冷徹親王の囮妃は、刺客を狩って路銀を稼ぐ~愛のない契約結婚のはずが、気付けば異様に執着されているようです~

 奥御殿での生活は、茉莉にとってある意味で「極楽」であった。
 何しろ、屋根は雨漏りしないし、隙間風も吹かない。
 三食必ず温かい米が支給され、羹が付き、時折甘味も口にすることが出来る。

 しかし、周囲の者たちにとって、茉莉の存在は決して歓迎されるものではなかった。
 玄朱が唐突に正室を迎えたという報せは、瞬く間に奥御殿の勢力図に波紋を広げた。
 特に、次期東宮妃の座を狙っていた有力貴族の姫君たちにとって、華族とは名ばかりで、何の異能も持たない無能力者の小娘がその座に収まったことは、屈辱以外の何物でもないからだ。

 輿入れから数日後。
 茉莉のために急遽設えられた離れに、数人の姫君たちが「ご挨拶」と称して押しかけてきた。
 中心にいるのは、呪術師の流れを汲む由緒正しき高位華族の娘、桔梗だ。
 彼女たちは、茉莉の部屋に用意されていた真新しい絹の着物を見るなり、あからさまな嘲笑を浮かべた。

「まあ、なんという安っぽい色合い。このような下品な布、殿下の隣に立つ方にふさわしいとは思えませんわね」

 桔梗が扇で合図をすると、取り巻きの侍女が隠し持っていた小刀を取り出し、美しい桜色の着物を無惨にも引き裂いてしまった。
 ビリビリと絹が裂ける音が部屋に、虚ろに響く。
 さらに桔梗は、茉莉の足元に禍々しい文字が記された札を投げ捨てた。

「身の程を知ることね。異能の一つも持たぬ無能が殿下の御前を汚すなど、烏滸がましいにも程があります。その呪詛の障気で、せいぜい毎夜うなされるとよろしいわ」

 勝ち誇ったような高笑いを残して、姫君たちは去っていった。
 一般的な娘であれば、高価な着物を台無しにされた悲しみと、呪詛の恐怖で泣き崩れる場面である。
 部屋の隅で控えていた茉莉の侍女たちも、すっかり青ざめて震えていた。

 しかし、茉莉は無表情のまま床にしゃがみこむと、引き裂かれた着物を拾い上げた。

「なんて素晴らしい」

「ま、茉莉様……お気を確かに……!」

「見てください、この裂け目。布目に沿って見事に切られています。本当に惜しくなければ、もう少しみっともなく切り裂くでしょうに。手で裂く手間が省けました。上質な絹は静電気が起きにくく、床や調度品を磨くのに最高の雑巾になるのです。これで思う存分、部屋の拭き掃除ができます。本当に助かりました」

 泣いてすがる侍女をよそに、茉莉はさらに手早く着物だった切れ端を手頃な長方形に裂き、雑巾の束を作り上げていく。
 その顔は、ほんの少しだけ嬉しそうに見える。
 さらに、足元に落ちていた呪符を拾い上げる。

「桔梗様は呪詛だの障気だのとおっしゃっていましたが……私にはただの、不気味な文字が書かれた分厚い紙にしか見えませんね。それにしても火おこしに最適な、とても良い紙です。後で台所に持っていきましょう」

 茉莉は呪詛や見えない力に関する知識をまったく持ち合わせていなかったが、それがかえって功を奏した。
 どれほど高度な術が込められていようと、当人がその存在すら認識せず「ただの厚手の紙」として物理的に処理してしまえば、呪いも発動のしようがなかった。

 無作法な姫君と悪しざまに言われたとしても、茉莉にとっては、やはり日に三度もの食事を憂うことなく享受できるこの環境は、生家での息の詰まるような日々や、長屋でのその日暮らしに比べれば、やはり極楽である、としか言えないのだ。





「――という次第で。あの娘、嫌がらせを受けた着物で雑巾を作り、呪詛の札をかまどの火種にしておりました。現在、自ら離れの廊下を嬉々として水拭きしております」

 玄朱の執務室。
 報告に上がった側近の飛燕は、普段の冷徹な仮面をわずかに引きつらせていた。

「……雑巾……水拭き、だと?」

「はい。手伝おうとする侍女たちを『あなたたちの拭き方では甘い』と退け、凄まじい速度で床を磨き上げております。……どうやら、貧民街での生活で染み付いた習性のようで」

 その報告を聞いた玄朱は、手元の書状から顔を上げ、しばし呆然とした。
 刺客に怯えるどころか、女同士の陰湿な嫌がらせすらも「実用品の仕入れ」として活用し、呪いすら物理的な燃料として消費する。

「くっ……ふっ……」

 玄朱の喉の奥から、くぐもった声が漏れた。
 飛燕は目を丸くした。氷の親王と恐れられ、政敵に対しては容赦のない苛烈な顔しか見せない主が、肩を震わせて笑っていたのだ。

「なるほど。異能を持たぬ無能力者ゆえに、呪詛の気配すら悟らず、物理的な価値しか見出さないというわけか。面白い。あれは想像以上に『使える』女かもしれんな」

 玄朱の口角が、微かに、しかし確かに釣り上がった。
「囮妃」として選んだはずの女の予想外すぎる逞しさに、玄朱はこれまでにない興味を惹かれ始めていた。