ひとりのじかん

朝。4時50分。
目覚ましが鳴る少し前に、私は目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の床を細長く照らしている。
いつもなら、目が覚めた瞬間から憂鬱だった。
『ああ、朝か』
身体が重くなって、今日もまた、繰り返しの一日が始まってしまう。そう思っていた。
けれど、今日は違った。
…迅。
昨日会った男の子。考えずにはいられない。
ぼんやりと天井を眺める。
何故だろう。
別に、特別なことをしたわけじゃない。ほんの数時間話しただけ。それなのに、妙に頭に残っている。簡単に私の価値観にひびを入れてしまった人だった。
あれこれ考えているうちに、どうしてあんなことまで話したのだろうという疑問が浮かんでしまう。この間までお母さんにも言ったことがなかったのに。
昨日話していた私が言うことでもないが、普通なら、もっと警戒するはずだ。ましてや初対面。
でも、私は『また会えたら』と思っている。たった数時間しか喋ってないのに、随分気を許してしまっている。
そんな自分が少し怖かった。人と関わることをあれだけ嫌がっていた私が。
自分の感情が分からなくなって、ベットでじたばたする。
すると、廊下から足音が聞こえた。
「葵依、起きてる?」
お兄ちゃんの声だった。
「……起きてる」
「朝ご飯、できてるって」
「分かった。すぐ行く…。」
お兄ちゃんが去っていく。
私はゆっくりベッドから降りた。
「もうご飯か……」
『お母さん、今日は珍しく早起きだな』と思いながら部屋をあとにした。

洗面所へ向かう。鏡を見ると、昨日と同じ自分がいた。
白い髪。白い肌。淡い色の瞳。何も変わっていない。
昨日、迅と話したからといって、急に自分の姿を好きになれるわけではない。
鏡の中の自分と目が合う。
「……」
やっぱり、少し嫌だった。
でも、昨日とは一つだけ違った。私はすぐに目を逸らさなかった。
数秒。
それだけ。たった数秒、鏡の中の自分を見ることができた。
ちょっとは進歩したのか、それとも…。
「……別に」
気がついたら私の口はそう呟いていた。何が『別に』なのかは分からない。
冷たい水が頬に当たる。昨日と同じ水なのに、気持ち良く感じた。
その後髪をくくり終えてから、洗面所を出た。

リビングへ行くと、お兄ちゃんが朝食を食べていた。お母さんもいる。
ふと、昨日のことが頭をよぎった。一瞬、足が止まる。
お母さんも私に気づいた。
「……おはよう」
「……おはよう」
それだけ。
昨日までなら、ここから何か言われると思っていた。
学校に行け、と。
でも、お母さんは何も言わなかった。
「ご飯、そこにあるから」
「……うん」
私は椅子に座った。
お兄ちゃんがこちらを見る。
「昨日、ちゃんと寝れた?」
「……うん」
「そっか」
お兄ちゃんもそれ以上聞かなかった。
静かな朝だった。
以前なら、この静けさが気まずかった。でも今日は、何故か少しだけ安心した。
お母さんが食器を片付けている。
その背中を見ながら、私は昨日のことを思い出していた。
お母さんが謝ったこと。私も謝ったこと。
全部が解決したわけじゃない。それでも、何かが少し変わった気がする。
「………。あのね、お母さん」
「ん?」
「昨日は……ごめん」
お母さんの手が止まった。
「ううん」
振り返ったお母さんは、少し困ったように笑った。
「お母さんの方こそ、ごめんね」
私は頷いた。
それ以上は何も言わなかった。
まだ、それで十分だった。

朝食を食べ終わって、私は自室へ戻った。
自分で言うのもなんだが、実は、私は毎日ちゃんと勉強している。
1学期範囲はもちろん、2学期の範囲もすでに大体分かる。高校が県内トップの進学校だということもあって、大体公立高校の2年でやる範囲だ。
お母さんは私が学校に行ってないから、私のことを馬鹿な怠け者だと認識しているようだが、実際は違うのだ。週に4日、タブレット画面を挟んで、個別指導塾の先生に教えて貰っている。お母さん達がいない朝8時から12時までみっちりと。
この事はお父さんしか知らない。もちろん、口止めもしている。
まあ、この生活が始まって5ヶ月も経ってるから、今更お母さんの誤解を解こうとも思っていないしね。実際に塾がない日は昨日みたいにだらだらしているし…。
そんな事を考えているうちに、塾の宿題は終わった。

お兄ちゃんとお母さんが家を出た。
玄関が閉まる音が響く。私はいつものようにひとりになった。
テレビのニュースを見る。昨日とは違って、すぐに消さなかった。
今日の天気予報を聞いた直後、タブレットの通知音が流れる。
「授業が始まっちゃう!」
私は慌てて椅子に座り、滑り込むようにして講義を受けた。

講義が始まってから、二時間ほど経った。
「では、ここで一度この問題を解いてみましょうか」
画面の向こうにいる先生が、いつものように穏やかな声で言う。
「分かりました」
私はペンを握り、問題集へ目を落とした。
三角関数。
今の私には、それほど難しい問題ではない。
少し考えれば解ける。
私自身、問題を解いている間は余計なことを考えなくて済むから、勉強は嫌いではなかった。
むしろ、好きな方だと思う。
答えが決まっているから。
途中式があって、正しい方法で解けば、ちゃんと答えに辿り着く。
人間関係とは違う。
人間には、公式がない。
どれだけ正しいことを言っても、相手がどう受け取るかは分からない。同じ言葉でも、言う人によって意味が変わる。
昨日、迅と話していて、そんなことを考えた。
『普通って、誰が決めるんだろうな』
あの言葉が、頭から離れない。
「……」
私はシャーペンを止めた。
『普通』
その言葉を考えれば考えるほど、分からなくなる。
学校へ行くことが普通。友達がいることが普通。毎日外へ出ることが普通。人と話すことが普通。
そして――。
周りと同じ姿をしていることも、普通。
でも、それなら。私が普通じゃないのは、どこからなんだろう。
白い髪?白い肌?淡い色の瞳?それとも、学校へ行けないこと?人と話せないこと?
「……分かんない」
「葵依さん?」
「……っ」
画面から先生の声がして、私は慌てて顔を上げた。
「あ、はい」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です。すみません」
「疲れていたら少し休憩してもいいですよ」
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
先生は少しだけ笑って、授業に戻った。私は再び問題へ目を向ける。
けれど、さっきまで簡単だったはずの問題が、急に頭へ入ってこなくなった。

授業が終わったのは、昼の十二時を少し過ぎた頃だった。
「今日もお疲れさまでした」
「ありがとうございました」
タブレットの画面が暗くなる。部屋が急に静かになった。
私は椅子の背もたれに身体を預ける。
「……疲れた」
四時間。
途中に休憩はあるけれど、朝からずっと勉強していたのだから当然だ。
私は大きく伸びをした。
机の上には、今日解いた問題が並んでいる。全部終わっている。それを見ると、少しだけ達成感があった。
「……私、ちゃんとやってるじゃん」
誰に言うでもなく呟く。
お母さんは、私のことを怠け者だと思っている。
学校にも行かない。朝も起きられない。何もしていない。
きっと、そう思っている。
でも、実際は違う。
私は私なりに、毎日を過ごしている。学校へ行けない代わりに、勉強だけは続けている。
誰にも見られていなくても。
誰にも褒められなくても。
それだけは、自分で分かっている。
「……まあ、今日は頑張ったかな」
私は椅子から立ち上がった。
その時。
――ピコン。
スマートフォンが鳴った。
画面を見る。
『お疲れ』
迅からだった。
「……なんで分かるの」
私は思わず笑った。
『なんで?』
すぐに返信する。少しして、
『昨日、朝から勉強してるって言ってたから』
『よく覚えてるね』
『俺、記憶力いいから』
『自分で言う?』
『言う』
昨日と同じようなやり取り。それなのに、私は少し楽しかった。
『今日も会える?』
その文字が送られてきた。
私は画面を見つめる。昨日会ったばかりなのに、今日も会いたいと思ってくれている。その事実が何故か嬉しかった。
けれど…
『うん』
と打とうとして、指が止まる。
私は外へ出るのが怖い。昨日は、迅が声をかけてくれた。一人だったら、路頭に彷徨っていただろう。
『……』
しばらく悩んでから、
『どこ?』
と送った。すぐに返信が来る。
『昨日送った駅』
『分かった』
送信。
「……よし」
私は小さく息を吐いた。
あれ?
送ってから、私は固まった。
「……私、外に出るって言った?」
自分で送った文章なのに信じられない。いつもなら、外に出ることを考えただけで嫌になる。
でも、今日は嫌とは思っていなかった。
出かける準備をする。
服を選ぶ。なるべく目立たないものを。髪を隠すために帽子をかぶろうか迷う。でも、昨日の迅の言葉が頭に浮かんだ。
――嫌いな自分を、無理に好きになる必要はない。
私は帽子を置いた。白い髪のまま出よう。
少しだけ深呼吸した。
もちろん迷いはある。でも、そのまま玄関へ向かった。
外は昨日と同じくらい暑い。
でも、昨日ほど嫌ではなかった。
軽い足取り。
帽子を取る。
「……」
やっぱり怖い。だけど外に出た。
出た後、すぐにリュックから扇風機を取り出した。流石は夏休み。とにかく暑い。一瞬で汗が出る。
「……暑すぎ」
昨日と同じ感想。
けれど、体感では全然違うものだった。

…怖い。繰り返し何回でも思ってしまう。
すれ違う人の視線が気になる。
自分を見ているのではないか。白い髪を見て、何か思っているのではないか。
そんな考えが頭をよぎる。
でも。
昨日より、ほんの少しだけ足が動いた。駅までなら、一人でも歩ける。
そう思えた。
昨日の自分より、ほんの少しだけ。
私は駅まで急いで歩いた。

電車に揺られて1時間。
迅はまだ来ていなかった。ベンチに座って待つ。
五分。
十分。
十五分。
「……遅い」
少し不安になったところで、連絡を入れようとしたら、
「ごめん!」
迅が走ってきた。もの凄いスピードで走ってきたから、周りの人は迅に釘付けだ。
「遅れた!」
「……遅い」
「ごめんって」
迅は息を整えながら隣に座った。
「暑すぎる」
「それは昨日も言ってた」
「今日も暑いから」
「毎日言うつもり?」
「たぶん」
「夏にその話題一筋とはいかないでしょ。違う話題にしてよねー」
私は笑った。
迅がこちらを見る。
「……何?」
「いや、昨日より笑うようになったなって」
「……そんなに?」
「うん」
「……迅が変なこと言うから」
「じゃあ俺のおかげ?」
「調子に乗らないで」
「はいはい」
迅は楽しそうだった。
私は少し恥ずかしくなって、目を逸らした。
「気のせい」
「そういうことにしとく」
ふっ、と笑みが溢れて。そして、しばらく二人で黙っていた。でも、不思議と気まずくない。昨日もそうだった。
この沈黙は、私が今まで知っていた「気まずい沈黙」とは違った。
「そういえば、今日はどうする?」
迅が沈黙を破る。
「分かんない」
「じゃあ、適当に歩こう」
「……。」
「嫌?」
「……嫌じゃない」
その答えに、自分で少し驚いた。
嫌じゃない。むしろ、一緒に歩くのが、少し楽しみだった。

昨日、私が通っていない道だった。学校と真反対の場所。
商店街を抜けて、小さな川沿いの道へ出る。
川の水面が太陽の光を反射して、きらきらしていた。
「綺麗」
思わず口から出た。
「だろ?」
迅が得意そうに言う。
「迅が作ったわけじゃないでしょ」
「紹介したのは俺」
「それだけじゃん」
「十分だろ」
「……まあね」
私は川を見る。風が少しだけ涼しい。
外に出るのは嫌いだった。でも、こういう景色を見るのは、嫌いじゃない。
「葵依って、外嫌い?」
「……うん」
「でも、今ちょっと楽しそう」
「……そう見える?」
「見える」
私は少し考える。
「……外が嫌いっていうより、人が嫌いなのかも」
「人?」
「うん」
私達は川を見ながら話した。
何気ない日々の話。意味もない話。たまたま身の回りで起きたこと。
それらを思い出した順に、ゆっくり話した。迅の前では本心で、取り繕うことなく話せた。

そうやって話しているうちに、あっという間におやつの時間になった。15時だ。
迅が通りすがりのスタバの新商品を見て、
「腹減った」
と言いだした。
「……私はいい」
「なんで?」
「食欲ない」
「朝は?」
「食べた」
「じゃあ大丈夫か」
迅はスタバに入ろうと体を向ける。顔がとてもうずうずしているのが分かる。わかりやすい人だ。
「何か買ってこようか?」
「いい」
「遠慮してる?」
「違う」
「じゃあ、俺が食べたいから買ってくる。」
「……何それ」
「ついで」
そう言って迅は走っていった。
私はすぐ側のベンチに座った。私の前を人がたくさん通っている。
私は少し身体を固くした。
視線が怖い。やっぱり、外は怖い。昨日は迅がいたから平気だっただけかもしない。
そう思った瞬間、近くを通った女子二人の会話が聞こえた。
「ねえ、あの子……」
思わず身構えてしまう。出来ることなら聞きたくもない。
「白い髪……」
「なんか、不気味だね…」
やっぱりね。
私は俯いた。心臓が速くなっていくのが分かる。
「……」
…何も変わっていないじゃん。
私がどこにいたとしても、やっぱり言われるんだ。
ようやくその二人が通過ぎていく。数秒のことなのに、やけに長く感じる。
私はしばく顔を上げられなかった。
「葵依?」
突然、迅の声がした。
ようやく顔を上げる。
「……大丈夫?」
「……うん」
「嘘」
「大丈夫」
「顔真っ青」
「……」
迅が私の隣に座る。
「何か言わた?」
「……何も」
「そっか」
それ以上聞かなかった。
「はい」
迅が飲み物を差し出す。新作のフラペチーノだ。
「……ありがとう」
ここは素直に受け取る。冷たい容器が手に触れた。
「……怖かった?」
私は少し迷って、
「うん」
と答えた。
迅は何も言わなかった。ただ、隣にいた。いてくれた。たった、それだけだった。

しばらく蝉の鳴き声を聞いていた。
…どんな答えが返ってくるかはわからない。だけど、この人が私をどう思ったのかは、とても気になる。怯えにも勝るほどに― ―。今聞きたいと思ってしまう。
「ねえ、迅」
「ん?」
「昨日、私のこと見て……何も思わなかった?」
手が震える。少し俯いてしまう。
「例えば?」
「髪とか」
「ああ」
迅は少し考えた。
「白いなって思った」
「……やっぱり」
「でも、それだけ」
「それだけ?」
「うん」
「怖くないの?」
「なんで?」
「だって……」
私は自分の髪に触れる。
「普通と違う」
迅は首を傾げた。
「普通って?」
「……」
また、その言葉。
「みんなと同じ」
「でも、みんな同じじゃないだろ?」
「……」
「背が違う。声も違う。性格も違う。好きなものも違う」
「それは……」
「だったら、髪が違うってだけでで何がそんなに変なん?」
私は答えられなかった。
「……関西弁」
「今そこ?」
「いや、なんか……」
少し笑ってしまう。
「関西弁って、面白い」
「関西人に謝れ」
「ふふ」
また笑った。
迅も笑う。
その瞬間だけ、私は何も考えなかった。
白い髪も。学校も。中学校の記憶も。お母さんの言葉も。
全部忘れていた。

「時間が経つのって、本当に早いよね…」
既に日は傾いていた。
もう夕方。
空が少しオレンジ色になっていた。
「今日、楽しかった?」
迅が聞いた。
「……うん」
少し間をあけて答えた。
「そっか」
「私、久しぶりに、楽しいって思えた」
「それならよかった」
「でも!」
少し声を上げて…。その後は脱力したように小さく呟いた。
「…家に帰のは、やっぱり怖い」
迅は黙った。
「お母さん?」
「……うん」
「昨日のこと?」
「うん」
「まだ怒ってる?」
「分からない」
「葵依は?」
「……」
私は少し考えた。
「私も、怒っていると思う」
「そっか」
「でも、私も悪かったと思ってる。言い過ぎちゃったし…」
「…。」
「だけど、どうすばいいのか分かない」
「すぐに答えを出さなくてもいいんじゃない?」
迅はそう言った。
「家族だかって、何でも分かり合えうわけじゃないし」
「……」
「むしろ、近いからこそ言えないこともあるだろ」
私は頷いた。
「……そうかも」
「でもさ」
迅は立ち上がった。
「昨日よりも、今日は少し進んだじゃん」
「何が?」
「家から出た」
「あ……」
確かにそうだった。
昨日は衝動的に飛び出した。今日は、自分の意思で家を出た。同じ『外に出た』という行動でも、意味が違う。
「……本当だ」
「でしょ?」
「でも、明日も出来るか分からない」
「それでいいよ」
迅は笑った。
「毎日必ず一歩進まなくてもいい。二歩進む日もあれば、三歩戻る日もあるさ」
「……」
「それでも、また歩けばいい。めげずに歩き続けることが、人生一番大切なことだよ」
そうか。前だけじゃなく、後ろに進んでいい日もあるんだ。
このとき、私はその言葉を覚えておこうと強く思った。