ひとりのじかん

家に帰れたのは、昨日よりも遅い8時だった。
「ただいま」
昨日より少しだけ大きな声で言った。
「おかえり」
奥からお母さんの声がした。
私はリビングへ向かった。お母さんは夕食の準備をしていた。
「今日は……どこに行ってたの?」
「……近場」
「そっか」
母はそれ以上何も聞いてこなかった。
以前なら、問い詰められていたかもしない。
誰といたの?何をしていたの?どうして学校には行けないの?
でも、今日は何も言わなかった。
「……お母さん」
「ん?」
「今日ね」
私は少し迷った。言うべきなのか……。けれど、迅の言葉を思い出して、勇気を出してみた。
「友達と会ってた」
母が振り返る。
「友達?」
「うん」
「……そっか」
母は少し笑った。
「よかったね」
その言葉が、思った以上に胸に響いた。
その夜。
私は机に向かった。
昨日のノートを開く。
『私が学校に行けなくなった理由。』
その下には、
『中学校3年生の頃。』
と書いてある。
ペンを持つ。
今日は、昨日よりも少しだけ書けそうだった。
私はゆっくり文字を書き始めた。噛み締めるようにして。
『私は、最初から学校が嫌いだったわけではない。』
一行。
『むしろ、学校が好きだった。』
二行。
『友達と話すのも好きだった。』
三行。
『笑うことも好きだった。』
そこで、手が止まった。
「……」
昔の自分。
今よりもずっと明るかった自分。自分の髪を気にせず、鏡を見て笑っていた自分。その姿が、ぼんやりと頭に浮かぶ。
私はページをめくった。そして、もう一度ペンを走らせた。
『じゃあ、私はいつから学校が怖くなったんだう。』
書いた瞬間。
頭の中に、一つの場面が浮かんだ。
中学校3年生。四月。始業式。
まだ新しいクラスメイトに慣ていなかった頃。教室の窓から差し込む春の光。豪勢に咲き誇る桜。隣の席の女の子。
そして――
「ねえ、その髪って染めてるの?」
「……え?」
私はペンを止めた。
記憶の中の声が、はっきり聞こえた。
「白い髪って、珍しいね」
「……うん」
「どうして白いの?」
私は笑って答えた。
「生まつき」
その頃の私は、まだ笑えていた。まだ何も怖くなかった。
私にとっては、白い髪や肌、淡い瞳を持つ自分も『普通』だと思っていた。
まだ、『普通』という言葉が、こんなにも自分を苦しめるものだとは知る由もなかった。
私はノートを閉じた。今日はここまで。
昨日までなら、絶対に思い出そうともしなかった。
でも――。
今日は違う。少しだけ、思い出してみたいと思った。
怖いけれど。
「……2歩進める日もある、か」
迅の言葉を反芻する。
私はノートを机の引き出しにしまった。
着信音が鳴ったので、スマートフォンを見る。迅からメッセージが届いていた。
『今日は楽しかった!』
私は少し笑った。
『私も』
はやい手つきで送信する。
数秒後。
『また明日』
その文字を見て、私は少しだけ考えた。
明日。
明日、また迅に会えるかもしない。明日、ノートに続きを書けるかもしない。明日、何かが一つ変わるかもしれない。
自分の回りに色が灯っていく。白黒だったものが、鮮やかな色に染まっていく。そんな感覚。
こんなことを考えられるようになった自分に驚いた。
私は窓の外を見る。夜空には、いくつかの星が見えた。
私はカーテンを閉める前に、もう一度だけ空を見上げた。窓の外では、夏の夜が静かに続いている。
そして、小さく呟いた。
「おやすみ、迅」
誰にも聞こえない声だった。でも、不思議と心が温かくなった。
私はベッドに入った。
電気を消して、暗闇の中で、今日のことをもう一度思い返す。
今日という日を忘れないように。
いつもなら、私の側にあるものは孤独だけだった。
でも今夜は違う。
明日が来るのが、ほんの少しだけ怖くない。誰かと繋がっている気さえした。
そんな夜だった。