった、と聞きたいところだが事態の収束が先だな」
「国見様を呼んで参ります」
「ああ、助かる」
急いで部屋を出ていく奈月を横目に、仕事柄持ち歩いている手縄で元久と伸びている男を縛り上げ、絨毯の上に座り込んでいる汐里を見やった。
「……して、どうしてどうしてどうして、あんな無能が、気持ち悪い無能なのに! 私が幸せになるはずだったのに!」
「よく分からんが、あんたはなにがしたかったんだ?」
「私が幸せになるためにしたことよ」
「浮気の捏造をして離婚させたり、勝手に結婚させたりすることが? あんたの幸せとどう繋がるんだ」
「だってみんな、私のことが好きでしょう。好きになるの。好きだと言ったわ。それなのに勝手に結婚したり、私のこと知らないふりして……許せるわけないじゃない」
時人は憐れな存在を見るような眼差しを汐里に向けた。
「異能に飲み込まれてたか。……そりゃ、こんな理由じゃ法則性も犯行の動機もわからんわけだ」
前髪を掻き上げて時人がしがしと乱雑に髪をかき乱す。その表情は、ここ数週間を思った徒労感に苛まれていた。
× × ×
極秘裏に捜査を進めていた離婚の急増と勝手に結婚していた騒動は.誰も予想していなかったが時人たちが参加した舞踏会の夜で一気に収拾がついた。
いや、犯人の自滅、というのが正しいだろう。汐里に話を聞いたところによると時人と奈月が幸せそうに見えたことが、衝動的に行動を起こすきっかけになったという。
「そういう点では、よかったとも言えるだろうか。あなたの助力あっての解決だったことは間違いない」
「そんな……恐れ多いです。ですが、もし本当にお役に立てたのであれば、とても嬉しく思います」
舞踏会から数日後の夜、周防伯爵邸の奈月に割り当てられた部屋の中でふたりは向かい合って座っていた。
まだ取調べは終わっていないが、ひと段落ついたためと時人が奈月に報告しにきてくれたのだ。
「俺の姿を騙っていた男は中林といって、最近は逢坂汐里の付き人をやっていたそうだ」
「一緒にいるところを何度か見かけたことがあります。異能も変装関係のはずですからうってつけだったかと。今思えば、事件の発生時期と、中林が付き人になった時期的にも近いです。すぐに気づけず申し訳ありません」
「いや、まさかそんな近くに犯人がいるとは思わんだろう。あなたが謝ることではない。逢坂元久についてだが……調査していた事件への関連性はないことが認められた。あの場にいたのは妹におまえを脅かしてほしいと頼まれたからだった、という」
「はあ……その、なんと言いますか。逢坂の家は、それでよかったのでしょうか」
「よかったんじゃないか? そういう人間を良しとして育てた家なんだしな。相応の報いを受ける時期が来ただけだ。とは言っても重くても貴族籍の剥奪ぐらいなものだから、そこまでの罰は与えられないだろう。……すまんな」
時人としては、今まで奈月が虐げられてきた分の仕返しもしてあげたいと考えていたが、今回の事件とは関係のないことだ。私情を持ち込むことになる。できるはずもない。
せめてもう少し元久だけでも殴っておけばよかったか、などと思う程度に留まってしまったからこそ、申し訳なさを感じていた。
「ひとまず事件は解決したと見ていい。俺たちの契約もこれで終わりだ」
「そう、ですよね。そういう、契約でした」
奈月は両膝に乗せた手をギュッと握る。
(これでわたしは、お役御免……時人様ともお別れなのね)
つきりと痛む胸の正体には、気づいている。初めての感情。初めての恋。そうだと悟って諦めたのは、足音で時人ではないと見抜けてしまったときのことだった。
無能で気味が悪い存在がこんな感情を抱くこと自体が間違っているのかもしれない。去り際ぐらい綺麗に終わらせたほうが時人の記憶に残るかもしれない。
時間のあったこの数日の間に色々考えていたが、奈月は自己満足だとしてもこれまで丁寧に、誠実に向き合い続けてくれた時人の気持ちを大事にしたかったし、自分も時人のような人間になりたいと願っていた。
だから――引き結んだ唇をゆっくりと開き、頭を下げる。
「契約関係でしかなかったにも関わらず、こんな気持ちを抱いてしまい申し訳ございません」
「突然、どうしたんだ?」
「……離れたくないと、思ってしまったのです。いつからか、あなた様をお慕い、してしまっておりました」
ひゅ、と息を吸い損なったような音が聞こえた。やはり、言ったのは間違っていたのかもしれない。そんな一抹の不安があったが、不思議と言葉にしたことですっきりとした気持ちになり、時間は必要だがいつの日か綺麗に吹っ切れそうな感覚もあった。
だが、奈月の抱いたそんな感覚は一瞬で吹き飛ぶ。視線の先に軍靴の先が見えたかと思うと、頬に温かな感触が触れた。時人の手とぬくもりだと気づいたときには、鋭さの中にもあたたかさのある時人の瞳が奈月へ真っ直ぐに向けられていた。
「あなたは、いつも素直だな。そういうところに俺も……、……だが、過去形にされては困る。俺もあなたのことを想い始めている。契約から始まったものだが……奈月、あなたさえ良ければこのまま俺と結婚生活を続けてくれないか。今度は、本当の夫婦として」
「……わたしで、良いのですか?」
「おまえがいいんだ。……おまえがいい。奈月でなくてはダメだ」
強く握っていた手に時人の手が重ねられ、ゆっくり解かれていく。そして、左手を取られたかと思うと、薬指を冷たい感触が二度、通って行った。
見れば嵌めていた結婚指輪についていた石が、宝石から異能石に変わっていた。その存在を奈月に知らせるよう、緩く時人が手を握ってくれる。
いつの間にか奈月の両目からは、つう、と喜びの涙が溢れていた。角張った軍人らしい時人の指先が涙を拭ってくれる。
奈月はしばし喜びを噛み締めた後、とびきりの笑顔を浮かべて時人の手を握り返した。
「ふつつかものですが、よろしくお願いいたします、時人様。わたしなんかを望んでくれた分お返しできるよう、精一杯幸せにしてみせます」
時人はふ、と表情を崩して誰も見たことがないほど優しく笑うとこつん、と奈月の額に額を重ね合わせた。
「それは俺の言葉だ。だから一緒に幸せになろう。約束だ」
「……はい。ともに」
それからふたりはお互いの気持ちを噛み締めるよう、どちらからともなく抱き合ってしずかに寄り添いあった。
二週間みっちり作法の先生に教えてもらい、太鼓判まではいかなかったが見られる程度にはなったと合格はもらえた。とはいえ、奈月にとっては初めての舞踏会。時人の腕に添えた指先が震えてしまうのも仕方なかった。
そんな奈月を気遣うように、そっと時人の手が重ねられる。顔を上げた奈月の目に入ってきたのは、いつもと変わらない無表情にも見える時人の顔。だが眼差しや無表情の奥にはこちらを気遣う気持ちにあふれている。
自然と奈月の震えはおさまり、あっという間に穏やかな笑みを浮かべられるまでになった。
言葉も交わさず、ただ見つめ合うだけで分かり合っているようなふたりを見た舞踏会の参加者たちは、口々に噂した。
「まあ……見ました? 周防伯爵のお顔」
「あんなお顔もされるのね。噂は本当だったのかしら」
「ああ、なんでも伯爵が一目惚れして挙式を上げる間も惜しんで娶ったとかいう、あの?」
「そんなのあり得ないわと思っていましたけれど、おふたりの雰囲気を見るに、ねえ」
「周防伯爵が結婚したと聞いた時はどこの馬の骨がと思いましたけれど……あの方なら、なんとなく結婚する気持ちも分かる気がしますわ」
時々口さがない内容もあったが、概ね時人と奈月の結婚は肯定的に受け止められていた。
会場内の噂をひとしきり見て回った国見は満足したようにうなずいて、人だかりを抜けて時人と奈月の元へと赴く。
「やあ、時人。それから初めまして、奈月さん。僕は国見千良、時人の上司兼友人だよ」
「初めまして、国見様。周防奈月と申します」
奈月は教師から教えられたとおり、丁寧に礼を取る。国見も同じように礼を返した。
「来たか。……で、どうだった?」
「うーん、今のところは。とりあえず君たちの希望だった証人との接触は叶いそうだよ。何人か、ここに来てることを確認した」
どうしたって部外者で一般人の奈月と事件関係者を調査の名目で接触させることは難しい。それゆえに時人と国見は舞踏会での接触を試みる方針を固めた。
適当に主催者や知り合いに挨拶を済ませた後、偶然を装って対象者に近づく。挨拶と称し握手を求めることで自然と触れ合って異能の声を聞く。そういう手筈だった。
(……あれ?)
段取りどおり全てうまくことが運び対象者と触れ合った奈月は、近くで聞こえるようになった異能の声に、違和感を覚えた。
「どうかされまして?」
「あ、いえ。すみません。初めての参加なもので……少し酔ってしまったようです」
「まあ、大変。周防伯爵、休憩室へ連れて行ってあげてはいかが?」
「お言葉に甘えてそうさせていただきます。また何かあれば、いつでも相談に来てください」
時人と奈月は揃って頭を下げ、休憩室へと赴いた。ソファに奈月を座らせた時人は奈月の顔色が悪くなっていることに気づき、額に手の甲をあてがう。
奈月は一瞬肩を揺らしたが、時人の手を拒むことはなかった。
「本当に人に酔ったのか? それとも異能の影響か、どちらだ」
「……すみません、少しだけ、待っていただけますか。考えがまだ、自分の中で整理できていなくて」
「わかった。あなたが考えをまとめている間に、なにか飲み物をもらってこよう。少し席を外すな」
「申し訳ありません、ありがとうございます」
お辞儀をした奈月の頭を時人が軽く撫でる。
よほど顔色が悪く見えたのだろうか。時人が休憩室を出た後、扉を見ながら奈月はそっと時人が触れた頭部に手を当てた。
(困ったわ。考えなくちゃいけないことがあるのに……でも、あの方の役に立ちたいなら、今気にしなきゃいけないことを間違えてはいけないわ)
奈月は自分に言い聞かせ、先ほど対象者と触れ合った手をじっと見つめる。
聞こえた異能の声はふたつ。ひとつは対象者本人のもの。もうひとつは、証拠品から聞こえてきた声。同じく遠くかすかに聞こえる程度のものだったが、それでも証拠品からではわからなかった痕跡を辿ることができた。
その痕跡こそが奈月を混乱させた原因だった。
(……間違いがなければ、わたしはこの異能の声を知っている。異能石を通じてだけれど嫌というほど何度も聞かされたから、聞き間違えるはずがない)
なぜ、どうして――本当に間違っていない?
時人へ話す前に何度も、何度も自問自答と確認を繰り返した。そうしているとふいに足音が聞こえてきた。軍靴の音。だが切れ味はなく、なんとなくあまり聞いていたくはない。
足音は扉の前で止まり、軽く扉が叩かれた。「はい」と奈月が応えると扉が開き、見慣れた時人の姿がそこにある。持ってくると言っていた飲み物は手にしていない。
コン、と軍靴の底が床を打った。鈍いその音を聞いて、奈月は確信した。
「……あなたは、誰ですか?」
× × ×
階下の会場でもらった飲み物を片手にした時人が休憩室へと戻っている最中、ふいに廊下の向こうに人影が見えた。見覚えのある服装。時人が悩みに悩んで見繕い贈ったドレスだ。
奈月は休憩室で休んでいるはずだが、何かあったのかもしれない。急いで近づき、声をかけた。
「どうしたんだ? 何かあったのか?」
「時人様……」
片手を伸ばせば届くほどに距離を縮め、見上げてくる表情を確かめ話し方を聞いて、時人は思い切り眉間に皺を寄せて二歩分距離を取った。
「……なるほど、そういうことか。まさか犯人自ら出てくるとは思わなかったよ。だが、なんのために?」
「なんのお話ですか? 私はただ、時人様に大事なお話があって……」
「あの人は……奈月は、そんな顔をしない。俺の名を呼ぶこともない。待てと言われたら大人しく待つ人でもある。悪いが正体を暴かせてもらおう」
広げたばかりの距離を時人は一瞬で詰め、奈月の姿をした女の手を取った。異能を発動させると、どろりと空気が溶けていく。
「きゃあっ!」
甲高い悲鳴とともに姿を現したのは、逢坂汐里だった。
予想だにしなかった相手に時人は目を瞬かせ、一瞬怯んでしまう。その隙をついて汐里はどんっと時人を突き飛ばすと、来た道を戻るよう懸命に走り始めた。時人も急いで後を追いかける。
「っ……待て!」
しばらくもしないうちに汐里はどこかの部屋へ飛び込んだ。時人も何も考えず、後を追う。そして、一瞬瞠目してしまう。
部屋の中は混沌としていた。窓際に追い詰められた奈月に、追い詰める側に回った時人と同じ姿をした男。そしてなぜか、元久までいるではないか。
時人は全く状況が読み込めなかったが、奈月の危機であることと、これが追っていた事件と関係があることだけは考えるまでもなく分かった。
だから、迷いなく異能を使って自分の顔をした男をぶん殴った。ついでに、なぜか身体強化の異能を使い殴りかかってきていた元久も思いっきり投げ飛ばして押さえつける。
「何が何だかわからんが、スッキリはしたよ。まあ、この程度では今まで粗雑に扱われてきた奈月の分にもならないが」
「あ、ああ……」
汐里はその場にくずおれる。時人の顔をしていた男は異能を使っていたらしく、元の顔に戻って床に伸びていた。
「奈月、大丈夫か?」
「はい、おかげさまで……」
「いったい何があった、と聞きたいところだが事態の収束が先だな」
「国見様を呼んで参ります」
「ああ、助かる」
急いで部屋を出ていく奈月を横目に、仕事柄持ち歩いている手縄で元久と伸びている男を縛り上げ、絨毯の上に座り込んでいる汐里を見やった。
「……して、どうしてどうしてどうして、あんな無能が、気持ち悪い無能なのに! 私が幸せになるはずだったのに!」
「よく分からんが、あんたはなにがしたかったんだ?」
「私が幸せになるためにしたことよ」
「浮気の捏造をして離婚させたり、勝手に結婚させたりすることが? あんたの幸せとどう繋がるんだ」
「だってみんな、私のことが好きでしょう。好きになるの。好きだと言ったわ。それなのに勝手に結婚したり、私のこと知らないふりして……許せるわけないじゃない」
時人は憐れな存在を見るような眼差しを汐里に向けた。
「異能に飲み込まれてたか。……そりゃ、こんな理由じゃ法則性も犯行の動機もわからんわけだ」
前髪を掻き上げて時人がしがしと乱雑に髪をかき乱す。その表情は、ここ数週間を思った徒労感に苛まれていた。
× × ×
極秘裏に捜査を進めていた離婚の急増と勝手に結婚していた騒動は.誰も予想していなかったが時人たちが参加した舞踏会の夜で一気に収拾がついた。
いや、犯人の自滅、というのが正しいだろう。汐里に話を聞いたところによると時人と奈月が幸せそうに見えたことが、衝動的に行動を起こすきっかけになったという。
「そういう点では、よかったとも言えるだろうか。あなたの助力あっての解決だったことは間違いない」
「そんな……恐れ多いです。ですが、もし本当にお役に立てたのであれば、とても嬉しく思います」
舞踏会から数日後の夜、周防伯爵邸の奈月に割り当てられた部屋の中でふたりは向かい合って座っていた。
まだ取調べは終わっていないが、ひと段落ついたためと時人が奈月に報告しにきてくれたのだ。
「俺の姿を騙っていた男は中林といって、最近は逢坂汐里の付き人をやっていたそうだ」
「一緒にいるところを何度か見かけたことがあります。異能も変装関係のはずですからうってつけだったかと。今思えば、事件の発生時期と、中林が付き人になった時期的にも近いです。すぐに気づけず申し訳ありません」
「いや、まさかそんな近くに犯人がいるとは思わんだろう。あなたが謝ることではない。逢坂元久についてだが……調査していた事件への関連性はないことが認められた。あの場にいたのは妹におまえを脅かしてほしいと頼まれたからだった、という」
「はあ……その、なんと言いますか。逢坂の家は、それでよかったのでしょうか」
「よかったんじゃないか? そういう人間を良しとして育てた家なんだしな。相応の報いを受ける時期が来ただけだ。とは言っても重くても貴族籍の剥奪ぐらいなものだから、そこまでの罰は与えられないだろう。……すまんな」
時人としては、今まで奈月が虐げられてきた分の仕返しもしてあげたいと考えていたが、今回の事件とは関係のないことだ。私情を持ち込むことになる。できるはずもない。
せめてもう少し元久だけでも殴っておけばよかったか、などと思う程度に留まってしまったからこそ、申し訳なさを感じていた。
「ひとまず事件は解決したと見ていい。俺たちの契約もこれで終わりだ」
「そう、ですよね。そういう、契約でした」
奈月は両膝に乗せた手をギュッと握る。
(これでわたしは、お役御免……時人様ともお別れなのね)
つきりと痛む胸の正体には、気づいている。初めての感情。初めての恋。そうだと悟って諦めたのは、足音で時人ではないと見抜けてしまったときのことだった。
無能で気味が悪い存在がこんな感情を抱くこと自体が間違っているのかもしれない。去り際ぐらい綺麗に終わらせたほうが時人の記憶に残るかもしれない。
時間のあったこの数日の間に色々考えていたが、奈月は自己満足だとしてもこれまで丁寧に、誠実に向き合い続けてくれた時人の気持ちを大事にしたかったし、自分も時人のような人間になりたいと願っていた。
だから――引き結んだ唇をゆっくりと開き、頭を下げる。
「契約関係でしかなかったにも関わらず、こんな気持ちを抱いてしまい申し訳ございません」
「突然、どうしたんだ?」
「……離れたくないと、思ってしまったのです。いつからか、あなた様をお慕い、してしまっておりました」
ひゅ、と息を吸い損なったような音が聞こえた。やはり、言ったのは間違っていたのかもしれない。そんな一抹の不安があったが、不思議と言葉にしたことですっきりとした気持ちになり、時間は必要だがいつの日か綺麗に吹っ切れそうな感覚もあった。
だが、奈月の抱いたそんな感覚は一瞬で吹き飛ぶ。視線の先に軍靴の先が見えたかと思うと、頬に温かな感触が触れた。時人の手とぬくもりだと気づいたときには、鋭さの中にもあたたかさのある時人の瞳が奈月へ真っ直ぐに向けられていた。
「あなたは、いつも素直だな。そういうところに俺も……、……だが、過去形にされては困る。俺もあなたのことを想い始めている。契約から始まったものだが……奈月、あなたさえ良ければこのまま俺と結婚生活を続けてくれないか。今度は、本当の夫婦として」
「……わたしで、良いのですか?」
「おまえがいいんだ。……おまえがいい。奈月でなくてはダメだ」
強く握っていた手に時人の手が重ねられ、ゆっくり解かれていく。そして、左手を取られたかと思うと、薬指を冷たい感触が二度、通って行った。
見れば嵌めていた結婚指輪についていた石が、宝石から異能石に変わっていた。その存在を奈月に知らせるよう、緩く時人が手を握ってくれる。
いつの間にか奈月の両目からは、つう、と喜びの涙が溢れていた。角張った軍人らしい時人の指先が涙を拭ってくれる。
奈月はしばし喜びを噛み締めた後、とびきりの笑顔を浮かべて時人の手を握り返した。
「ふつつかものですが、よろしくお願いいたします、時人様。わたしなんかを望んでくれた分お返しできるよう、精一杯幸せにしてみせます」
時人はふ、と表情を崩して誰も見たことがないほど優しく笑うとこつん、と奈月の額に額を重ね合わせた。
「それは俺の言葉だ。だから一緒に幸せになろう。約束だ」
「……はい。ともに」
それからふたりはお互いの気持ちを噛み締めるよう、どちらからともなく抱き合ってしずかに寄り添いあった。
