愛を知った冷徹軍人と、契約婚から本当の夫婦になるまで

 逢坂奈月には、他の人には聞こえない声が聞こえる。

 本を読むために使う照明器具に触れると、奈月の頭の中に弱々しい声が流れ込んできた。

『そろそろ明かりを灯せなくなりそう』
「異能石の交換時期なのね」

 声はそれきり聞こえてこない。
 会話ができるわけではない。ただ本当に声が聞こえてくるだけ。
――異能の声を聞くことができる異能。
 誰しもが異能を持ち、あらゆるところで異能が使われているこの世界で、奈月が生まれ持った異能だった。

(異能石の予備は、この間使い切ってしまったわ。……部屋を出るしかないけれど、今の時間は大丈夫かしら)

 奈月は自分にあてがわれた、家の中で最も狭い八畳程度の和室の襖をそっと開けて外を見た。
 あたりにはいつもどおり人の気配も姿もない。奈月の持つ異能を多くの人は気味悪がり、近づきたがらなかった。それは家族も同じで、奈月の存在自体をなかったことにしたかったらしく、できるだけ人目に触れぬよう厳命されていた。

(よかった。今のうちに用を済ませてしまいましょう)

 部屋を出た奈月は物置へと行き、目的の異能石を探した。
 異能石とは、異能が込められた丸い形をした石だ。多くは中に込められている異能が色によって識別できるようになっていて、照明器具に使われている異能石は明るい黄色だった。
 今回使う分と予備でいくつかもらい、部屋へ戻るために廊下を歩いていた最中。廊下の向こう側から話し声が聞こえてきた。
 反射的に奈月は身を固くした。使用人だったらいい。無視されて、嫌そうな顔をされるだけで済む。だが万が一、家族のうちの誰か――中でも、妹の汐里であったなら。
 ふるりと身を震わせた奈月は慌てて近くを見渡した。どこかに隠れる場所か、入れる部屋はないかと思ったが、そんなうまく行くはずもない。
 声は次第に近づいてくる。若い女性の声。
 聞き間違うはずもない、汐里のものだった。

(ああ……)

 諦めて嘆息を漏らし、壁にぴったりと背中をつけ、顔が見えないように深く頭を下げた。こうしていれば運がよければ何事もなく済む。二十年生きてきて学んだ処世術だったが、どうも今日は駄目な日だったらしい。

「あら。嫌だわ。どうしてここに気味の悪い無能があるの」

 鈴を転がすような可愛らしい声が、嫌そうに歪んでいた。謝ることすら許されていない奈月は一言も発さず、より深く頭を下げて置物のようにそこに佇んだ。

「中林、おまえの準備が遅いせいよ。もっと早く出かけていればこんな不愉快な出来事に鉢合わせずに済んだのに」
「すみません、お嬢様」

 若い男の声だった。申し訳なさそうな声のすぐ後に、どんっと強い衝撃が奈月を襲う。汐里の機嫌を取るためか、苛立ちをぶつけるためかまではわからないが男に突き飛ばされたことは明白だった。
 漏れそうになった驚きとうめき声を奈月は唇を噛みしめて耐え、床に倒れ込んだ。

「きゃっ! 嫌だわ、触らないでよ気味が悪いっ!」

 奈月が倒れ込んだのは汐里がいる方向とは逆方向で、それなりに距離もあったはずだ。触れ合うことなんてなかったはず。だがこの程度の過剰反応はいつものこと。奈月は急いで身体を起こし、床に額をこすり付けんばかりの勢いで土下座した。
 それでも、許されることはなかった。背中に小さな衝撃を受けた後、突然胸を掻きむしりたくなるような苦しみが奈月に降っかかってくる。姿勢を保てなくなった奈月はその場に這いつくばり、苦しみにうめくしかできなくなった。
 汐里の異能、幻視によるものだった。奈月には触れたくないからとわざわざ異能石を使うというおまけつき。いつものことではあるが、慣れる日なんて永遠に来ないだろう。
 床でのたうち回る奈月をじいっと見つめた汐里は、しばらくもしないうちにスッキリした顔をして、くるりと踵を返した。

「はあ、無駄な時間を過ごしてしまったじゃない。早く行きましょ、時間がもったいない」
「はい、お嬢様」

 足音が少しずつ遠ざかっていく。苦しむ奈月を放って二人はその場を立ち去っていった。
 そのことに安堵した奈月だったが、幻視が解けたわけでも苦しみが終わるわけではない。
 この苦しみは、あとどれぐらい続くのだろう。

(今回は、五分ぐらいで終わってくれるといいんだけど……)

 結局奈月はその後十分ほど、廊下の床の上で苦しみにもがくことしかできなかった。

 × × ×

 周防時人は異能犯罪取締局に務める軍人である。日々各地で発生する異能を使った犯罪を主に扱うことが仕事だ。元より時人自身が志願したものではあるが、異能を無効化する異能を持つ時人には適職だった。
 それゆえ、些細なものから大事に至るまで、他の同僚と比べてもそれなりに多くの仕事が舞い込んでくる。

(さて、今日はどっちだ)

 上司兼友人である国見に呼ばれるのも慣れたもので、そんなことを考えながら国見のいる執務室の扉を叩いた。入室を許可され、部屋に入るなり国見より早く口を開く。

「前置きは必要ない。用件を」
「時人は相変わらずだなあ。ちょっとぐらい、僕と一緒にお茶をしたり雑談をしたりしてくれてもいいと思うんだ」
「仕事に必要であれば」
「そういう無駄に思えることだって、時には必要なんだよ」
「そうか。で。用件は」

 国見は苦笑いをして、机越しに立つ友人を見やった。軍服を着た立ち姿が大層美しいと思えるほど姿勢良く立ち、睨んでいるようにも見えるほど鋭い目つきは見た者を問わず威圧する何かがある。
 顔立ち自体は恐ろしいほど綺麗で、長い黒髪を後ろで一つに縛っていることも合わせれば中性的にも見えるだろう。ただし、身長の高さと圧倒的な存在感、時人の浮かべる表情から所作に至るひとつひとつまでが誰も誤解させることなどないのだが。

「せめて少しぐらい笑えばいいのに」
「おまえは一体なにと話をしているんだ?」
「わあ、辛辣! そんなんじゃ、これからの仕事に支障が出ちゃうよって話だよ」

 国見は持っていた書類の束を机の上に置き、スッと時人に向かって差し出した。

「これは行政部から上がってきた報告書。最近本人が知らぬ間に結婚していたり、浮気が原因での離婚申請が急増しているらしい」
「前者は分かるが……後者はなんだ?」
「僕も最初そう思ったんだけどね、読んだら分かるよ。当事者夫婦たちに聞き取りをしていく過程で、食い違いや証言の捏造の可能性が出てきてね」

 時人は訝しむ気持ちを隠さず片眉を上げ、渋々と言った様子で机の上の書類を手に取った。ぱらぱらとめくって目を通していく。次第に時人の表情は納得したものへと変わる。そこには夫婦間での意見の食い違いのほか、調査官による真実証明の結果、浮気の事実はないとされた結果まで。

「理解した。……だが、なぜ俺に来た? この手の犯罪は、無効化よりも他に向いた異能があっただろう」
「浮気の件だけならそうだったんだけどね、どうも、知らぬ間に結婚させられている件とも全く無関係ではない気がするんだ。これはあくまでも、俺の所見にしかすぎないけど」

 国見は控えめに言っているが、時人はその言葉の重さを知っていた。
 千里眼、国見の持つ異能だ。とは言っても異能の力自体は弱く、少し遠くを見たり、隠されている何かがあると感じ取れる程度のもの。だがかすかな違和感を形にできるだけで、ずいぶんと違う。
 時人が持っていた書類にくしゃり、とわずかに皺が寄った。

「なるほど。もし同一犯の場合、偽造書類を通せるともなれば、内部犯の可能性もあると考えての人員配置か」
「そういうこと。話が早くて助かるよ」

 国見は全幅の信頼を寄せているとわかる笑みを浮かべた。

「異能犯罪において、君以上に信頼できる人はいないからね」
「その信頼を裏切らないようにしないとな。……手っ取り早いのは浮気が原因での離婚から調べることだが、いい相手役はいないか?」
「えっ!? 時人、そのためだけに結婚するつもり!?」
「そうだが?」

 なにを、と言わんばかりの時人に対して、国見は事の重大さを理解してないと言わんばかりに指先でこめかみを押した。

「離婚ってそう簡単にできないって知ってる!?」
「それぐらいは知っている。だから離婚申請の急増で、おまえにまで報告が上がってきたんだろう?」

 この国での結婚は、契約の異能に寄って成立する。ゆえに離婚とは契約を破ることに他ならず、よほどの事情がなければ受け入れられない。浮気はそのよほどの事情に該当はするものの、確かな証拠がなければ浮気での離婚が難しいことは、誰しもが知ることだった。

「分かってて結婚するつもりなんだ……。もうちょっと自分を大事にしたらどうなんだ」
「結婚するアテもないからな。……そう考えると、いい相手役というのは失言だった」
「いや、そっちじゃない。失言はどう考えてもそっちじゃない。本当に結婚しなくても調査はできるはずだよ」
「そうだな。だが内部犯の可能性も考慮するなら、実際に結婚したほうが確実だ」

 ついに国見は説得を諦め、盛大なため息を吐いた。

「分かった。まずは君の意見に従う。ただし、事件調査のための、離婚が前提の契約結婚だ。……その辺は、職権乱用と言われようとも、僕の権限を使って必ずなんとかする」
「まあ、そのほうが相手も見つかりやすいだろう。となると、軍部の人間ではないほうがいいか。どこから漏れるか分からんからな」
「そう、だね。……親戚筋を当たってみるよ」
「助かる。女性の知り合いなぞいないからな、どうしたものかと困っていたところだ」
「それなのに、よく結婚しようって発想が出てくるね……」
「おまえに聞けば、大体なんとかなる気がしたからな」
「今回ばかりはなんとかならない気もするけど……まあ、尽力してみるよ」

 困ったように、けれど寄せられる信頼に嬉しそうな顔で国見は椅子の背もたれに身体を預けた。

「本当に結婚するかどうかも含めて、調査方針はいつもどおり君に任せる。定期の報告だけはあげてね」
「ああ」

 国見の上司としての言葉に、時人は部下として綺麗な所作で礼を取った。

 × × ×

 国見との話を終えた時人が自分に割り当てられた執務机へと戻ると、近くにいた同僚が声を掛けてきた。

「周防、国見局長との話はなんだったんだ?」
「おまえに関係があるか?」
「なんだ、今回は周防個人への依頼か。どんな依頼だったんだ?」

 時人は至極面倒くさそうな顔をしたが、同僚は一切気にせず絡んでくる。舌打ちしたい気持ちを内心で押し留めた。
 嫌がらせのごとくしばらくまとわりつかれるだろうが、いつもどおり放っておこうとして、ふと、追い払う口実を思いついた。うまく行くかどうかはわからないが、どう転んでも時人に損は一切ない。ならばやってみるだけありだろうと、同僚の顔を見ぬまま言った。

「異能事件調査に役立つ手ごろな結婚相手を探している」
「……は?」
「思い当たる節がないなら、仕事に戻れ」

 効果は、あったらしい。いつもはうるさい同僚が、突然静かになった。
 やってみるものだな、なんて清々しい気持ちになっていた時人だったが、思い違いだったと気づくのにそう時間はかからなかった。
 ぽん、と時人の肩に手が置かれる。その手を振り払おうとした時人の動作が止まったのは、続く同僚の言葉が予想外だったからだ。

「俺の身内はどうだ。持っている異能は、異能の声を聞ける異能……最高に気持ち悪いが、異能事件の調査にはぴったりだろう?」