冷徹親王の囮妃は、刺客を狩って路銀を稼ぐ~愛のない契約結婚のはずが、気付けば異様に執着されているようです~


 ある日の午後。
 玄朱は、これまでにないほど深刻な面持ちで茉莉の部屋を訪れた。

「茉莉。重大な知らせがある。どうやら、先の粛清を逃れた対立派閥の残党が、まだ帝都に潜伏しているらしい」

「まあ。それは一大事です」

「うむ。奴らは非常に狡猾だ。いつお前の命を狙うとも限らない。だから、安全のためにまだこの奥御殿に……」

 玄朱が言い終わる前に、茉莉は手元の荷造り用の麻縄をピシャリと置いた。

「玄朱様。お言葉ですが、先月のご報告によれば、左大臣家の一族郎党はもちろん、遠縁の親戚、果てはお抱えの庭師に至るまで、ことごとく流罪か投獄されたはずです。真っ当に考えて、私を狙う余力のある残党など存在し得ません」

「そ、それは……だが、国外からの刺客が……」

「次期東宮の座が確定した今、私のような『お飾りの妻』を狙う政治的価値はありません。費用対効果が合わないのです。暗殺者も商売ですから、そんな無駄な依頼は受けないでしょう」

 完璧な損得勘定による論破。
「氷の親王」と恐れられ、朝廷の古狸たちを震え上がらせる玄朱の威圧感も、茉莉の前には無力だった。

「し、しかしだな」

「それに、万が一刺客が来たとしても、私の罠猟の腕なら返り討ちにできますし、その戦利品を売ればさらに路銀が潤います。一石二鳥ですね」

 茉莉が晴れやかな笑顔で言い切ると、玄朱はぐぬぬと言葉に詰まり、再び執務室へと敗走していった。

 数日後。
 正面突破を諦めた玄朱は、次なる手を打った。
 今度は、うず高く積まれた金塊と、煌びやかな宝飾品を従えて茉莉の前に現れたのだ。

「茉莉。お前が路銀を稼ぎたいのは分かっている。ならば、契約を『更新』しないか? 報酬はこれまでの三倍……いや、五倍出そう」

 これには流石の茉莉も、ピクリと反応を示した。
 脳内で凄まじい速度の計算が行われる音がする。

「五倍……。それは大変魅力的なご提案ですが」
 茉莉はわずかに眉を寄せ、毅然として首を横に振った。
「お断りします」

「な、なぜだ!? お前は金が目当てだろう!?」

「『足るを知る』のも生存戦略の基本です。今の手持ちで、郊外に茶屋を開き、一生安泰に暮らすだけの資金は十分にあります。これ以上欲をかいて高位の政治闘争に巻き込まれれば、今度こそ本当に命を落としかねません。私は、自分の器以上の富は望まない主義なのです」

 生家で財産をむしり取られ続けた父の末路を見ている彼女は、ただがめついだけではない。
「安全」と「確実性」を何よりも重んじる、極めて優秀な現実主義者なのだ。

 金でも釣れない。
 完璧な防御陣形を敷く妻を前に、玄朱はついに頭を抱えた。

「おい飛燕、どうすればいい。脅威を煽るのも駄目。あの女には一切の隙がない」

 執務室で絶望的なため息をつく主に、飛燕は呆れ顔で茶を差し出した。

「ですから殿下。素直に『愛しているから側にいてほしい』と仰れば……」

「それができれば苦労はせん!! 『互いに愛を求めることは禁ずる』という第一条件を破れば、あいつは『契約違反ですね。慰謝料を上乗せして請求します』と言って、喜んで出て行くに決まっている!」

 飛燕は内心で、「それは殿下の自業自得では……」と思ったが、主のあまりの不憫さに口をつぐんだ。

 その時、玄朱の脳裏に電流のような閃きが走った。

 愛も、金も、恐怖も通じない。だが、彼女が「奥御殿」という特殊環境において、目を輝かせていたものがあったではないか。

 ――米か、それとも適度な金か。どちらもか。

 玄朱の顔に、悪魔的な笑みが浮かんだ。政敵を罠に嵌める時に見せる、あの極悪非道な「氷の親王」の顔である。