冷徹親王の囮妃は、刺客を狩って路銀を稼ぐ~愛のない契約結婚のはずが、気付けば異様に執着されているようです~


 その日の深夜。奥御殿は、ただならぬ冷気と深い霧に包まれていた。

「今夜は随分と冷え込みますね。霧も深いですし」

 就寝前の日課である、罠の点検に出ようとした茉莉は、庭の異変に首を傾げた。
 いつもなら静かな庭木が、ざわざわと不気味に揺れている。

 ズン……、ズン……。

 地響きのような足音と共に、濃霧の中から姿を現したのは、身の丈が三丈はあろうかという巨大な黒狼の『妖』だった。
 爛々と輝く赤黒い双眸。
 その周囲には、妖の護衛として雇われた凄腕の忍たちが音もなく付き従っている。

 並の人間であれば、その圧倒的な威容と濃密な妖気に当てられ、恐怖で身動きすらとれなくなるだろう。

「まあ……ずいぶんと大きな野犬です」

 茉莉の感想は、ただそれだけだった。
 飛燕が懸念してた妖気は、茉莉には影響が無いようだった。

「熊を相手にしたこともありますが、アレ(ルビ)は私の仕掛けた鳴子や落とし穴の大きさを完全に超えているようなので。規格外ですね」

 巨大な黒狼が、獲物を見定めたように低い咆哮を上げた。
 ビキビキと、奥御殿の結界が軋む音がする。

「行けっ! あの無能の女を食い殺し、玄朱の弱みを作れ!」

 闇に潜む凄腕の忍びが号令を下す。
 黒狼が、恐ろしい跳躍力で茉莉のいる縁側へと飛びかかってきた。
 その巨体が、茉莉が仕掛けていた「黒糸の鳴子」や「落とし穴」を次々と踏み荒らすが、妖の強靭な肉体にはかすり傷一つ負わせられない。

 茉莉が丹精を籠めた仕掛けが、まるで赤子の玩具のように蹴散らされていく。

「うーんなるほど、完全な力押しですか。となると……物理には物理で対抗するしかありません」

 迫り来る巨獣を前にしても、茉莉は一切取り乱すことなく、素早く縁側の床板を一枚引っぺがした。
 そこには、緊急時用に彼女が密かに仕込んでいた『特製・連射式大弓』が隠されている。
 奥御殿の最高級の木材を勝手に削り出し制作した、彼女なりの生存戦略技術の集大成である。

「さて、一発で仕留められれば良いのですが」

 照準を合わせ、女の細腕よりも太い丸太のような矢を構える茉莉。
 だが、歴戦の凄腕の忍びたちはそれを許さなかった。

「小細工を……! 死ね!」

 霧に紛れ、背後の屋根から音もなく飛び降りた忍びの凶刃が、茉莉の死角から急所へと迫っている。
 前方の巨大な妖に気を取られていた茉莉にとって、それは完全に計算外の奇襲だった。