愛を知った冷徹軍人と、契約婚から本当の夫婦になるまで

 時人に与えられた数日の休暇中、ふたりは家の中で思い思いに過ごしていた。
 基本奈月はこれまでどおり逢坂の家で暮らしていたように、自室へこもって本を読んで時間を潰す。逢坂邸での暮らしと違うことと言えば、食事の時間は必ず時人も一緒であるということ。食事中はもちろんだが、食事の後や寝る前、朝にも挨拶などとともにぽつぽつとだが言葉を交わすこと。
 初日は慣れないからどうすれば良いのか分からなかった奈月も、時人の休暇が終わる頃には(明日からお昼はひとりなのね)と少し寂しさを覚えるようになってしまっていた。
 これまでがひとりで過ごしてきたから気づかなかったが、誰かと共に過ごす時間に飢えていたのかもしれない。そうでなかったとしても奈月にとって、時人と共に過ごす時間というのは心地よいものだった。
 蔑みも嫌悪も罵倒されることもない。口数は決して多くはないが、いつだって心遣いを感じる。話していなくとも同じ空間にいるだけで不思議と穏やかな気持ちになれる。

(社交界の女性がみな時人様に目を向けられたいと思う気持ちが、今ならとてもわかるわ。あの人に見られると、なんだかとても……あたたかい気持ちになるもの)

 生まれてから二十年。初めて本当の安心、というものを味わった気がする。
 生家でもなく血の繋がった家族の元でもなく、出会ってたった数日の契約結婚の相手にこんな気持ちを抱くなんておかしいかもしれないが、抱いてしまったものは仕方がない。
 だからこそ、なお一層時人の役に立ちたいという思いが奈月の中で大きくなっていた。
 とはいえ世の中そううまくいくものではない。
 休暇中も時折、軍部の人間らしい人が周防伯爵邸に訪れては、時人に頼まれて異能の声を聞く、という作業を行なっていた。
 だがやはり初回と同じく異能の声は遠く、うまく聞き取れない。試しに許可を得て証拠品そのものに触れてみたものの、声が近くなることはなかった。異能が使われた状況自体が書類や証拠品とはあまり関係ないことなのでは、というのが奈月の見解だった。

「これは確実ではないですけれど、可能であれば事件の証人自体に触れたほうが分かることはあるかもしれません」
「そうなのか?」
「無機物よりも人、異能には異能の声が残りやすいのです。ええと……つまり、たとえばですが、誰かが近くにいる人に対して異能を使ったとします。その使われた異能の声を聞こうと思うと、着物の上から異能が使われたか、それとも素肌に対して使われたかで、声の大きさや分かることが変わったりするんです。証拠品に異能石があれば、話はまた変わってくるのですが」
「なるほど、異能の声を聞くためには思ったより厳しい条件があるのだな」

 ソファに座ったまま時人は腕を組み、少し考え込むそぶりを見せる。表情や雰囲気に変化はないが、多分何か、その何かは奈月と証人を引き合わせるかどうか悩んでいるのだろうと奈月は感じていた。
 整った美しい切眉が今は少し下がり、艶のある左側口角がわずかに持ち上げられている。一見するだけではいつもと変わりないように見える時人だったが、よくよく注視すれば存外感情豊かだ。
 そんな些細な変化を見分けられるだけで心の奥がじんわりとあたたかくなっていくような、これまでにない感情を覚える度に奈月は膝の上に置いた手のひらを強く握り込んだ。

「ありがとう。あなたの話も合わせて、上と話して今後を検討する。また何か頼むときは声を掛けさせてもらう」

 × × ×

 数日の休暇を経て出勤した時人を待っていたのは、うまく国見が取り計らってくれたらしく「結婚したって本当か?」という同僚からの問いと、興味深々な数多の眼差しであった。
「ああ、本当だ」と適当に対応し、積まれた書類の山を崩していく。いつもと変わらない作業。期待していたような変化は見受けられない。しばらくしたところで国見に呼ばれていると声を掛けられ、国見の執務室へと赴いた。

「どうだった? 新婚休暇は」
「思ったより話が広がっているな。接触があるならこれからか、それとも何かしら接触には条件があるのか……」
「今のところ、離婚騒動も勝手に結婚させられる件も共通点は貴族、ぐらいしか見当たらないけれどね」
「事件報告の件数に変化は?」
「君が休んでいる間に二件増えたよ」
「……その早さなら内部だけでなく、外にも目を向ける必要があるか」
「まあ、内部犯である可能性があるってだけで、確証はなかったしねえ」

 国見は座っていた椅子ごとくるりと回って、足をぶらつかせた。

「これだけ件数が上がってるにも関わらず、犯人に関する情報がほとんどない。誰が何の目的でやってるかもわからない。いやあ、困ったものだ」
「……誰かが遊び程度にやってるからこそわからんのかもな。知能犯よりも無差別的な意図のない犯罪のほうが、現場は混乱する」
「貴族に恨みがあるわけでもなく、ってこと?」
「恨みがあれば痕跡も残るだろう。だが……いや、だからこそ、貴族だけを狙っているという点を踏まえれば、犯人は貴族である可能性が高い」
「貴族の新しい娯楽……うん、可能性としては十分だね。嫌だなあ、そうなってくると話が面倒くさくなる。個人の犯罪ならありがたいなあ」
「あの人の話を信じるなら、個人、多くとも二人ぐらいの犯行だろうが……裏にいないとも限らないからな」

 ふう、と国見はため息を吐いた。それから、嫌そうに髪を撫でつける。

「貴族の横槍が入ってくる前にカタをつけたいね」
「ああ、その件だが……彼女と証人を引き合わせることは可能か? その方がわかることもあるかもしれん、と本人が言っていてな」
「部外者だからな……難しいが、どうにかできるように手配してみよう」
「頼む。俺は外……社交界にも目を向けてみよう。手頃で良さげな舞踏会はあるか?」
「一番直近だと絢瀬侯爵の舞踏会かな。あの人ほら、いつも貴族のほとんどを招待するし、様子をうかがうにはちょうどいいんじゃない?」
「ならばそこに合わせるか。おまえも出るのか?」
「予定はなかったけど、時人が調査のために出るなら僕もいくよ」
「そうか。おまえと彼女の異能があれば多少進展が望めるかもしれん」

 それほど期待しているわけではない。砂漠の中から一粒の砂金を見つけるような作業だ。けれどたとえ砂金が見つからなかった、という情報でも確定するだけでも今は重要だ。
 内部犯の可能性もあり、大規模な捜査に踏み切れない以上できることを地道に地道に続けていくしかない。
 二人揃って吐き出した疲労感の滲むため息が部屋の中に響いた。

 × × ×

「舞踏会へ、ですか?」

 帰宅した時人と夕食を共に取り終わった後、習慣化しつつある会話の流れで提案された舞踏会への参加に、奈月は思わず表情を強張らせた。

「無理強いするつもりはない。ただ今回の仕事の調査に必要でな、あなたの助力があれば有難いんだが」
「異能の声を聞くことが必要になる、ということですか?」
「それも可能ならばやってもらえると助かるが、今回はどちらかというと俺とあなたが結婚した、ということを貴族連中に広く広める目的がある」
「結婚を……」

 奈月は時人の仕事内容に関与してはいるが、現在どんな仕事に携わっているのかまでは聞いていない。だからふたりの契約結婚を広めることがどんな利益に繋がるのか、皆目見当がつかなくてわずかに首を捻ってしまう。
 ただ、どんな目的があるのかわからなくても、未知の世界に飛び込むことへの恐怖があっても、時人に頼まれ頼られた時点で奈月の答えは決まっていた。

「わたしでお役に立てるのであれば、喜んでご一緒させてください。ただ、無作法所以にご迷惑をかけてしまわないか、不安があります」
「ああ、その点は気にしなくていい。俺だって詳しい作法はわからん。それに参加する舞踏会の主催は人好きで寛容らしい。俺は伯爵である前に軍人だし、あなたも軍人の妻だ。最低限の礼節あれば、とやかく言われることもないはずだ」
「それならば良いのですが……でも、そのお言葉に甘えて何もしないのは落ち着きません。舞踏会までどれぐらい日がありますか?」
「たしか、二週間ほどだ」
「では……あの、不躾ながらお願いがございます。舞踏会までの間、礼節の勉強をさせていただけませんか? できることは限られていますが、二週間で周防伯爵の妻の名に相応しい最低限の作法を身につけられるよう、尽力いたします。そのほうが、調査のお役にも立てるかと」

 癖のある長い黒髪をさらりと垂れるのも構わず頭を下げた奈月に、時人は目を瞬かせた。一度口を開き「何もそこまでしなくとも」と言いかけたが、喉の奥まで迫り上がってきていたその言葉を飲み込む。
 周防邸へ来て、初めて見せた奈月の欲に近しい感情が妙に嬉しい反面、その欲が時人へ対する献身であることになんとも言えない複雑な気持ちを抱く。
――もしかして自分は、何かよくない方向へと彼女を導いてしまっているのではないか。
 時人はそんな予感がし始めていたが、こんなふうに奈月が直向きな想いを向けてくれていることに悪い気がしないことも事実だった。

(……最近の俺は、なにかがおかしい。彼女と出会ってから、自分が自分ではないような気がすることが多々ある)

 ぐしゃりと髪を掻き上げ、軽く乱れた髪を撫でつけた。

「わかった。作法の教師を用意しよう。他に必要なものがあればいつでも言ってくれ。……ああ、ドレスや宝飾品は、近いうちに共に見にいくからそのつもりでいてくれ」