冷徹親王の囮妃は、刺客を狩って路銀を稼ぐ~愛のない契約結婚のはずが、気付けば異様に執着されているようです~

 茉莉は珍しくも浮足立った足取りで部屋の隅から大きなつづらを引きずり出し、自分の荷物を詰め込み始めた。

「……茉莉。入るぞ」

 そこへ、立派な東宮の装束に身を包んだ玄朱が、上機嫌で姿を現した。
 政敵を一掃し、地位を盤石にした彼の顔には、これまでの張り詰めたような冷たさはなく、どこか穏やかな光すら宿っている。
 何より、愛する妻である茉莉に「東宮妃」という最高の地位と安全を与えられることに、密かな誇りを感じていた。

「怪我の具合はどうだ。今日も顔色が……ん?」

 玄朱は、部屋の惨状——否、引越し準備の真っ最中である光景を見て、ピタリと足を止めた。
 部屋の中央には、美しく畳まれた高級な着物や金子がぎっしり詰まったつづらがいくつも並び、茉莉は動きやすいようにたすき掛けをして荷造りに勤しんでいる。

「茉莉。……何をしている?」

「あ、玄朱様。東宮へのご就任、誠におめでとうございます。今、ちょうど荷造りをしていたところです」

「荷造り、とは?」

 訝しげに眉をひそめる玄朱に対し、茉莉は晴れやかな——奥御殿に来てから一番の、それはもう輝くような笑顔を向けた。

「はい! ご就任が決定したということは、私との『一年間、あるいは次期東宮の座が確定するまで』という契約期間が満了したということです。暗殺者の脅威も去り、私の囮としての役目も無事に終わりました。少し痛い思いもしましたが、総じて非常に実入りの良い、素晴らしいお仕事でした」

 深々と頭を下げ茉莉は続ける。

「つきましては、契約通り、遠方の安全な隠れ家……いえ、住居の確保はこちらで手配がつきましたので、本日にでも退去させていただこうかと。これまで手厚くお世話していただき、本当にありがとうございました」

「は……?」

 玄朱の頭から、サァァッと血の気が引いていく。
 満面の笑みで「退去する」と宣言した茉莉の言葉が、すぐには理解できなかった。
 いや、理解したくなかった。

「ま、待て。退去だと? お前はここから出ていくつもりなのか?」

「はい。契約は満了しましたので。まさか、お約束いただいた報酬の支払いを渋るおつもりですか? 一応、言質は取っておりますし、東宮ともなられるお方が……」

「今は金の話などしていない!!」

 思わず大声を上げた玄朱に、茉莉はきょとんと目を丸くした。

 玄朱はギリッと奥歯を噛み締めた。
 己の失態に、今更ながら激しい後悔が押し寄せてくる。

『一年後、無事に生き延びていれば、一生遊んで暮らせるだけの金子と、決して追手の届かない遠方の安全な隠れ家を用意してやる』

『絶対の条件がある。私に情を移すな。互いに愛を求めることは禁ずる』

 茉莉に告げた自分の言葉が、呪いのように脳裏に蘇る。
 あの時、冷酷に条件を叩きつけたのは自分自身だ。
 茉莉はただ、その契約を完璧に履行し、約束通りに去ろうとしているだけなのだ。