ひとりのじかん

1日休んだ次の日、私は勇気を出して学校に行くことにした。
まあ、昨日お母さんに何時間も怒られた、というのも理由の一つだけどね…。
思う事はたくさんある。だけど、学校は行かないと行けない…。
だから、昨日起こったことには目を瞑り、蓋をすることにした。

誰とも話すことなく迎えた昼休み。
私は一人で教室を出た。教室にいるのが嫌だった。
別に何かされたわけじゃない。ただ、そこにいるだけで疲れてしまう。
誰かの視線。誰かの笑い声。誰かのひそひそ話。それらから逃げるように、私は廊下を歩いた。
向かったのは、校舎の端にあるトイレ。
昼休みだから、ほとんど人はいなかった。
「……少しだけ、ここにいよう」
個室に入ろうとした、その時だった。後ろから声がした。
「ねえ」
身体が固まった。
振り返る。
そこには、数人の女子が立っていた。
「……何?」
「べっつにー?」
一人が笑った。
「ちょっと話そうよ」
「……ごめん。今、用事があるから」
私はその場から離れようとした。けれど、行く手を塞がれる。
「どこ行くの?」
「……トイレ」
「見れば分かる」
笑い声。私は俯いた。
「じゃあ、通して」
「なんでそんな偉そうなの?」
「……そんなつもりじゃ」
「じゃあさ」
一人が洗面台の方へ歩いていった。
自然とトイレに引っ張り込まれた。
彼女達が蛇口をひねる。水が流れる音。バケツに水を流し込む。
私は嫌な予感がした。
「……何してるの?」
返事はない。
ただ、水の音だけが続いている。
そして次の瞬間…。
冷たい水が、頭から肩へ落ちてきた。
「……っ」
何が起きたのか理解するまで、少し時間がかかった。
髪から水が滴る。制服も濡れていく。私はその場で立ち尽くした。
「……やめてよ」
やっと声が出た。全身が震える。
「何?」
「……やめて」
自分でも驚くほど小さな声だった。
怒っている、とはちょっと違った。
「聞こえない」
また笑い声。
「もっと大きい声で言えば?」
私は何も言えなかった。言い返したら、もっと酷くなる気がした。
先生に言えばいい。
そう思った。
でも…。
言ったらどうなる?
告げ口したって思われる。
もっと嫌われる。もっと何かされる。
そんな考えが頭の中をぐるぐる回った。
「……もう、いいでしょ」
震える声で言う。
「帰らせて」
「何それ」
「被害者ぶってる?」
その言葉に、胸が詰まった。
違う。
私は被害者ぶってなんかいない。
ただ、やめてほしいだけ。それだけなのに。
「……ごめん」
気がつけば、私は謝っていた。
何に対して謝っているのかも分からない。
ただ、早く終わってほしかった。女子たちはしばらく笑っていた。
そして、
「じゃあね」
…何事もなかったように、出ていった。
扉が閉まる。途端に静かになった。
私は鏡を見た。
濡れた白い髪。水滴のついた頬。赤くなった目。
そこに映っていたのは、見慣れたはずの自分だった。
なのに。
ひどく知らない人に見えた。
「……なんで」
声が震える。
「なんで私なの……?」
答えてくれる人はいない。
私は蛇口を閉め、バケツを片付けた。床は雑巾で拭いた。
濡れて着崩れた制服をどうにか整えて、教室へ戻った。
誰にも何も言わなかった。
「どうしたの?」
友達に聞かれた時も、
「……水、こぼしただけ」
そう答えた。
当然、嘘だった。でも、本当のことを言う勇気はなかった。
その日から、私は学校ではトイレに行けなくなった。
教室に入る前には、必ず周囲を見るようになった。廊下を歩く時も、後ろを何度も振り返った。誰かが笑えば、自分のことだと思った。誰かが水道を使えば、あの日のことを思い出した。
そして少しずつ。
学校という場所そのものが、怖くなっていった。
それでも、私は学校へ行き続けた。
自分を騙して、何もなかったふりをした。
笑った。授業を受けた。部活にも行った。友達と話した。
先生には、
「最近、元気ない?」
と聞かれた。
「大丈夫です」
私は笑った。
「ちょっと寝不足なだけです」
嘘をつくのが、上手くなっていった。
家でも同じだった。
「学校どうだった?」
お母さんに聞かれる。
「普通」
「友達とは?」
「話したよ」
「部活は?」
「楽しかった」
全部、嘘。
本当は、学校へ向かうだけで胸が苦しかった。教室のドアを開けるのが怖かった。笑い声が怖かった。水道の音が怖かった。
そして何より、自分自身が嫌になっていった。
『白い髪だから』
『普通と違うから』
『私がこんな姿だから』
そう思うようになった。悪いのは、私ではないはずなのに。いつの間にか私は、自分を責めるようになっていた。
そんな日々が続いた。
そして。
6月。
7月。
季節が夏へ近づいていく。
私は、少しずつ壊れていった。
学校へ行く朝、玄関で靴を履こうとすると、身体が動かなくなる。
「……行かなきゃ」
そう思う。
でも、足が動かない。
「行かなきゃ……」
吐き気がする。手が震える。涙が出る。それでも、私は何度も自分に言い聞かせた。
『学校へ行くのは普通』
『みんな行っている』
『私だけ逃げちゃ駄目』
そうやって、私は自分を追い詰めていった。

そして、中学三年生の一学期が終わる頃。
私は、自分の部屋から出ることさえ怖くなっていた。
だけど、家族に。先生に。みんなに。私自身に。
嘘に嘘を重ねて、1学期は学校に行ききった。
学校へ行くことが『普通』だったから。
みんなが行っている。だから私も行かなきゃいけない。
そう思って無理やり行き続けた私の精神は、既にぼろぼろだった。
心の中では、少しずつ、
『行きたくない』
という気持ちが大きくなっていった。

なんとか1学期も終わり、夏休みを迎えた。
しかし、長期休みはどこに出かけるわけでもなく、家にずっといた。部活にも行かなかった。
そうしているうちに、家では安心して過ごせるという安心感が、私の精神的な支えになってしまった。
そうして迎えた2学期。家に依存しきってしまったせいで、本当に学校に行けなくなった。
行こうとしても、体は拒絶反応を起こすばかりだった。

始業式に登校した後は、ずるずると休んでいった。
戻れなくなってしまった。
最初は一日。
次は二日。
そして、一週間。
気が付いた時には、すでに外にさえ出られなくなっていた。
塾は個別指導だったから、まだ通えたけど、何度試しても、学校は無理だった。
毎朝ちゃんと支度している。制服も着て、学校に行こうとはしている。
だけど、玄関に足を運んだら、ものすごく震えが止まらなくなった。寒気さえもある。
「お母さん、今日も休む……」
そう言ううちに、お母さんはだんだん、私への当たりが強くなっていった。幻滅したのだろう…。受け入れ難かったのだろう。
何かあったらお兄ちゃんと私を比べ、私を罵り、お兄ちゃんを立てる日々。
正直、うんざりはしたけど、まだ耐えられた。
学校で受けた言葉の方が、傷は深かった。

「……っ」
私は、ベッドの上で目を覚ました。
「……夢」
違う。夢じゃない。昔の記憶だった。
部屋は暗い。時計を見る。午前二時を過ぎている。
私はしばらく天井を見つめた。
胸が苦しかった。忘れたと思っていた。
いや、忘れたかっただけだった。
机の上にあるノートを見る。
昨日、自分で書いた言葉。
『中学校三年生の頃。』
私はゆっくりベッドから起き上がった。
机に向かう。ノートを開く。そして、ペンを持った。
手が少し震えている。
それでも、私は書いた。
『私は、白い髪のことで、嫌なことを言われるようになった。』
少し間を置いて。
もう一行。
『トイレで、水をかけられた。』
そこで、ペンが止まった。
涙が一滴、紙の上に落ちる。
「……まだ、こんなことで泣くんだ」
私は笑おうとした。
でも、笑えなかった。
その時。
――ピコン。
スマートフォンが鳴った。
画面を見る。
『眠れない?』
迅からだった。私は驚いた。
『なんで分かったの?』
送信すると、すぐに返信が来る。
『なんとなく』
『何それ』
『勘』
私は少しだけ笑った。そして、しばらく迷った。今日思い出したことを、迅に話してみようか。
でも…。
まだ怖い。恐怖で指が止まる。
『……昔のこと、少し思い出した』
送信。
しばらくして。
『そっか』
それだけ。
続けて。
『無理に話さなくていいからな』
私は画面を見つめた。
「……うん」
声に出して返事をする。
もちろん、迅には聞こえない。
でも。
少しだけ安心した。全部話さなくてもいい。忘れたふりをしなくてもいい。その間にいるだけでもいい。
私はノートを閉じた。そして、スマートフォンを胸元に置く。
「……明日、話してみようかな」
何を。どこまで話せるか。
それはまだ分からない。
ただ、今まで誰にも話せなかったことを。一人では抱えきれなかったことを。
少しずつ、言葉にしてみようと思った。
それが、
私にとっての、三歩目だった。