トントン、と。
薄い木の戸が、控えめだが確かな力で叩かれた。
「お家賃なら昨日払いましたが」
罠の縄を置きながら薄く戸を開け、後ろ手に小刀を隠しつつ外を伺い見ると、そこに立っていたのは長屋の大家ではなかった。
「……お初にお目にかかる、霧生茉莉嬢」
薄暗い長屋には到底似つかわしくない、最上等の絹の着物を纏った青年だ。
月明かりに照らされたその貌は、息を呑むほど美しい。
しかし、切れ長の双眸には微塵の温度もなく、まるで刃のような冷たさを宿していた。
背後には、護衛と思しき影が数名控えている。
「どなたでしょう。人違いでは?」
「とぼけなくていい。誰からも顧みられず、明日消えても誰も探さない女。……お前は、我が君の目的にあつらえ向きだ」
青年はぞっとするほどの冷ややかな視線で、茉莉を見下ろしている。
「私の名は飛燕。帝の弟君であらせられる親王、玄朱殿下にお仕えする者だ」
「はあ……親王殿下、ですか」
「ちょうど手頃な娘を探していたところ、お前が推挙されたのだ。拒否権はない。今すぐ同行してもらう」
有無を言わさぬ圧。
背後に控える屈強な護衛たち。
逃げ道がないことを悟った茉莉だったが、それ以上に飛燕が土間に無造作に投げ置いた「手付金」の包みに、カチャリと頭の中の算盤が弾かれた。
ずっしりとしたその重さは、長屋を丸ごと買ってもお釣りがくるほどの金子が詰まっているだろう。
茉莉は遠慮なく、手にしていた小刀の刃先で、つんつんと包みを突き破る。
土間に零れた硬貨の色合いから見るに、偽貨ではなさそうだが。
それでも、念には念を入れ、しゃしゃらと硬貨を鳴らし重さと音を確かめると、納得したように頷く。
無表情のまま首肯した茉莉を、迎えに来たはずの当の本人は、気味悪そうに一瞥した。
「つまり、お仕事ですね。承知いたしました」
怯えるでもなく、媚びを売るでもなく、ましてや事情を問い詰めるでもなく。
あっさりと首肯したこの女は、頭のネジでも飛んでいるのだろうか。
しかし茉莉は飛燕のそのような戸惑いなど気にも留めず、部屋の隅から使い古した包丁や砥石、先程まで手入れをしていたくくり罠、そして乾燥させた薬草の束を風呂敷に手早く包み始めた。
「おい、何をしている。そんなガラクタは置いていけ」
「ガラクタではありません、私の大事な商売道具です。それとも、これから伺う場所では毎日のご飯と安全な寝床を未来永劫、無償で保証してくださるのですか?」
「っ、下賤な身の程で図々しい!」
「保証がないのなら、自分で稼ぐ手段を手放すわけにはいきません」
淡々と事実を述べる茉莉に、飛燕は深い溜息をつき、頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
「勝手にしろ。行くぞ」

![[シナリオ]朧廻国 心を繋ぐ双命の符](https://novema.jp/img/member/1393403/5pedue7kco-thumb.jpg)

