ひとりのじかん

お兄ちゃんが通学、お母さんが出社した頃、私はようやく一息つくことが出来た。昼間だが妙に薄暗い部屋に安心感を覚える。
父は東京に単身赴任している。だから、今家には私一人しかいない。
わざわざ暑苦しい外に出なくてもいい。
誰にも干渉されない。
周りに気をつかう必要もない。
ただ毎日を繰り返し過ごす日々、『ひとりのじかん』。
この状態に安心感…。
馬鹿馬鹿しい。こんな事に安堵してしまう自分が情けなく思ってくる。

『不登校』
いつからだろうか、私は学校に行かなくなった。いや、『行けなくなった』と言う方が正しい。
外に出ることも怖い。赤の他人がいる環境に吐き気もする。人が発するコトバが恐ろしい。
1人じゃないといけない気がする。それが私にとって、さらには周りとっても一番気が楽なのだ。


「……いや、まだ分からへんよ。」
「いや、絶対そうや!」
「パッケージに虎が描いてあるからって、コーンフレークとは限らないやん。もしかしたら、タイガーマスクのプロマイドかもしれないやん。」
「タイガーマスクのプロマイド、お茶碗持って腕組んでるか? そんなプロマイド売ってへんわ!」
「あははっ!」

思考を放棄したかのようにぼーっとしながらテレビを見ていた。淡々とボケてはツッコむを繰り返す漫才師達の声だけが、リビングに響く。面白いのだろう。テレビに映る人達はみんな笑っている。
…私も、この人達のようにまた心の底から笑える日が来るのだろうか。
いや、考えるだけ無駄だ。
この漫才師達が作り出す笑顔を見るのが嫌になって、私は番組を変えた。

番組を変えると、昼の情報番組が映った。
画面の中では、色とりどりの服を着た人たちが、楽しそうに笑っている。街を歩く人々。友達同士で話す学生。カフェで向かい合って笑う家族。
私はすぐにテレビを消した。
「……もう、いいや」
何が『いい』のか、自分でも分からなかった。
ただ、胸の奥に溜まっていたものが、急にあふれ出してきた。

――学校に行け。
――いつまでこうしてるの。
――みんなだって頑張ってるんだから。
―― 颯斗を見習いなさい。

頭の中に、お母さんの言葉が何度も響く。
私はぽつりと呟いた。
「死んだら、楽になるのかな。」
「何言ってんの…?」
え。
なんで?まだお昼過ぎなのに。お母さんはいつも20時は過ぎてから帰ってくるのに…。

「痛っ……!」
何が起きたのか分からなかった。
ただ、頬が熱い。
頭の中が真っ白になった。
さっきまで胸の中にあった怒りも、悲しみも、悔しさも、全部どこかへ消えてしまったようだった。
ただ、お母さんの顔だけが見える。
いつもなら、少しでも反抗的なことを言えば、すぐに言い返される。
『そんなこと言ってないで』
『もっと頑張りなさい』
『お兄ちゃんだってできてるんだから』
そんな言葉が続くと思っていた。
でも、今のお母さんは違った。
顔が青ざめている。
手が小刻みに震えている。
息遣いも荒い。
「……今の、どういう意味?なんでそんなこと言うの。簡単に言わないでよ!」
「……」
素直にごめんとも言えない。沈黙するしかなかった。
「葵依、答えて」
「……分かんない」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
「何が分かんないの?」
「全部……」
私は俯いた。
「何が嫌なのかも、どうしたいのかも……もう、分かんない」
言葉にすると、余計に苦しくなった。
「学校に行かなきゃいけないのも分かってる。お母さんが私のこと心配してるのも分かってる。お兄ちゃんが悪くないのも分かってる」
「だったら――」
お母さんが何か言いかける。
「でも!」
思わず遮ってしまった。聞きたくなかった。
「分かってはいるのに、できないの!」
声が部屋中に響いた。
自分でも驚いた。
今まで、こんな声を出したことなんてなかった。
「行こうと思ったよ……何回も」
目の奥が熱くなる。ずっと溜め込んでいたものが口から溢れ出してきた。
「朝、制服も出した。鞄も準備した。玄関まで行ったことだってある」
そこで一度、息を吸った。
「でも、靴を履いたら、気持ち悪くなるの」
喉が詰まる。
「学校のこと考えただけで、心臓が変な感じになって……足が動かなくなるの」
お母さんは黙っていた。
「それなのに……」
涙が落ちた。
「怠けてるって言われたら……私、どうすればいいの?」
お母さんの表情が固まった。
「それにさ、お兄ちゃんはできてる、お兄ちゃんは賢い、お兄ちゃんを見習えって……!何回言えば気が済むの?そんなに優秀な颯斗と不出来な私を比べたい?本当に呆れてしまう程に繰り返しちゃってさ!馬鹿みたいだなって思わないの?」
涙が頬を伝わる。
言い始めたら止まらなかった。私がお母さんを傷つけている事は、言われなくても分かっていた。
「……葵依」
「私だって、普通にできるなら普通にしたいよ」
もう止まらなかった。
「朝起きて、学校行って、友達と喋って、帰ってきて、宿題して……そういう普通の毎日を送りたかった」
言葉を重ねるほど、自分が惨めになっていく。
「でも、私にはできない」
私は自分の白い髪を握った。
「私には、普通ができない。こんな外見しているせいで……!みんなから避けられて、拒絶もされる。好きでこんな姿で生まれたわけじゃないのに!それで怖くなって、外に出られなくなって。自分でも情けないとは思ってる!」
その言葉を最後に、部屋が静まり返った。
お母さんは何も言わなかった。
私も何も言えなかった。
ただ、エアコンの音だけが聞こえていた。
しばらくして、お母さんが小さく口を開いた。
「……お母さん、そんなつもりじゃ」
「じゃあ、どんなつもりなの?」
「……」
「私を心配してるなら、どうしていつもお兄ちゃんと比べるの?」
お母さんはまた黙る。
「どうして『怠け者』なんて言うの?」
返事はない。
「どうして……私が一番言われたくないことばっかり言うの?」
自分でも分かっていた。
お母さんが全部悪いわけではない。
私を心配していることだって、本当は分かっている。
でも、それでも。
今まで溜まっていたものは、簡単には消えてくれなかった。
「……もう、知らない」
私は立ち上がった。
「ちょっと!葵依!」
お母さんの遠のく声を背中で聞きながら、玄関へ向かう。
靴を履くのももどかしくて、片方の靴を引きずるようにして外へ出た。
むっとした熱気が、身体にまとわりついてきた。
「暑……」
思わず呟く。
夏に入ってもずっと室内にいたから、暑さへの耐性が全くないと言っても過言ではない。
昼過ぎでも、真夏の太陽は容赦がなかった。
涼しい場所に行きたい。
けれど、家の中に戻る気にはなれなかった。
行き先もない。宛もない。
知っている街中も歩きたくはなかった。
おぼつかない足取りで、私はそのまま歩き出した。


結構な時間が経った。もう、自分がどこを歩いているのかも分からなくなった。
いつもなら絶対に通らない道。
見たことのない店や知らない家、知らない人達で溢れている。
怖い、とは思わなかった。それどころか、今はそれが少しだけ心地よかった。
誰も私のことを知らない。
誰も私が不登校だと知らない。
誰も、私が文武両道、成績優秀で才色兼備な颯斗の妹だと知らない。
誰も、私に何も干渉しない。ただ、その場にいる他人として見てくれる。
それだけで、少しだけ呼吸が楽になった。
「……知らない場所って、いいな」
独り言が漏れた。
誰も返事をしない。
それでいい。何とも思わない。
私はまた歩き出した。

スマホで時間を確認すると、4時に差し掛かるところだった。
「もうこんなに歩いたのか…」
結構疲れていた。周りを見渡すと、小さな公園が目に入った。ここら辺は人気が少ない。
公園で少し休もうと足を向け、狭い路地を抜けようとした時だった。
一目見ただけで分かった。県内トップの進学校だ。お兄ちゃんが通っている学校。私が、在籍している学校…。入学式の日しか行かなかった学校。

夏休みだからか、道路の向こうには制服姿の人や、そうではない学生たちが歩いている。部活だろうか。リュックがとても重そうだ。
私は反射的に目を逸らした。
学校。
その言葉だけで、胸の奥がざわつく。今は考えたくない。
そう思って歩く速度を上げた。
けれど、頭の中から学校のことは消えてくれなかった。
むしろ、今日お母さんと喧嘩してしまった事も重なり、昔のことまで蘇ってくる。
――白い。
――なんか怖くない?
――病気なの?
――触っていい?
――外国人?
――あの子、普通じゃないよね。
思い出したくない。もう終わったことだ。1年も前のことなのだから。
そう自分に言い聞かせても、頭の中では何度も同じ場面が繰り返される。
中学生だった頃。まだ学校に普通に通えていた頃。
私は、今よりずっとよく笑っていた。勉強も部活も頑張っていた。お兄ちゃんを追いかけていた事もあって、関西一の進学校に通っていた。あの時はお母さんも私のことをよく褒めてくれていた。
友達と話し、先生の面白くて分かりやすい授業を受けて、大好きな部活をして。帰り道にコンビニへ寄って、アイスを食べもした。
そんな毎日が当たり前だった。あの頃の私は、今の私を見たらどう思うだろう。
『なんで学校に行かないの?』そう聞くだろうか。
それとも、『もっと頑張ればいいのに』とか言うのだろうか。
それとも――。
『かわいそう』と同情してくるのだろうか。
どれも嫌だった。考えるだけで頭が痛くなってきた。
私は誰かに哀れまれたいわけじゃない。
助けてほしいのに、助けられるのも怖い。
一人でいたいのに、一人でいると寂しい。
近づいてほしくないのに、本当は誰かに気づいてほしい。
自分でも、面倒くさい人間だと思う。結局どうして欲しいんだろう。
「……ほんと、最悪」
呟いた瞬間。
「何が?」
「……え?」
後ろから声がした。
私はびくっと肩を震わせた。目線が合わない様に下を向き、ゆっくりと振り向く。
ここは人気のない狭い路地だから、誰も来ないと思っていたのに。
ちらっと声の主を見る。
そこには、男の子が立っていた。
年齢は私と同じくらいだろうか。
さらさらな黒髪。白い半袖ブラウスの制服。肩には小さな鞄。
そして、私をじっと見ている。
「……何?」
警戒しながら尋ねる。
「いや、急に『最悪』って聞こえたから」
「……別に」
「そっか」
男の子はそれ以上聞かなかった。
普通なら、もっと聞いてくると思っていた。でも、この人は聞かなかった。それが逆に気になった。
とりあえず狭い路地を出て、私は公園に向かって歩き出した。
「……何?」
「え?」
「なんでついてきたの?」
「ついてきてないよ」
男の子は苦笑した。
「たまたま同じ方向だっただけ」
「あ……」
恥ずかしくなって、ついつい私は目を逸らした。なんて大それた勘違いをしているんだ。
「ごめん」
「いや、謝らなくていいって」
少し沈黙が流れる。男の子は空を見上げた。
「今日、暑いな」
唐突に聞いてきた。少し間を置いて答える。
「……うん」
「溶けそう」
「……それは分かる」
思わず少しだけ笑ってしまった。
「お、笑った」
「……笑ってない」
「いや、今ちょっと笑った」
「笑ってない」
「笑ったって」
「笑ってない!」
今度ははっきり否定する。
男の子は楽しそうに笑った。
その笑い方が、なんとなく腹立たしい。ムキになり過ぎた…。
でも――嫌ではなかった。
「…変な人」
「よく言われる」
「褒めてないけど」
「知ってる」
また少しだけ、口元が緩んだ。なんだか調子が狂う。
初対面の人と喋れる事にも心底驚いていた。
「俺、迅」
「……迅?」
「そう。迅」
「変な人には勿体無い名前ね。」
「初対面でそれ言う?」
「だって― 」
「君は?」
遮ってきた。
「……なんで名前聞くの?」
「俺だけ名乗るのも変だろ」
「……葵依」
「葵依か」
迅は私の名前を一度だけ口にした。
「よろしく」
「……よろしく」
それだけの会話だった。
それなのに、不思議だった。
さっきまであんなに苦しかったのに、ほんの少しだけ呼吸が楽になっていた。

迅が公園のベンチを指差した。
「ちょっと休まない?」
「いや、大丈夫。私は平気だから。」
「顔、平気じゃないけど」
「……」
図星だった。
かれこれ3時間くらい歩き続けていたせいで、身体が重い。暑さもあって、頭がぼんやりしている。
「……少しだけ」
そう言って、私はベンチに座った。迅は少し離れて座る。
近すぎない。でも、遠すぎない。
その距離がありがたかった。
「葵依ってさ」
「何?」
「この辺住んでる?」
「……違う」
「じゃあ、どこから来たの?」
「……言いたくない」
「そっか」
それだけだった。深掘りされると思っていた。でも、迅は何も言わなかった。
「……聞かないの?」
「何を?」
「なんでここにいるのかとか」
「ああ」
迅は少し考える。
「言いたくないことなら、聞いても仕方ないじゃん」
私は黙った。その考え方が出来る事が少し羨ましかった。
お母さんも、学校の先生も、中学のクラスメイトもみんな、私の『理由』を知りたがった。
学校に行けない理由。人と話さない理由。どうしてそんなに怯えているのかという疑問。
でも、私自身にも分からなかった。だから、答えられない。
説明できないものを説明しろと言われるのが、一番苦しかった。

「……私、不登校なんだ」
気づけば、口にしていた。
迅は驚いた様子を見せなかった。
「そっか。」
「……それだけ?…何も思わないの?」
「何が?」
「不登校の理由とかさ、聞いてこないの?不真面目だね、とか言える事は色々あるじゃん。普通はさ……」
そこで言葉が止まる。
「『学校行った方がいいよ』とか」
「言われたい?」
「……嫌」
「じゃあ言わない」
あまりにもあっさりしていて、きょとんと間抜けズラをしてしまった。
「何それ」
「だって、俺が学校行けって言って、葵依が行けるならとっくに行ってるだろ」
「……まあ。確かにね。」
「じゃあ俺が言うことじゃない」
私は膝の上で手を握った。
「……学校、怖いんだ」
初めて、知らない人にそう言った。迅は何も言わなかった。静かに頷くだけだった。
私は続けた。
「人が怖い…。見られるのが嫌。話しかけられるのも怖いよ…。」
「うん」
「……私、変だよね」
「どこが?」
「だって、普通はそんなこと思わないでしょ」
迅はしばらく黙っていた。
そして、
「普通って、誰が決めるんだろうな」
と言った。
「……え?」
「みんな『普通』って言うけどさ」
迅は空を見上げた。
「普通の人なんて、実際いないんじゃない?」
私は何も言えなかった。
「葵依は、葵依の普通があるんじゃない?」
「……そんなの」
「ない?」
「分かんない」
「じゃあ、これから見つければいいじゃん」
その言葉は、不思議なくらい軽かった。迅の瞳には鮮やかな夕焼けが映っていた。
『これから』なんて言葉、久しぶりに聞いた気がした。
私はずっと、『どうしてこうなったんだろう』『何で私だけこんな目に?』そんな過去のことばかり考えていた。未来なんて、考えたこともなかった。
「……私」
声が震えた。
「中学校の頃のこと、ちゃんと考えたことない」
「中学校?」
「私が学校に行けなくなった原因」
迅は黙って聞いている。
「ずっと、忘れたことにしてた」
「忘れられなかった?」
「……うん」
私は自分の白い髪を指で弄った。
「昔は、こんなの気にしてなかった」
「こんなの?」
「この髪」
私は自嘲気味に笑った。
「小さい頃は、白いのが普通だった。家族が何も言わなかったから。」
「今は?」
「……普通じゃないって言われた」
それ以上は言えなかった。
当然かのように迅も何も聞かなかった。
ただ、
「じゃあ」
と言った。
「そこから考えてみれば?」
「……怖いよ」
「うん」
「思い出したくない」
「うん」
「それでも?」
「それでも」
迅は頷いた。
「向き合うって、別に全部一人で思い出して、一人で解決することじゃないと思う」
私は顔を上げた。迅がこっちに寄ってくる。
「……どういうこと?」
「話したいなら話せばいい。話したくないなら話さなくてもいい。でも、自分が何で苦しいのかを少しずつ知るだけで、何かが変わってくるかもしれない」
「……」
「まあ、俺も偉そうなこと言えるほど何でも分かってるわけじゃないけど」
迅は苦笑した。
「それでも、一緒に考えるくらいならできるよ」
その言葉に、胸が少しだけ熱くなった。
思わず涙が溢れた。
迅が背中に手を当ててきた。余計に込み上げてきてしまう。
「……なんで?」
「何が?」
「なんで、初対面の私に、そこまでしてくれるの?」
迅は少し考えてから、
「困ってる人がいたら、助けたいって思うだろ」
と言った。
私は思わず笑った。
「……それ、自分で言う?」
「言う」
「変なの」
「また言った」
「だって変だから」
今度は、ちゃんと笑えた。
ほんの少しだけ。
でも、確かに笑った。
それは、久しぶりのことだった。

気がつけば、夕焼けも終わりそうで、東は既に暗くなっていた。
「……帰らないと」
そう言った瞬間、胸が重くなった。
家に帰れば、お母さんがいる。また怒られるかもしれない。もしかしたら、家に入れてもらえないかもしれない。
「帰りたくない?」
迅が聞いた。私ははっきりと答えられなかった。
「……うん。そうだと…思う」
「そっか」
迅は立ち上がった。
「じゃあ、駅まで一緒に行くよ」
「いい」
「なんで?」
「……迷惑だから」
「迷惑じゃない。あと、今更だけどここら辺の土地勘もないでしょ?」
「でも…」
「葵依」
名前を呼ばれて、私は顔を上げた。
「帰るのが怖いなら、怖いって言っていいんだよ」
胸の奥が詰まった。
私は小さく頷いた。
「……怖い」
「うん」
「でも、帰らなきゃ」
「うん」
それだけだった。
何かを無理に解決してくれるわけではない。魔法みたいに学校へ行けるようにしてくれるわけでもない。
でも、隣に誰かがいて、本音を言える。それだけで、ほんの少しだけ前へ歩ける気がした。

駅へ向かう途中、私は何度も周囲を見た。
周りにたくさんの人がいるのは、やっぱり怖い。
白い髪に視線が集まっている気がする。
足がすくんでしまう。最近外に出ていない分、余計に過剰反応してしまう。
すると迅が少し前で立ち止まった。
「どうした?」
「……何でもない」
「嘘」
「……」
「戻る?」
私は首を横に振った。
「……行く」
私は一歩踏み出した。たったそれだけ。それなのに、すごく疲れた。でも―歩けた。私にとっては大きな一歩だった。

ようやく駅に着く。
「じゃあ、俺こっちだから」
迅が反対方向を指差した。
「……うん」
「また会えるかな」
「……分かんない」
「じゃあ、また会えたらいいな」
私は少し迷ってから、
「……そうだね」
と答えた。
迅は手を振って、歩いていった。私はその背中をしばらく見ていた。そして、自分のスマートフォンを見る。母から何件か着信が入っていた。メッセージもある。
『どこにいるの?』
『帰ってきて』
『話をしよう』
最後の一文を見つめる。
私はしばらく迷った。
そして、
『今から帰る』
とだけ送った。
送信ボタンを押した瞬間、心臓が大きく鳴った。
怖い。やっぱり怖い。送らなければ良かったかもしれない、とも思ってしまう。
家に帰って何があるかは分からない。ただ、腹を括って、私は駅のホームへ向かった。
迅のおかげかな。さっきまでとは違って、足取りは軽かった。