冷徹親王の囮妃は、刺客を狩って路銀を稼ぐ~愛のない契約結婚のはずが、気付けば異様に執着されているようです~

「……お前は」
 玄朱の声が、微かに震える。
「お前は、私の正室だ。私が東宮となった今、お前は東宮妃としてこのまま私と共に——」

「お戯れを。私はあくまで『暗殺者の標的となるための身代わり』として雇われた、名ばかりの正室です。私のような無能で粗野な女が、本物の東宮妃になれるはずがないではありませんか。今後の玄朱様の御世のためにも、相応しい姫君を新たにお迎えくださいませ」

 茉莉の言葉には、卑屈さも嫌味も一切なかった。
 ただ純粋に、損得勘定と契約に基づく「事実」を述べているだけだ。
 彼女の心には、玄朱への恋心も、地位への執着も、本当に微塵も存在していないように聞こえる。

 その冷酷なまでの事実が、玄朱の胸を抉った。
 あれほど茉莉を甘やかし、守り、すべてを与えてきたつもりだった。
 彼女を傷つけた者たちを根絶やしにするほどに、己の執着と愛を示してきたつもりだった。

「……っ」

 冷徹な「氷の親王」と恐れられた男が、今、完全に手詰まりに陥っていた。
 武力で押さえつけるわけにはいかない。
 権力で縛り付ければ、彼女の心はさらに離れていくだろう。
 論理で反論しようにも、契約上、彼女の言い分は完全に正しい。

「玄朱様? お顔色が優れませんが、やはりお疲れなのでは……」

「……いや。なんでもない」

 玄朱は血を吐くような思いで言葉を絞り出すと、逃げるようにその場から撤退した。
 このままあっさりと逃がす気など、毛頭ない。
 今は引き留めるための「正当な理由」がないだけだ。

 次期皇帝の座を勝ち取った稀代の策士の頭脳が、今、一人の娘を引き留める言い訳を考えるためだけに、かつてないほどの回転を始めていた。

「飛燕……どうすればいい」

 執務室に戻るなり机に突っ伏した玄朱は、死にそうな声で側近に助けを求めた。
 契約満了まで、残すところあと半月。
 政敵をすべて血祭りに上げた彼には、もはや何一つの不安もないはずだった。
 しかし今、彼の心はかつてないほどの絶望に支配されている。

「まさか、微塵も私に情を抱いていないとは……っ! あれほど態度で示してきたというのに!」

「……殿下。ここは素直に、懸想していると想いを告げられてはいかがですか?」

「なっ、言えるわけがないだろう! 『互いに愛を求めることは禁ずる』と、一番初めに偉そうに宣言したのはこの私だぞ!」

 頭を抱え、机に突っ伏す次期皇帝の姿は、冷酷無比な「氷の親王」とは程遠い、ただの恋煩いに惑う青年のそれである。
 彼の中にある、茉莉に対する異常なまでの執着心は、彼女が隣に居ない未来予想図など想像しえない。

 かくして、玄朱はあの手この手で、不器用かつ強引な茉莉の囲い込み――つまりは、引き留め工作を開始した。