冷徹親王の囮妃は、刺客を狩って路銀を稼ぐ~愛のない契約結婚のはずが、気付けば異様に執着されているようです~


「飛燕。急ぎ、東宮の広大な庭園に『特殊な獣』を放て。そして、新たな役職を新設するのだ」

 その夜、玄朱は一枚の分厚い書を手に、茉莉の部屋を訪れた。

「茉莉。お前の退去の件だが……実は、東宮の庭園に厄介な問題が起きてな」

「問題、ですか?」

「私が東宮となったことで、各地から献上された『霊獣』や『珍獣』が庭に放たれているのだが……奴ら、少々凶暴でな。庭師が手を焼いているのだ」

 玄朱はわざとらしくため息をつき、記録書を茉莉の前に広げた。
 そしてさり気なく契約書も添える。

「そこで、お前のその類稀なる『罠猟』の腕を見込んで、新たな契約を持ちかけたい」

「罠猟の腕、とは?」

「そうだ。役職名は『東宮筆頭狩猟官』。主な任務は、庭園内の珍獣の捕獲と管理。もちろん、捕らえた珍獣の毛皮や角は、市場で高値で売れる。それはすべてお前の『正当なる戦利品』として認める」

 ビクッ、と茉莉の肩がわかりやすく跳ねた。

「さらに、この役職は東宮直属となるため、毎月の安定した俸禄に加え、食事と住居は引き続き保証される。……どうだ?」

 茉莉の脳内で、これまでで一番激しい算盤の音が響き渡った。

 安全な寝床、三度の美味い飯。
 さらに合法的に罠猟が出来て、高級素材が取り放題。
 しかも終身雇用の好待遇。

 それは、大変ありがたい提案なのだが――。

「終身雇用は魅力的ですが……万が一、玄朱様が失脚されたり、お家騒動が起きた際、逃げ出せない『専属契約』は、あまりにも不安要素が高すぎます。私の生存戦略において、自由を失うというのはなかなかの痛手なので……」


「――っ」

 いよいよ後がなくなった玄朱は、最終手段に出た。
 彼女の手首を掴み、そのまま強引に壁へと押し付ける。

「あの……玄朱様?」

「いい加減にしろ……」

 退路を塞ぐように両腕を壁につき、玄朱は茉莉を見下ろした。
 その瞳は、獲物を逃さぬ肉食獣のように仄暗く、どこか狂気じみた熱を帯びている。
 冷徹な親王が、唯一の執着心を剥き出しにした瞬間だった。

「いいか? お前を外に出す気はない。誰の目にも触れさせず、私だけの手の届く場所で、永遠に守り抜く。……お前がどうしてもここを出て行くと言うのなら、東宮の権限を行使してでも、その細い足を鎖で繋いで――」

 ゾクッとするような、重く甘い脅し。
 並の姫君であれば、その恐ろしいまでの執着と美貌の前に腰を抜かし、陥落していただろう。

 実際、茉莉も顔には出さないだけで、多少緊張をしている。
 猫を前にした窮鼠の気持ちとは、かくあるものだろうか。
 今まで、どんなに敵が命を奪おうと狙って来ようとも、ここまでのひりひりするような感覚を覚えたことは無かった。
 しかし、自分を射抜く瞳の中に、映る自分は、見たことも無いような表情をしている。

 いけない。
 このままでは流されてしまう。

 視線を彷徨わせて、壁に押し付けられた彼の手元――その袖口を捕らえる。

「……あの、と、玄朱様。無理やり、押し付けられるのは、あまり好きではないというか……気になってしまいます。そのお召し物、希少な月光天蚕糸(げっこうてんさんし)で織られた最高級の絹なので、壁の漆喰で擦れると糸が毛羽立ってしまい、質入れの際の査定額が大幅に下がってしまいます。どうか、お気をつけください」

「…………」

 極限まで高まっていた緊迫感も、仄暗い情熱も、すべてが台無しである。
 玄朱は力なく壁から手を離し、その場に崩れ落ちた。

「なぜだ……。なぜお前の頭の中には、金しかないんだ……」

 茉莉は、間合いを取って、うなじをさらしている東宮を静かに見降ろす。
 まだ心臓がどくどくと、音を立てている。

「それは……女が一人過酷な世界で生きていくためには、最も信頼できるものだったからです。……玄朱様? 大丈夫ですか、泣いておられますか?」

 囲い込みも、苛烈な執着も、すべてが茉莉の「圧倒的な現実主義」という鉄壁に弾き返されてしまう。
 泣きそうな顔でうずくまる最強の次期皇帝を見下ろしながら、茉莉は「やはりお疲れなのですね。温かいお茶でも淹れましょう」と、いつになく慎重に声を落とした。