冷徹親王の囮妃は、刺客を狩って路銀を稼ぐ~愛のない契約結婚のはずが、気付けば異様に執着されているようです~

 数刻後。
 茉莉は大和乃国の都一等地にそびえ立つ、息を呑むほど豪奢な宮殿のさらに奥まった場所にある、とある御殿の広大な一室で、何人もの侍女たちに囲まれ、されるがままになっていた。

「まあ、なんて手酷いあかぎれでしょう……」

「爪も短いし、あちこちに細かい生傷が……お顔立ちはよろしいのに、なんという荒れ果てた生活を」

 念入りに湯浴みをさせられ、高級な香を焚き染められながら、侍女たちがひそひそと哀れむように囁き合う。
 しかし当の茉莉は「罠を張る時に指先のタコは便利なんですが」と内心で嘯きながら、ただ無表情で湯に浸かっていた。

 やがて、最高級の絹で仕立てられた豪奢な着物を羽織らされる。
 牡丹の刺繍が施された目も眩むような逸品だ。
 しかし茉莉の頭を占めているのは、久しぶりの絹の感触に対する感動ではなく、「この着物を質に入れれば、米が何俵買えるだろうか」という極めて現実的な問題だけである。

 これでお目通りに際しての、最低限の身なりが整ったという事だろうか。
 付け焼刃ながらも、腐っても生まれは華族である。
 それなりの衣装を着れば、立ち振る舞いも自然と、思い出すものなのだなと、茉莉は心の内でぼんやりと考えていた。

 通されたのは、重厚な黒檀の調度品で統一された広い執務室。
 その最奥、一段高くなった座に、男がいた。

「殿下。例の娘を連れてまいりました」

 飛燕が恭しく平伏する。
 茉莉もそれに倣って、作法通りに滑らかな礼の姿勢をとった。

「面を上げよ」

 不意に、冷たく低い声が響いた。

 薄暗い御簾の向こう、一段高い上座に座る影を見て、茉莉は微かに息を呑んだ。
 夜の闇を溶かしたような漆黒の髪と、血のように赤い瞳を持つ男がいた。

 親王、玄朱(とうじゅ)
 次期東宮の最有力候補にして、冷酷無比と噂される帝の年の離れた弟君。

 彫刻のように整った顔立ちは、ぞっとするほどの美貌でありながら、一切の感情を排した氷の刃のようだった。
 彼が放つ圧倒的な威圧感は、先程の飛燕など比べ物にならない。
 ただ見つめられるだけで、並の人間なら竦み上がって命乞いをしたくなるだろう。

 成程、「氷の親王」なる異名は言い得て妙だ。

 しかし、茉莉の感想はひどく現実的なものだった。

(この方が雇い主。上等の絹に、見事な琥珀の帯留め……流石は親王殿下。とてもお金持ちそうですね。それにしても……)

 茉莉は、顔を正面に向けたままで、一瞬だけ室内の隅々に視線を走らせる。

(梁の上に一人、御簾の裏に二人、庭の植え込みに三人。……ただの護衛にしては、殺気が立ちすぎています。まるで飢えたイノシシのよう)

「お前が霧生家の落ちこぼれか」

 玄朱が、路傍の石でも見るような目で細めた。

「名門の出でありながら異能も持たず、継母に追い出され、貧民街で泥水をすすって生きている娘。誰とも繋がりがなく、野垂れ死のうが誰も悲しまない」

 随分な言い様である。

「はい。茉莉と申します」

「確かに『(おとり)』にはうってつけだな。なあ、飛燕」

「はっ。適任かと」

「囮、でございますか」

 玄朱は御簾の奥から茉莉を見下ろし、淡々と用件を切り出した。

「そうだ。私の首を狙う羽虫どもは、日に日に数が増していてな。寝首を掻くのは無理だと悟ったのか、近頃は私の『隙』を作ろうと必死だ。……だから、あえてわかりやすい弱点を作ってやることにした」

 玄朱の瞳が、獲物を前にした猛獣の如く光を帯びて、茉莉を射抜く。

「お前には、私の『寵愛する妃』のふりをしてもらう。私が狂わんばかりに執着し、溺愛している、かけがえのない存在。……当然、刺客どもの標的はお前に移るだろう」

 飛燕が、哀れむような目で茉莉を見た。

「期間は一年。あるいは、次期東宮の座が確定するまでの間、私の正室として奥御殿に滞在しろ。お前には、私に向けられる呪詛と暗殺の刃、そのすべての『身代わり』となるのだ」

 つまりは、一年間の使い捨ての盾となれと云う事か。
 毎日いつ殺されるか分からない恐怖に怯え、刺客の刃に倒れればそれまで。
 きっと誰も彼女の死を悼まない。

「絶対の条件がある。私に情を移すな。互いに愛を求めることは禁ずる。私がお前に求めるのは、ただ一年間、標的として命を張り続けることだけだ」

 無慈悲な宣告だった。
 普通の娘なら、ここで泣き叫んで逃げ出すか、絶望に打ちひしがれるだろう。
 だが、そんな些事には構わず、玄朱は言葉を続けた。

「一年後、無事に生き延びていれば、一生遊んで暮らせるだけの金子と、決して追手の届かない遠方の安全な隠れ家を用意してやる。……どうだ?」

 その瞬間、茉莉の脳内で、再びカチャリと算盤が弾かれる音がした。
 茉莉は無表情のまま、玄朱を真っ直ぐに見返した。