冷徹親王の囮妃は、刺客を狩って路銀を稼ぐ~愛のない契約結婚のはずが、気付けば異様に執着されているようです~

「……うまいな。この茶」

「はい。奥御殿裏に生えていたドクダミや野草を乾燥させて煎じたものです。原価はタダ同然ですが、実は滋養強壮に優れておりますよ」

 壁際で膝を抱えてうずくまっていた次期皇帝は、茉莉が淹れた安い野草茶を両手で包み込むように持ち、悲壮な顔つきで、飲んでいた。
 外の者たち——かつて彼に粛清され、氷漬けにされて散っていった政敵たちが見れば、あまりの光景の衝撃から二度死ぬかもしれない。
 敵に対しては微塵の容赦もなく、冷酷無比な覇道を行く「氷の親王」の威厳は、今この部屋には一欠片も存在しなかった。

(……分かった。完全に理解した)

 野草茶の素朴な苦味を味わいながら、玄朱は極めて冷静に己の敗北を認めていた。
 この女に、通常の恋愛感情や、権力による力押しの束縛は一切通用しない。

 恐怖で縛ることも、囲い込んで自由を奪うことも、彼女の生存戦略という名の鉄壁の前にすべて無効化される。

 ◇

 契約満了の日。
 うららかな春の陽光が降り注ぐ中、茉莉は軽装に身を包み、背中には使い慣れた愛用のつづらを背負っていた。
 中身はこれまでの『戦利品』を換金した莫大な金子と、自作罠の部品の数々である。

「皆様、短い間でしたがお世話になりました。特にお庭の警護にあたられていた方々、私の罠の実験に何度も付き合っていただき、感謝の念に堪えません」

「茉莉様ぁ……どうかお元気で……っ!」

「俺たち、茉莉様の対多人数用罠の恐ろしさ、一生忘れませんから……っ!」

 見送りに集まった護衛や侍女たちが、なぜか感極まったように涙ぐんでいる。
 一部の者は恐怖と安堵の涙だったかもしれないが、茉莉にとっては奥御殿の人間たちとの別れも、どこか清々しいものであった。
 そのような様子に、茉莉の心の中にまたしても不可思議な感覚がわきあがってくる。

 明日からは、また一人。

「さて。それでは私はこれで」

 茉莉がほんの僅かな未練というべき感情を断ち切るように、見送りの光景をから奥御殿の天に広がる蒼穹へと視線を転じ、小さく頭を振って踵を返し、奥御殿の裏門をくぐろうとした、その時だった。

「――待て」

 低く、しかし絶対的な重さを持った声が響く。

 門の前に立ち塞がったのは、豪奢な東宮の正装を纏った玄朱であった。
 背後には側近の飛燕をはじめとする精鋭たちがずらりと並び、完全に茉莉の行く手を遮っている。

 政敵を血祭りに上げ、冷酷無比な「氷の親王」として恐れられる彼の姿は、あまりにも威圧的で美しい。
 双眸に宿っているのは、氷のような冷徹さではなく、獲物を絶対に逃がすまいとする仄暗い熱と、隠しきれない焦燥だった。

「――玄朱様。ご多忙の身でありながら恐縮です。契約通り、一年間のお勤めは無事に完了いたしましたので――」

「ああ、そうだ。先の契約は、たった今完全に、満了したな」

 玄朱は茉莉の言葉を遮ると、ゆっくりと彼女との距離を詰めた。

 逃げ場を失った茉莉の目の前で、彼はいきなりその場に片膝をついた。
 次期皇帝となるべき最高権力者が、ただの没落令嬢の前に傅いたのだ。

 周囲の護衛たちが息を呑む音が聞こえた。

「だからこそ、ここで新たな契約を結び直そう」

「……新たな契約、ですか?」

「そうだ。期間は『生涯』。役割は、名ばかりではない、私の真の正妃だ」