冷徹親王の囮妃は、刺客を狩って路銀を稼ぐ~愛のない契約結婚のはずが、気付けば異様に執着されているようです~

「――!」

 背後に迫る殺気。
 大弓を構えたままの茉莉は、防御も回避も間に合わない。

 死を覚悟した、その時だった。

「私の妻に、気安く触れるな」

 絶対零度の声と共に、閃光のような白刃が闇を切り裂いた。
 血飛沫が舞う。
 茉莉の背後から迫っていた凄腕の忍びは、声を発する間もなく玄朱の一太刀で両断されていた。

「玄朱様……?」

「遅くなってすまない。下がっていろ、茉莉」

 玄朱の背中は、いつになく殺気に満ちていた。
 手にした白刃からは、彼自身の強大な霊力である『氷雪』の気が立ち昇っている。

「たかが犬っころ一匹で、私の奥御殿を落とせると思ったか」

 玄朱が地を蹴る。
 その動きは常人の目には追えぬほど速かった。
 氷の刃が巨大な妖の銀毛を切り裂き、さらに周囲に潜んでいた忍びたちを次々と氷漬けにしていく。
 圧倒的な力。
 これが、次期東宮の最有力候補とされる親王の真の武力。

 しかし、敵もさるものだった。

 氷の刃が妖の急所を貫いたその瞬間。
 瀕死の妖が最期の力を振り絞り、呪詛を纏った漆黒の瘴気を玄朱の死角へ向けて放ったのだ。
 同時に、物陰に潜んでいた最後の一人が、呪毒の塗られた苦無(くない)を玄朱の背中へと投擲する。

「殿下!」

 駆けつけた飛燕の悲鳴が響く。
 妖の足止めに体勢を崩していた玄朱は、その凶刃を避けきれない。

(――一番の金蔓を失うわけにはいきません!)

 その瞬間、茉莉の身体が理屈よりも先に動いていた。

 異能を持たぬ彼女の足では、到底間に合わないはずの距離。
 しかし、過酷な生活で培った異常な反射神経と生存本能が、彼女の身体を弾丸のように前へと弾き出した。

 ドスッ!!

 鈍い音が、夜の庭に響き渡る。

「……え?」

 玄朱が振り返った時、彼の目に映ったのは、自分の代わりに深々と刃を背に受け、その細い身体から鮮血を散らす茉莉の姿だった。

「茉莉……っ!!」

 玄朱の絶叫が夜気を裂く。
 彼の手から刀が滑り落ち、崩れ落ちる茉莉の身体をすんでのところで抱き留めた。
 温かい。
 そして、おびただしい量の赤い血が、彼女の白い肌と着物をどす黒く染め上げていく。

「なぜ……お前、なぜ私を庇った……!」

 常に冷徹で、感情を滅多に表に出さない玄朱の声が、情けないほどに震えていた。

「しっかりしろ! 飛燕、薬師を! 今すぐ腕利きの薬師をありったけ呼べ!!」

 恐慌状態に陥り、なりふり構わず叫ぶ玄朱。
 しかし、腕の中の茉莉は、血の気を失った真っ白な顔で、わずかに薄目を開けた。

「……とう……じゅ、さま……」

「喋るな! 今は喋るな!」

「……お約束、ですから……」

 荒い息を吐きながら、茉莉は血に染まった手を力なく伸ばし、玄朱の豪華な着物の袖をきゅっと掴んだ。
 愛の言葉でも、悲劇の令嬢めいた感傷でもない。
 彼女が薄れゆく意識の中で口にしたのは、徹頭徹尾、彼女らしい現実的な一言だった。

「特記、事項、第三条……怪我の、慰謝の金子……うんと弾んで、ください……ませ……」