愛を知った冷徹軍人と、契約婚から本当の夫婦になるまで

(困ったわ……どうすればいいのかしら)

 周防伯爵へと嫁いだその日、時人が仕事に戻ってからの奈月はしばし頭を悩ませていた。
 自由に過ごしていてほしいと言われたが何をすればいいのかわからない。
 逢坂邸での暮らしと言えば本を読むか身の回りのことを自分でするぐらいで、他にできることもなかった。それゆえ周防の家でも同じようにすればいいだろうかと考えていたが、なかなかそうもいかない。
 と言うのも、周防伯爵邸にも使用人がいる。彼ら彼女らは逢坂邸の人たちとは違い、ごく当たり前のように奈月の世話も行おうとしてくれる。そうなると本を読む以外何もすることがないが、自由にと言われても許可なく勝手に書斎へと入るのも気が進まない。
 結局奈月へとあてがわれた部屋に案内してもらい、何冊か使用人に本を見繕ってもらって大人しく部屋で過ごす以外の選択肢がなかった。
 一冊目の本を読み終えて二冊目へと手を伸ばしたとき、軽く扉を叩く音が耳に届いた。伸ばしかけた手を引っ込め「はい」と応えると、扉が開いて時人が部屋に入ってくる。
 少し前に出て行ったばかりだと言うのに戻ってきた時人に、奈月は目を丸めた。

「おかえりなさいませ。お仕事は大丈夫なのですか?」
「ああ。報告は終えたし、これも仕事の一環だ。数日休みをもらってきた」
「仕事の一環でお休みを……では、わたしも何かお手伝いをしたほうが良いことがある、ということでしょうか」
「いや、適当に過ごしていてくれて構わん。俺がいるのが気になるようなら考えるが」
「そんなことはございません。ただ、お役に立てることがあるならば嬉しいと、少し気持ちが逸ったのです」

 今度は時人が目を丸めた。まじまじと奈月を見た後、言うか言うまいかと迷うように唇を何度か遊ばせてから、申し訳なさそうな声音で問いかける。

「……あなたは素直な質なのか?」
「どうでしょうか。自分ではわかりません。ただ、嘘も隠し事もなしだと契約にありましたから」
「こういうことにまでは適応されない……と思う。だから、調査に関係しないときには言いたくないことまで言う必要はない」
「申し訳ありません。……こうして人と会話することがほとんどなかったものですから、程度がわからないのです。不快に思うことがあれば、遠慮なくおっしゃってください」

 時人はもう一度まじまじと奈月を見て、ぐしゃぐしゃと髪を掻き乱した。

「この家ではあなたの思うまま、好きなように振る舞えばいい。限度があると思えば、都度言おう。俺はあまり細かいことを気にしない側の人間だから、気になることがあればあなたも都度言ってくれ」
「……あの、でしたら不躾で申し訳ありませんが、ひとつ、良いでしょうか」
「なんだ?」
「家から何も持ち出せなかったので、日用品がないのです」
「……ああ、そうだったな。悪い、そこまで気が回らなかった。こちらで用意しよう。……いや、一緒に見に行ったほうがいいか?」

 独り言のように呟いた時人は顎を撫でた。奈月は目を瞬かせ、うかがうように時人を見る。
 社交界にも外の世界にも疎い奈月だったが、周防時人の名ぐらいは聞いたことがあった。汐里と元久が度々口にするからだ。
 冷徹な軍人らしい軍人。社交界には滅多と顔を出さず、けれど数多の女性が周防時人に目を向けられることを望んでいる。それほどの美貌と身分を持ち、その上で軍内部での信用も厚く最強と名高い人。
 そんな前知識があったこと、仕事のためにと契約とはいえなんの躊躇もなく見ず知らずの、奈月のような人間と結婚してしまえること。全てを総合的に見て、合理的に物事を考える人なのだろうと奈月は考えていた。
 けれど少しの間の会話でも、ほんのわずか共にいるだけでもわかる。

(時人さまは、とても優しい方だわ。わたしなんかのために、心を砕いてくださって……振る舞いだけでなくて言葉の節々に、わたしへの気遣いが感じられる)

 奈月は普通を知らない。逢坂の家での無視や気味悪がられる日々が日常であり、当たり前だった。だから余計に時人の言動に感じるものがあるのかもしれない。うっすらそんな気持ちを抱くものの、決してそれだけではないと確信もしていた。
 着物の合わせ目を軽く握る。口にした言葉に嘘はない。この結婚で誰かの役に立てるのであれば幸せだと思った。制約も奈月にとってはあってないようなものである。
 けれど制約や契約も何も関係なく、この人の――時人の役に立てたらと、出会ったばかりにも関わらず、そんな気持ちが芽生え始めていた。

「あなたはどうしたい?」

 突然の予想していなかった問いかけに、奈月は最初何を問われているのか全くわからなかった。思わず首を傾げて時人を見やる。

「え、っと……」
「好みなどもあるだろう。俺が用意しても構わんが、自分で見て決めたいかと思ったんだが」
「あ……すみません、今まで、何かを選ぶという機会もなかったものですから。好みも自分ではよくわかりませんし、伯爵様にご負担のない形でお願いできればと思います」

 奈月は申し訳なさを滲ませ頭を下げた。そんな仕草を見た時人は、失敗したと言わんばかりに片手で顔の半分を覆う。
 時人は、逢坂奈月に関する調査資料を読んだばかりだ。つまり奈月がどんな境遇で育ち、どんな扱いを受けてきたかを知っている状態。だからこそ彼女の状態に思い至って、もう少し考えて発言すれば良かったと後悔した。
 やはり紙面で見る以上に根が深い問題だと改めて思う。趣味趣向に関してもそうだが、それ以上にただどうしたいか聞いただけで戸惑われるなんて。それも自分のことなのにどこまでも他人事のような仕草は、これまでの環境の酷さが如実に出ているようで、痛ましい気持ちになってしまう。

(この人は……自分がどうしたいかなどの、欲の出し方を知るべきだ。もっと自分を大切にする術や考え方を身につけることも必要だ)

 結婚したとはいえ出会って数時間程度の赤の他人。それも苦手とする同僚の妹である。まさかそんな相手にこんな感情を抱くとは思っていなかった時人は、浮かんできた想いに他の誰よりも自分が一番驚いていた。けれど不思議とそう感じることはある種自然でもあるという思いもあった。
 生まれ持った異能が所以で忌避されてきた者同士の、同族意識のようなものだろうか。あるいは時人自身の境遇よりも何倍も酷い奈月のこれまでに同情しているだけかもしれない。
 どんな感情が起因にせよ、一度感じたものはそう簡単に消えはしない。それに今回の事件調査においては、全く何も感じないよりはいいはずだ。仲良く見えるフリをするにも、ある程度感情の往来がなければそれっぽく見せることすら難しいのだから。
 時人は自分自身にそう聞かせ、浮かんだ感情を無理矢理なかったことにしたり押し殺したりするのではなく、仕事に必要なものだという形で受け止めることにした。

「では、今回はすまないが急ぐだろうし俺のほうで用意しよう。その中で気に入ったもの、気に入らなかったものがあれば遠慮なく教えてくれ。追加で必要なものがあればそれも。そのときは共に買いに行こう。それでどうだ?」
「はい、ご提案いただいた内容で大丈夫です。いろいろと、ありがとうございます」
「では、また少し家を空ける。夜までには戻ってくると思うが、今日は夕食を先に食べていてくれ」
「わかりました。おかえりをお待ちしております」

 見送ろうと立ちあがろうとした奈月を時人は片手で制した。

「見送りは大丈夫だ。ゆっくりしていてくれ」

 言いながら時人は踵を返し、奈月の部屋を後にする。扉の向こうから聞こえる軍靴の音は、やっぱり何度聞いても胸がスッとするような気着心地の良さのある音だ。その足音が遠のいていくことに少し寂しさを感じた奈月は自分の変化に驚くのと同じぐらい、その変化が自分に馴染んでいるような気がした。