冷徹親王の囮妃は、刺客を狩って路銀を稼ぐ~愛のない契約結婚のはずが、気付けば異様に執着されているようです~


 茉莉の胸の奥で、ついに何かが静かに溶けていく音がした。

「明日の米」と「安全な寝床」のためだけに生きてきた。
 愛だの家族の絆だのというものは、役に立たない幻想だと切り捨てていた。

 けれど、この冷酷で美しい男は、ただ「傍にいてくれ」と乞うている。

 その不器用な誠実さと、自分だけに向けられる過剰なまでの熱情に、鉄壁だったはずの茉莉の現実主義な心がついに大きく揺さぶられた。

「そして正妃としてのみならず……先日お前に話した『東宮筆頭狩猟官』の件だが――私の提示条件が間違っていた。訂正しよう」

「と、申しますと?」

「お前は、私の庇護下に入り、自由を奪われることを危惧したのだったな。……ならば、お前を『私の妻』であると同時に『独立した一人の商人』として遇そう」

 茉莉がピクリと反応し、その無表情な顔にほんのわずかな興味の色が浮かんだ。
 求愛の言葉に対して、正反対に位置する言葉である。
 一瞬だけ二人を包み込んだ甘やかな気配が、雲散する。

「商人、ですか」

「そうだ。新たに結ぶのは、私と『茉莉商会』との、対等な専属業務提携だ」

 玄朱は流れるような動作で、いくつもの条件が記された書を広げて見せた。

「一つ、茉莉は東宮の広大な庭園、および東宮直轄の霊山における『罠猟』の全権を独占する。
 二つ、そこで得られた希少な獣の毛皮、角、霊薬の素材は、すべて東宮家が市場価格の『二割増し』で買い取ることを確約する。
 三つ、茉莉の商会拠点をこの『奥御殿の離れ』に置くことを認める。家賃と護衛費は、素材の納入をもって相殺とする」

 書き上がった真新しい契約書を、玄朱は茉莉の目の前に差し出した。

「お前は、単なるお飾りの妻というだけではなく。私という『最強の優良顧客』を専属で抱えた、独立した商会の主だ。例えば、拠点がたまたま奥御殿の中にあるだけで、お前は自らの腕で利益を生み出し、自立している。……どうだ? これなら、お前の言う『生存戦略』にも反しないのではないか?」

 沈黙が落ちた。

 茉莉の頭の中で、かつてない規模の算盤が弾かれているのが、玄朱には手に取るように分かった。

(……私を本当の意味で、買ってくださるということでしょうか。素晴らしい、条件です)

 茉莉は、背負っていたつづらをゆっくりと地面に下ろした。
 そして、傅く玄朱の頬にそっと手を伸ばすと、自分でも驚くほど自然に、ふわりと表情を綻ばせる。
 それは、これまでに見せた美味しいご飯の前でのだらしない顔でも、戦利品を数える時の悪徳商人のような顔でもない。
 年相応の、春の陽だまりのように柔らかく可憐な、微笑みだった。

「ずいぶんと、割の良い契約ですが、本当に宜しいのでしょうか」

 その笑顔に、玄朱は雷に打たれたように目を大きく見開き、次いで、泣き出しそうなほど愛おしげに顔を歪めた。

「――承諾をすると?」

「……ええ。悪くない条件です。それに、貴方という一番の『金蔓』を手放すのは、少し惜しいと思い始めていたところですので」

 照れ隠しのようにわざと憎まれ口を叩く茉莉を、玄朱はもう我慢できないとばかりに力強く抱き寄せた。

「ああ、一生搾り取ってくれ。……愛している、茉莉」

 冷徹な親王と、逞しき没落令嬢。
 愛のない偽装結婚から始まり、互いの利害と打算で結ばれた二人の関係は、こうして「生涯の愛」という新たな契約書によって上書きされた。

「こちらこそ、末永く、よろしくお願いいたします。玄朱様」

 決して愛の歌を歌わなかった現実主義の金糸雀は、世界で最も恐ろしく、最も過保護な檻の中で、今日も悠々と羽を伸ばしている。


 [了]