ひとりのじかん

電車を降りる。
春の海は、夏とは違う匂いがした。
少し冷たい風が吹いていて、静かな波だった。
二人で砂浜へ向かう。
「懐かしいね」
「そうだな」
高校生の頃に来て以来、大学生になってからも、何度か来た。でも、今日見る景色はいつもと少し違っていた。
「これから、どうなるんだろうね」
私が言うと、迅は少しだけ海を見た。
「分からないな」
「迅、就職するんだよね」
「うん」
「私も…」
「勤務地、少し離れるかもしれない」
「そうだね」
二人の間に、少しだけ沈黙が流れた。
大学までは同じだった。高校に引き続き同じ大学に通って、同じ時間を過ごしてきた。
だけど明日からは、それぞれが別の場所へ進んでいく。そのことが少しだけ不安だった。
「……寂しいね」
「…うん」
迅は否定しなかった。
「でも、会えなくなるわけじゃない」
「分かってる」
「連絡もするし、休みが合ったら会いに行くよ」
「うん」
私は少し笑った。視界の端がぼやけてくる。
「約束みたい」
「約束だから」
「そっか」
視線のやり場がなくて、二人で海を見る。しばらくして、迅が口を開いた。
「葵依」
「なに?」
「俺さ」
「うん」
「これから先も、こういう時間を一緒に過ごしたい」
私は迅を見る。
「こういう時間?」
「今日みたいな日とか」
迅は少し考えてから続けた。
「仕事で疲れた日も、一緒にご飯食べたり、何でもない日に、どっちかの家で映画見たり」
「うん」
「たまに喧嘩したり」
「…それは嫌」
「でも、たぶんするだろ」
「……するかも」
「それでも、仲直りしてさ」
私は黙って聞いていた。迅はずっと海を見ながら話している。
「何年経っても、こうやって葵依とくだらない話をしたい」
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
「……私も」
「ほんと?」
「うん」
「じゃあさ」
迅が私を見る。
「卒業したら、それぞれ忙しくなるけど」
…迅の顔が赤くなった。
「それでも、俺の隣……空けといて」
一瞬、意味が分からなかった。
「……隣?」
「うん」
「ずっと?」
「できれば」
迅は笑った。
「これから先、俺が帰ってきたときに、葵依がいてくれたら嬉しい」
私は何も言えなくなった。だから、少しだけ迅の隣へ近づいた。お互いの肩が触れる。
高校生の頃なら、それだけで胸がいっぱいになっていた。
でも今は、自然に隣にいられる。
「ねえ、迅」
「ん?」
「私も、隣……空けておく」
迅が少し驚いた顔をする。
「ほんと?」
「うん」
「じゃあ、俺も」
「何を?」
「葵依の隣」
私は笑った。
「もういるじゃん」
「じゃあ、これからも」
「うん」
迅は頷いて、それからポケットの中から小さな箱を取り出した。
「これ」
「……何?」
「開けてみて」
私は箱を受け取った。
蓋を開くと、中には細いチェーンのネックレスが入っていた。
小さな飾りが一つだけついている。
「……綺麗」
「後ろ向いて」
「え?」
迅がネックレスを取り出す。
「ほら」
私は少しだけ戸惑いながら、髪を前へ流した。
「これでいい?」
「うん」
首元にチェーンが触れた。少しくすぐったい。
「動かないで」
「分かってる」
小さな金具が、かちりと留まる。
「いいよ」
私は髪を戻して、胸元を見る。細いチェーンが、春の光を受けて小さく揺れていた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
私はネックレスを指先でそっと触る。
「でも、これ……」
嬉しくて、言葉がうまく出てこなかった。
迅は満面の笑みで私の顔をじっと見ていたが、しばらくしてから、自分の襟元に手をかけた。
「……?」
シャツの襟を少しだけ開くと、そこからは、細いチェーンが姿を現した。胸元で、小さな飾りが揺れる。
私は目を見開いた。
「……え?」
迅が笑う。
「気づかなかった?」
「いつから……?」
「最初から」
「嘘」
「本当」
迅は自分のネックレスを指でつまんだ。私が着けてもらったものと、同じデザイン。
「……お揃い?」
「そうだよ」
私は思わず、自分のネックレスと迅のネックレスを見比べた。
同じ形。同じ色。同じ小さな飾り。紛れもなくお揃いだった。
「やっぱり迅はずるい」
「何が?」
「最初から着けてたなら言ってよ」
「言ったら面白くないだろ」
「……だからって」
私は少しだけ頬を膨らませる。
「似合ってる」
「……迅も」
「ありがと」
私はもう一度、自分の胸元を見る。
お揃い。
その言葉だけで、なんだか胸がいっぱいになる。さっきの言葉も、頭の中に残っている。
『何年経っても、こうやって一緒にいたい。俺の隣を空けておいて。』
はっきりとは言わなかった。
でも、きっと。これは、そういう意味なんだと思う。
「迅」
「ん?」
「本当に、これからも……?冗談でもなく?約束してくれる?」
私が言葉を止めると、迅は得意げに笑った。
「もちろん」
迅はそれ以上は言わないし、私も聞かなかった。聞かなくても分かる気がした。
「……大事にする」
私はネックレスをそっと握る。
「俺も」

「……どうして、これにしたの?」
しばらくしてから私は訊いた。
「葵依に似てると思ったから」
「私に?」
「うん」
意味が分からなくて、私は首を傾げる。
「これ、一見するとただの細いネックレスだろ」
「うん」
「でも、ちゃんと繋がってる」
私はチェーンを見る。
細い金属の一つ一つが、途切れることなく繋がっている。
「高校の頃の葵依ってさ」
迅がゆっくり話し始める。
「一人でいる時間をすごく大切にしてた」
私は黙って聞く。
「誰にも会わない時間とか、一人で過ごす時間とか。そういう時間が、葵依にとって必要だったんだと思う」
「……うん」
「だから、今でも俺はそれをなくしたくはない」
意外な言葉だった。
「え?」
「葵依が一人でいたいときは、一人でいていいと思ってる」
迅は笑った。
「俺と付き合ってるからって、ずっと一緒にいる必要なんてないし」
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
「でも」
迅が自分のネックレスを指先でつまむ。
「離れてるからって、繋がりまでなくなるわけじゃないだろ」
私は自分のネックレスを見る。
「……だから?」
「うん」
迅は頷いた。
「一人の時間も大切にできる。でも、帰ってきたいと思ったときには、ちゃんと隣にいるよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に何かが広がった。

海風が吹く。
桜の花びらが、一枚だけ海へ向かって飛んでいった。私はそれを目で追いながら、迅の隣に立つ。
桜の季節が終われば、夏が来る。夏が過ぎれば秋が来て、冬が来る。
季節はこれからも変わっていくし、私たちも、きっと変わっていく。
仕事を始めれば、今までとは違う毎日になる。
知らない人と出会って、知らない場所へ行って、今まで知らなかったことをたくさん経験する。
もしかしたら、思い通りにならないこともある。
それでも、私はもう、未来を怖がってはいなかった。
高校生の頃の私は、今日という日を知らなかった。
大学を卒業する自分も。迅と一緒に海を見ている自分も。その先の未来を、少しだけ楽しみにしている自分も。
全部、知らなかった。
でも、それでいい。
未来は、最初から全部分かっている必要なんてない。
一歩ずつ進んでいけばいい。
一人の時間も大切にしながら、誰かと過ごす時間も大切にする。
私は、迅の隣を歩いていく。
「帰ろうか」
迅が言う。
「うん」
砂浜を歩き出す。けれど、少し歩いてから、私は立ち止まった。
「迅」
「ん?」
「……これからもよろしくね」
迅は一瞬だけ目を丸くした。それから、いつものように笑った。
「こちらこそ」
胸元には、同じネックレス。
それは、言葉にしなかった約束みたいに、歩くたびに小さく揺れていた。

卒業の日。
私たちの大学生活は終わった。
でも、たぶん。
私たちの時間は、まだ始まったばかりだったんだ。