家に着いたのは19時だった。
昼に家を飛び出してから学校近くまで行っていたから、帰るまでとても時間がかかった。思っているより相当遠かった。
鍵は掛かっていなかった。音を立てないよう、ゆっくり玄関を開ける。
「……ただいま」
返事はなかった。靴を脱いで、リビングへ向かう。
そこにお母さんがいた。テーブルに座って、俯いている。
私に気づくと、顔を上げた。お母さんの頬には、涙のあとがあった。
私は反射的に目を逸らした。
「……おかえり」
お母さんの声は小さかった。とても弱々しい。
私は何も言えなかった。
「……ごめんね」
その言葉に、私は顔を上げた。
お母さんが泣いていた。
「お母さん……」
「さっきは……本当にごめん」
「……」
「葵依があんなに苦しんでるって、ちゃんと分かってなかった」
私は唇を噛んだ。
「お兄ちゃんと比べるのも、もうやめる」
「……」
「学校に行けって言う前に、どうして行けないのかを聞くべきだった」
お母さんの言葉を聞きながら、私は何も返せなかった。すぐに許せるほど、簡単なことではない。今日だけで、今まで受けた心の傷がなくなるわけでもない。
それでも。
「……私の方こそ、ごめん」
一言だけ言った。お母さんは首を横に振った。
「謝らなくていいよ」
「でも……」
「今は、いいの」
お母さんが少し笑った。
「今日はもう、ゆっくりしよう」
その言葉に、胸の奥が少しだけ緩んだ。
私は自分の部屋へ向かった。その勢いのまま、ベッドにダイブする。
寝転がりながら、スマートフォンを見る。すると、知らない番号からメッセージが届いていた。
『今日はちゃんと帰れた?』
私は目を見開いた。
迅だった。
「あれ?……どうして?」
どうやら駅で別れる前に、連絡先を交換していたらしい。自分でも覚えていなかった。
私は少し考えてから、
『うん。帰れた』
と送った。
すぐに返信が来る。
『よかった』
たった四文字。
それなのに、なぜか安心した。
『ありがとう』
そう送る。
少し間が空いて、
『どういたしまして』
と返ってきた。
その画面を見つめながら、私は今日のことを思い返した。
朝。
鏡を見て。
お母さんに比べられて。
一人になって。
テレビを見て。
お母さんと喧嘩して。
家を飛び出して。
知らない街を歩いて。
迅に出会った。
一日だけなのに、ずいぶん長く感じた。
窓の外は、もう暗くなっていた。
いつもの私なら、明日も同じ一日が始まると思っていただろう。
起きて。
鏡を見て。
学校のことを考えて。
怖くなって。
一人で過ごして。
また眠る。
そんな毎日。
でも、今日は違った。
明日がどうなるかは分からない。学校に行けるかも分からない。人の視線が怖くなくなるかも分からない。自分のことを好きになれるかも分からない。何もかも分からない。
それでも。
「……一個ずつ、か」
迅の言葉を思い出す。
何が怖くて、嫌だったのか。私は今まで、それを考えることすら避けていた。思い出すのが怖かったから。
でも――。
「……少しだけなら」
私は机の上にあったノートを開いた。目の前には白紙のページ。お気に入りのペンを持つ。
何を書けばいいのか分からない。
しばらく考えて、私は最初の一行を書いた。
『私が学校に行けなくなった理由。』
書いた瞬間、手が止まった。
胸が苦しくなる。やっぱり怖い。でも、ペンを置かなかった。私はゆっくりと、次の言葉を書いた。
『中学校3年生の頃。』
その文字を見つめる。
閉じていた記憶の扉が、ほんの少しだけ開いた気がした。
まだ、全部を見る勇気はない。だから今日はここまで。私はノートを閉じた。
そして、窓の外を見る。昼間とは違い、夜の街は静かだった。
誰も私を見ていない。
一人。
いつもの『ひとりのじかん』。
だけど、今日は少しだけ違った。
一人でいるのに、完全に一人ではない気がした。
スマートフォンの画面を見る。そこには、迅との短いやり取りが残っている。
私は小さく笑った。
「……やっぱり…変なの。」
そして、電気を消した。
暗闇の中で目を閉じる。
明日もきっと、簡単ではない。また鏡を見て、嫌になるかもしれない。学校のことを考えて、苦しくなるかもしれない。母とまた喧嘩するかもしれない。
それでも。
今日までの私と、明日の私は、ほんの少しだけ違う。そう思えた。
そして私は、久しぶりに、
明日というものを少しだけ待ってみようと思った。
昼に家を飛び出してから学校近くまで行っていたから、帰るまでとても時間がかかった。思っているより相当遠かった。
鍵は掛かっていなかった。音を立てないよう、ゆっくり玄関を開ける。
「……ただいま」
返事はなかった。靴を脱いで、リビングへ向かう。
そこにお母さんがいた。テーブルに座って、俯いている。
私に気づくと、顔を上げた。お母さんの頬には、涙のあとがあった。
私は反射的に目を逸らした。
「……おかえり」
お母さんの声は小さかった。とても弱々しい。
私は何も言えなかった。
「……ごめんね」
その言葉に、私は顔を上げた。
お母さんが泣いていた。
「お母さん……」
「さっきは……本当にごめん」
「……」
「葵依があんなに苦しんでるって、ちゃんと分かってなかった」
私は唇を噛んだ。
「お兄ちゃんと比べるのも、もうやめる」
「……」
「学校に行けって言う前に、どうして行けないのかを聞くべきだった」
お母さんの言葉を聞きながら、私は何も返せなかった。すぐに許せるほど、簡単なことではない。今日だけで、今まで受けた心の傷がなくなるわけでもない。
それでも。
「……私の方こそ、ごめん」
一言だけ言った。お母さんは首を横に振った。
「謝らなくていいよ」
「でも……」
「今は、いいの」
お母さんが少し笑った。
「今日はもう、ゆっくりしよう」
その言葉に、胸の奥が少しだけ緩んだ。
私は自分の部屋へ向かった。その勢いのまま、ベッドにダイブする。
寝転がりながら、スマートフォンを見る。すると、知らない番号からメッセージが届いていた。
『今日はちゃんと帰れた?』
私は目を見開いた。
迅だった。
「あれ?……どうして?」
どうやら駅で別れる前に、連絡先を交換していたらしい。自分でも覚えていなかった。
私は少し考えてから、
『うん。帰れた』
と送った。
すぐに返信が来る。
『よかった』
たった四文字。
それなのに、なぜか安心した。
『ありがとう』
そう送る。
少し間が空いて、
『どういたしまして』
と返ってきた。
その画面を見つめながら、私は今日のことを思い返した。
朝。
鏡を見て。
お母さんに比べられて。
一人になって。
テレビを見て。
お母さんと喧嘩して。
家を飛び出して。
知らない街を歩いて。
迅に出会った。
一日だけなのに、ずいぶん長く感じた。
窓の外は、もう暗くなっていた。
いつもの私なら、明日も同じ一日が始まると思っていただろう。
起きて。
鏡を見て。
学校のことを考えて。
怖くなって。
一人で過ごして。
また眠る。
そんな毎日。
でも、今日は違った。
明日がどうなるかは分からない。学校に行けるかも分からない。人の視線が怖くなくなるかも分からない。自分のことを好きになれるかも分からない。何もかも分からない。
それでも。
「……一個ずつ、か」
迅の言葉を思い出す。
何が怖くて、嫌だったのか。私は今まで、それを考えることすら避けていた。思い出すのが怖かったから。
でも――。
「……少しだけなら」
私は机の上にあったノートを開いた。目の前には白紙のページ。お気に入りのペンを持つ。
何を書けばいいのか分からない。
しばらく考えて、私は最初の一行を書いた。
『私が学校に行けなくなった理由。』
書いた瞬間、手が止まった。
胸が苦しくなる。やっぱり怖い。でも、ペンを置かなかった。私はゆっくりと、次の言葉を書いた。
『中学校3年生の頃。』
その文字を見つめる。
閉じていた記憶の扉が、ほんの少しだけ開いた気がした。
まだ、全部を見る勇気はない。だから今日はここまで。私はノートを閉じた。
そして、窓の外を見る。昼間とは違い、夜の街は静かだった。
誰も私を見ていない。
一人。
いつもの『ひとりのじかん』。
だけど、今日は少しだけ違った。
一人でいるのに、完全に一人ではない気がした。
スマートフォンの画面を見る。そこには、迅との短いやり取りが残っている。
私は小さく笑った。
「……やっぱり…変なの。」
そして、電気を消した。
暗闇の中で目を閉じる。
明日もきっと、簡単ではない。また鏡を見て、嫌になるかもしれない。学校のことを考えて、苦しくなるかもしれない。母とまた喧嘩するかもしれない。
それでも。
今日までの私と、明日の私は、ほんの少しだけ違う。そう思えた。
そして私は、久しぶりに、
明日というものを少しだけ待ってみようと思った。
