愛を知った冷徹軍人と、契約婚から本当の夫婦になるまで

 使用人を通し、奈月の記憶にある限り初めて父から呼び出しを受けたある日のこと。執務室には母と妹の汐里、兄の元久もいて、いったい何事かと奈月は身体を縮こまらせた。
 部屋の入り口で頭を下げたまま立っていれば、やけに嬉しそうな兄の声が聞こえてきた。

「お前の嫁ぎ先が決まった。周防が貰い受けてくれるそうでな」
「周防!? 周防ってあの、周防時人伯爵様!? どうして!」

 汐里は悲鳴に近い声をあげて、立ち上がった。

「あの無能にどうしてそんな良縁を用意したの! 周防伯爵には私のほうがずうっとふさわしいのに!」

 叫んだ後、汐里は懐から取り出した異能石を振りかぶって奈月に向かって投げた。狙いは少し外れたようでカンッと音を立て、壁に当たって砕け落ちる。かすかにたちのぼる異能の痕跡は、度々受ける幻視による苦痛を思い出させ奈月は無意識のうちに唇を引き結び身体を硬くしてしまった。

「まあ落ち着け、汐里。詳細は俺も聞いていないが、今回の結婚は任務のために必要なものらしい。離婚は普通簡単にできないが、あの周防と国見隊長のことだ。その辺もなにか考えて動いてるに違いない。任務が終われば離婚する可能性が高いし、そうなるとお前にとって良きことではないだろう?」
「それは……まあ、そうだけれど」
「周防が欲しいのなら、その任務が終わった後にでも紹介してやろう。俺としては可愛い妹があの憎たらしいやつと縁続きになるのは気が進まないが、汐里の望みならば仕方ない」

 元久はどこまでも優しい兄の顔をして汐里の肩を抱き寄せ、椅子に座らせる。そこには誰が見ても美しい兄妹愛が存在していた。入り口で頭を下げたまま立ちっぱなしになっている、気味の悪い無能のことなど誰も気に留めていない。

「周防伯爵の評判は高いが、同じぐらい冷徹な人とも聞く。父としてはあまり勧められんな」
「汐里、あなたの気持ちも大事だけれどそんな人のところにわざわざ選んで嫁ぐことはないわ。優しくて気立の良い、もっと素敵な人を見繕ってあげるからね。こんな買い物のような結婚とは違って、あなたには幸せになって欲しいもの」

 母は汐里の頬をなだめるみたいに撫でた。汐里はまだ苛立ちがおさまらないようだったが、いくぶんかは気持ちに整理がついたらしい。

「……そうね。どうせあれは気味の悪い無能だもの。任務にも使えなくて、そのうち放り出されるわよね。そのとき私がお慰めすればいいし、だめでもお母さまの言うとおり周防伯爵よりいい人もいるかもしれないもの」

 汐里が落ち着いてようやく、父が口を開き奈月に向かって言った。

「気味の悪い無能とはいえ逢坂の名で嫁ぐ以上、我が家に泥を塗るようなことだけはするな。そして、万一離婚されたとしても我が家の敷居は二度と跨げぬものと思え」
「これまで気味の悪い無能が悠々自適に暮らしてこれた恩を、ちゃんと返してちょうだいね」

 血の繋がった実の両親から結婚の餞として贈られた言葉とは思えないものだったが、奈月にとってはどんなものであれ、言葉をかけられたこと自体が驚きに値するものだった。
 奈月はかすかに肩を跳ねさせ、唇を震わせた。応えるべきなのか迷ったのだ。けれどもし何か言って、また誰かの怒りを買ってしまったら。そう考えると喉の奥から声が出てこなかった。
 どう対応するのが正解か分からなまま立ち尽くしていたが、何もしないことが正しかったらしい。
 奈月の存在などまるでそこにないかのように、四人の声が頭上で飛び交い始めた。話の内容は汐里が中心となっていて、最近の社交界の話だった。どんな物が流行っているかとか、誰が離婚申請をしたらしいとか、既婚者の誰がお相手ではない別の人と歩いていたらしいとか、主に噂話だ。
 多分奈月が呼ばれた理由の話は終わったのだと思うけれど。

(周防伯爵に嫁ぐと言っても、どうすればいいのかしら……迎えにきてくださる? それともわたしからおうかがいしたほうが良いの? 準備もどうすれば良いのか……何もわからないわ)

 聞きたくとも、すでに始まってしまった汐里の話を遮ることは許されない。なんならしばらくもすればこの場にいること自体を咎められる可能性だってある。
 とりあえず待ってみる他ないだろう。必要な準備などがあれば、さすがに何か言われるはずだ。気味の悪い無能は息を殺して大人しくしている以外許されていない。二十年生きてきた学んだ術を改めて心に刻み、できるだけ物音を立てず歓談の響く部屋をそっと後にした。

 × × ×

「逢坂の妹かあ……。下の妹はよく社交界にいるけれど、上の妹はまったく表舞台には出ていないよね。その、彼女が持っているという異能の声を聞く異能のせいかな」

 時人からの提案を聞いた国見は難しい顔をして両肘を机の上に置き、手の甲に顎を乗せた。

「確信はないけれど逢坂家や逢坂自身のこれまでの態度や時人に提言したときの言葉を聞くに、逢坂の家では冷遇されてる可能性が高い。本当に使える異能なら、今後も力を借りれるかもしれないし、こちらに引き込みたいところだね」
「そうだ。それも含めて今回の件、逢坂の妹という点を差し引いても受けるに値すると思う。ただ、本人同意の元という前提ありきだが、強めの制約は設けるべきだと考えている」
「そうだね。それが彼女を守ることにも繋がるはずだから」

 国見はふ、と表情を和らげたかと思うと少しにやついた目つきで時人を見た。

「……なんだ」
「いや、君のどこが冷徹なのかと思ってね。会ったこともない苦手な同僚の妹を押し付けられても、相手の身を案じているほど優しいというのに」
「相手はただの一般人だからな。調査に巻き込むなら当たり前の配慮だ。それに逢坂の妹とは言っても、逢坂とは違う人間だろう。会ったこともない他人にあれこれ割く感情も時間もない」
「君のそういう物言いと考え方なのかな。僕は好きなんだけどね、時人のそういうところ」
「そうか。とはいえ逢坂側に何か裏がある可能性も捨てきれてない。その方面の不安はおまえの方で潰しておいておいてくれ」
「えっ、今のそんなサラッと流すところじゃないはずなのに!」
「やるか、やらないか、どっちだ?」
「はー……塩対応悲しい。わかった、任せて。やっておくから。時人も妹さん相手に何か感じるところがあれば……」
「わかってる、定期報告外でも連絡する。あとは制約の内容だな」
「それは時人に任せるよ。盛り込みたい内容を教えてくれたら、契約関係の部署に内密で頼んでおく」
「助かる。では……」

 と言って、時人は国見の机の上からペンを取り、白紙の紙にいくつかの条件を書き込んだ。国見はそれを見て「まあ、妥当なところだね」とうなずき、すぐに手配してくれた。
 そうして、奈月の知らないところで契約結婚の準備が着実に進んでいたのである。

 × × ×

 父の執務室に呼ばれて周防伯爵との結婚を申し渡された数日後、大人しく続報を待っていた奈月の元へ届けられた情報は「周防伯爵が迎えにきた」だった。
 慌てたのは言うまでもない。何の準備もできていないのだから。
 けれど情報を持ってきた張本人である、本当に珍しく奈月の部屋を訪れた兄の元久は「必要なものでもあるのか?」と笑った。
 確かに奈月の部屋とは言っても、ほとんど物はない。あるのは書物と照明器具や布団など最低限の家具のみ。衣類も着古した使用人からのお下がりばかりで、片手で足りるほどである。出かけることを許されなかったから荷造りできる鞄などもない。
 結局奈月は普段着のまま手ぶらで、結婚相手である周防伯爵の元へ行かざるを得なかった。
 結婚に夢見ていたわけではない。生きているだけで蔑まれ虐げられるこの家から出られるだけ十分だとすら思う。
 けれど、これはあんまりだ。近所を出歩くときですらあり得ないほどの装いなのだから。ある程度書物のおかげで結婚に関しても知識があった奈月は、申し訳なさといたたまれなさで顔から火が出そうな程に恥ずかしかった。

(逢坂の人たちもこれでいいんだろうか。こんな、自分たちの醜態を晒すような……)

 思えどもそんなこと口にできるはずもなく、元久に連れられるまま玄関から出た。石塀の向こう側には周防伯爵が乗ってきたのだろう馬車が停まっている。形ばかりの見送りすらないらしく父と母の姿はどこにもない。
 かわりではないだろうが、機嫌の良い可愛らしい声が耳に届いた。汐里のものだ。

「時人様、此度の結婚は私のほうがよいのではありませんか? 私の異能は幻視ですから、うまくいけばどんな相手からも証言を引き出せると思いますの。きっとお役に立てますわ。女学校での成績も良いのですよ、先生方からの覚えもめでたくて……それに、身を焦がすほどあなたを想っておりますの」

 元久の背越しに見やれば、誰もが褒め讃えるだろうほど素敵に着飾った汐里の後ろ姿が目に入った。その向こうに、頭ひとつ分は大きな男が無表情で立っている。汐里の必死の訴えにも一切耳を貸す様子なく一目見れば目が離せなくなるほど綺麗な姿勢で前だけを見つめるその姿は、美しい美貌もあいまって一種の芸術品のようだった。
 ふいに、切れ味の鋭い刃物のような眼差しが奈月を捉えた。だが不思議と怖くはないどころか、その瞳に吸い込まれるような感覚があった。

「周防、待たせたな。これが例の異能持ちだ」

 元久が一歩横に避けた。その音にハッと我を取り戻した奈月は、慌てて一歩前へと出て頭を下げた。向こう側にいる汐里と比べなくともわかるほどみすぼらしい風体とおぼつかない所作に、情けなくて涙が出そうだった。声がかすかに震える。

「逢坂奈月と申します。お役に立てるよう、精一杯努めさせていただきます」
「周防時人だ。君の夫となる。よろしく頼む」

 軍靴の硬い音が近づいてくる。そっと顔を上げると、すぐ目の前に時人が立っていた。真っ直ぐに見下ろしてくる時人の瞳は変わらず冷たいが、感情が感じられないだけで軽蔑の色などは一切ない。
 初めて向けられる優しさすら感じる眼差しに、間抜けにも薄く唇を開いたまま見つめてしまった。
 そんな奈月の視線を遮るようにスッと手が差し出される。
 奈月は困惑した。ただの挨拶であろうことは分かる。礼節を持って接してくれているだけだろう。理解しているのに、これまで誰も触れたがらなかったこんな異能持ちの奈月が触れて良いものか、迷ってしまった。
 時人はかすかに目をすがめ、口を開いた。

「無理にと言うつもりはない。俺は無効化の異能持ちだから、君が気にしているようなこともないだろう」
「……あ」

 気を遣ってくれているのだとすぐにわかった。その言葉は奈月が懸念していたようなことを打ち消すものではなかったが、不思議と心の中にあった迷いや悩みがすうっと引いていく。
 恐る恐る時人の手をとった。優しく握り返され、馬車へと導かれる。
 時人の横顔は先ほどまでとなんら変わりない。気味悪がったり嫌悪している様子は少しも感じられなかった。
 こんなふうに誰かに悪感情を向けられないことも、触れ合い温もりを分け合うようなことも何もかも初めてで、奈月はどうすればいいのか、胸の中に湧き上がってくる感情がなんなのか、全くわからなかった。