ひとりのじかん

中学三年生。五月。
「葵依、その髪ってさ」
昼休み。
隣の席の女の子が、私の髪を見ながら言った。
「本当に生まれつきなの?」
「うん」
私は笑って答えた。
「ずっとこの色だよ」
「へえ……」
彼女は興味深そうに、私の髪を眺める。
「触ってもいい?」
「いいよ」
私は少しだけ頭を近づけた。
彼女の指が、私の髪に触れる。
「わ……本当に白い」
「だから言ったじゃん」
「なんかすごいね」
「そう?」
「うん。私、こんな髪の人初めて見た」
そう言って、彼女は笑った。私も笑った。
この頃は、まだ。何も思っていなかった。
白い髪。白い肌。淡い色の瞳。小さい頃からずっと一緒だった、自分の身体。私はそれを特別だと思ったことはあっても、嫌いだと思ったことはなかった。
むしろーー。
珍しいと言われることが、少し嬉しかったくらいだ。
「ねえ、写真撮っていい?」
「写真?」
「うん。せっかくだし」
「いいよ」
彼女がスマートフォンを取り出す。私達は笑って、ピースをした。
カシャ。
「見せて」
画面を覗き込む。そこには、笑っている私がいた。
「……普通じゃん」
「何それ」
彼女が笑う。
「もっと変に写ると思った」
「ひどくない?」
「ごめんごめん」
私も笑った。
周りにいた友達も、その写真を見て笑っている。
いつもの昼休み。いつもの教室。いつもの友達。何も変わらない。
そう思っていた。
この時の私は。
これから起こることなんて、何一つ知らなかった。想像もつかなかった。

「ねえ、葵依」
放課後。
帰りの支度をしていると、別の女の子が話しかけてきた。
「何?」
「今日、一緒に帰らない?」
「うん。いいよ」
私は鞄を持った。
「コンビニ寄ろうよ」
「いいね」
「アイス食べたい」
「私も」
くだらない話をしながら、教室を出る。
廊下には、部活へ向かう生徒たちがたくさんいた。
私はその中を歩く。笑い声。足音。先生の声。窓の外から聞こえる運動部の掛け声。全部。私にとっては、いつもの音だった。
「葵依ってさ」
友達が突然言った。
「ん?」
「高校どこ行くの?」
「まだ決めてないけど……」
私は少し考えて答えた。
「たぶん、県内の進学校かな」
「やっぱ頭いいなー」
「そんなことないよ」
「いやいや、前のテスト何位だった?」
「……三位」
「ほら!」
「でも一位じゃないし」
「それで『そんなことない』は嫌味だよ〜。現に2年生の主席は全教科葵依が持ってたじゃん!今回も落としたの英語だけでしょ?」
「それはそうだけどさ〜。決して嫌味ではないっ!」
二人で笑う。
あの頃の私は。
本当に、毎日が楽しかった。学校が嫌いだったわけじゃない。勉強も。部活も。友達も。全部好きだった。
だから…
最初の違和感にも。私は気づかなかった。

数日後。
休み時間。
教室の後ろから。
声が聞こえた。
「……あの子ってさ」
私は振り返らなかった。
誰のことだろう。そう思っただけだった。
「白い髪の子」
一瞬。
教室の空気が止まった気がした。
「葵依?」
別の子が聞く。
「そう」
私は、聞こえていないふりをした。机の上の教科書を見る。ページをめくる。
でも。
耳だけは、その会話を拾っていた。ダンボのようにして聞いていた。
「なんかさ」
「うん」
「ちょっと怖くない?」
「……分かる」
心臓が、一度だけ。もの凄い勢いで、大きく鳴った。
「え?」
私は顔を上げた。
けれど。
誰もこちらを見ていない。だから、気のせいだと思った。
「まあ、本人には言わないけどね」
「そりゃそうでしょ」
「傷つくじゃん」
「だよね」
そこで会話は終わった。
何も聞かなかったことにした。分かりたくもなかった。
教科書に視線を戻す。
「……」
大丈夫。
ただの会話。私のことを悪く言ったわけじゃない。きっと私の空耳だ。
そう思おうとした。
でも。
胸の奥に、小さな違和感が残った。

その日の帰り。
友達とコンビニへ寄った。
いつものようにアイスを買う。
のんびりと外に出る。
「暑いね」
「暑い」
「もう夏じゃん」
「まだ五月だよ」
「でも暑いもん」
私は笑った。
アイスを食べながら歩く。ひんやりとしていておいしい。
その時。
前から歩いてきた男子数人が私を見た。
そのうちの一人が、隣の友達に何かを耳打ちする。
二人で笑う。
私は何となく視線を逸らした。
「……」
気のせい。
きっと気のせいだ。そう思った。
けれど…。その日から。
私は少しずつ、周りの視線を気にするようになった。
教室に入る時や廊下を歩く時。体育の授業や部活の時、そして帰り道。
誰かが笑っていると、自分のことではないかと思う。誰かがこちらを見ると、この白い髪を見ているのではないかと思う。
「……」
自分でも気づかないうちに、私の中で猜疑心が生まれていた。日々、不安でしかなかった。

六月。ある日の朝。
教室に入ると、いつもと違う空気を感じた。
「……おはよう」
誰かに声をかける。
「……おはよう」
返事はあった。
でも、少しだけよそよそしい。
私は席に座った。鞄を机の横に掛ける。
すると、後ろの席から小さな声が聞こえた。
「昨日のやつ見た?」
「見た」
「やばかったよね」
「うん」
「本人には言わないでよ」
「分かってるって」
私は振り返った。気になって仕方がなかった。
「何の話?」
二人が一瞬黙った。
「……何でもないよ」
「そう?」
「うん」
笑っている。
だから私も笑った。
「そっか」
そう言って前を向く。
でも。
胸の中では、ずっと引っかかっていた。
――昨日のやつ。
何のこと?
私は何も知らない。そう思っていた。
けれど、昼休み。私はその答えを偶然知ることになる。
「……これ」
友達のスマートフォンを見て、私は固まった。
そこにあったのは、数週間前に撮ったあの写真だった…。
私が笑っている写真。でも、ただの写真ではなかった。
その下には、いくつものコメントがついていた。
『これ誰?』
『髪白すぎない?』
『加工じゃないの?』
『ちょっと怖い』
『学校にいるよね、この子』
『なんか近寄りづらい』
私は画面から目を離せなかった。
「……何これ」
声が。
自分でも分かるくらい小さかった。
「……」
誰も答えない。
「ねえ」
もう一度聞く。
「これ……誰が載せたの?」
沈黙。
それだけで答えは分かった。
私は、スマートフォンを持っている子を見た。なんで信用なんてしていたのだろう。自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。
「……私の写真」
「ごめん」
「……なんで?」
「いや……」
「なんで載せたの?」
「みんな面白がってたから……」
その言葉が胸に刺さった。面白がっていた。私のことを。この髪を。私が笑っている写真を。
「……消して」
「え?」
「消してよ」
自分でも驚くほどに強い声が出た。
教室の何人かがこちらを見る。
「……分かった」
スマートフォンを操作する。
でも、もう遅かった。
一度ネットに載ったものは、簡単には消えない。
そのことを、私はまだ知らなかった。

その日の放課後。
私は一人で帰った。
友達から誘われたけれど、断った。
「今日は用事あるから」
嘘だった。
ただ、誰とも話したくなかった。
駅までの道を歩く。いつもと同じ道。
なのに、景色が違って見えた。
すれ違う人。笑い声。スマートフォンを触っている人。
全部が怖い。
「……」
私は、髪を手で隠した。
意味なんてない。隠せるわけでもない。
それでも…。そうせずにはいられなかった。

家に帰って、自分の部屋に入る。いつもなら聞こえるお母さんの声も、今日はなかった。
鞄を床に置く。ベッドに座って、スマートフォンを見る。
通知。
一件。
二件。
三件。
知らないアカウント。知らない人。知らない言葉。
その中に、見覚えのある名前があった。同じ学校の生徒だった。
「……」
スマートフォンを伏せた。
見たくない。でも、気になる。
手を伸ばす。やっぱりやめる。
また伸ばす。
そして…。
結局のところ、私は画面を開いた。
そこには、私についての言葉が並んでいた。
『あの白い髪の子、ちょっと怖い』
『話しかけない方がいいらしい』
『性格も変なんじゃない?』
『なんか自分のこと特別だと思ってそう』
息を止めた。
「……違う」
誰もいない部屋で、小さく呟く。
「そんなこと……思ってない」
涙が一滴。
画面の上に落ちた。
私は慌てて拭った。
でも、次から次へと涙が出てくる。
「……違うのに」
私は何もしていない。
ただ生まれつき、髪が白いだけ。
それだけなのに……。
どうしてこんなことになったんだろう。

翌日。
学校へ行く。本当は行きたくなかった。
でも、私には休む理由もなかった。
だから、いつも通り制服を着て、家を出た。

教室の扉を開ける。
「……おはよう」
返事がない。
数人がこちらを見てきた。
そして、目を逸らした。
「……」
私は席に座った。机の中から教科書を出す。
すると、机の中に、1枚の紙切れが入っていることに気づいた。
何だろうか。
「……?」
恐る恐る取り出す。
紙には、たった一言。
『気持ち悪い』
そう書かれていた。
私はしばらくその文字を見つめていた。
何も感じなかった。
……いや、感じないようにしていた。
「……」
紙をぐしゃっと握る。そして鞄の中へ入れた。
誰にも言わなかった。
先生にも。友達にも。家族にも。
誰にも言えなかった。
こんなことで騒いだら、
『大げさ』
って思われるかもしれない。
『冗談じゃん』
って笑われるかもしれない。
だから、私は笑った。
いつも通りに。
何もなかったように。
感情を押し殺して笑った。
それが、私の間違いだった。
その日から少しずつ、私を取り巻く何かが変わっていった。
机の中に入る紙。廊下ですれ違う時の笑い声。聞こえてくる小さな悪口。
みんなに避けられること。写真を勝手に撮られること。
そして、私が近づくと、急に会話をやめる人たち。
一つ一つの断片は。
小さなことだった。
だから私は、
『まだ大丈夫』
だと思っていた。
でも…。
小さな傷は…。
積み重なっていく。
毎日。
少しずつ。
確実に。
私の中を蝕んでいった。
何かを残していった。
そして5月の終わり。
私は初めて、学校へ行くことが怖いと思った。

朝。
制服に着替える。鞄を持つ。玄関へ向かう。靴を履く。
そこで、足が止まった。
「……」
学校へ行かなきゃ。
そう思う。
でも、身体が思うように動かない。
胸が苦しい。手が震える。
「……どうして」
私は自分の足を見つめた。
「どうして……行けないの」
その時初めて私は知った。
学校が嫌いになることと、学校が怖くなることは、同じじゃない。
私は学校が嫌いになったんじゃない。
学校へ行くことが怖くなったんだ。
そして、その日。
私は初めて学校を休んだ。
それが……
すべての始まりだった。