翌朝。
目が覚めた後、私はしばらく天井を見つめていた。
昨日のことを思い出していた。
学校へ行って、迅の教室……。私自身の教室に入った。
二時間だけだったけれど、授業を受けた。
その間、隣には迅がいてくれた。
「……なんでついていったのかなぁ」
小さく呟く。
昨日まで、学校は私にとって遠い場所だった。実際に戻る事なんて、考えられなかった。
なのに今は、学校そのものよりも、昨日の教室にいた迅の姿を思い出している。
制服姿。笑った顔。授業中にちらちら目が合ったこと。帰り際、先生に向かって言った言葉。
『葵依ともう帰ります!』
思い出した瞬間、頬が少し熱くなった。
「……なんであんなこと言うのよ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
昨日は、帰ってからも何度か思い出していた。
先生の驚いた顔や、教室にいた人たちの視線。今まで空席だった自分の席。そして、一部始終ずっと隣にいた迅。
学校に行ったこと自体、とても大きなことだった。でも、私の頭の中に残っているのは、どうしても迅のことだった。
それが少し不思議だった。学校はあんなに怖かったのに、学校という言葉で一番最初に思い浮かぶのが、迅の顔だった。
私は布団の中で小さく息を吐いた。
「……どうしてなの?」
そのとき、枕元のスマートフォンが震えた。
私は反射的に手を伸ばし、画面を見る。
やっぱり迅からだった。
『おはよう』
たった四文字なのに、とても嬉しく感じた。
私は少しだけ口元を緩めて、
『おはよう』
と返した。
すぐに既読がつく。
『今日、時間ある?』
私は画面を見つめた。
時間ならある。というより、今日は朝から何となく、迅に会いたいと思っていた。
その気持ちに気づいて、少し戸惑う。
昨日までは、こんなことを考えたことはなかった。
誰かと会う予定があるから朝が楽しみになるなんて。誰かからのメッセージを待つなんて。
『あるよ』
送る。
少しして、返信が来た。
『じゃあ、昼から会おう』
『どこで?』
少し間があって、
『いつものところまで来て』
と返ってきた。
『いつものところ』
その言葉が、なんだか嬉しかった。
「……いつもの、か」
私たちには、いつの間にか「いつもの場所」ができていた。
学校とは関係のない場所。誰にも知られていない場所。
私達がよく待ち合わせをしている場所。原点としていつも通る場所。
その場所から少しずつ、私たちはいろいろな場所へ行った。
海に行った。くだらない話をした。何も話さない時間もあった。
そして私は、その時間が嫌ではなかった。むしろ、楽しみにしていた。
スマートフォンを置く。すると、ふと気づいた。
私は昨日から、何度も迅からのメッセージを待っている。
朝起きたとき。授業のあと。家に帰ったとき。寝る前。
ほとんど四六時中とも言っていいほどに。
以前の私は、一人でいることが一番安心できた。
誰とも関わらなければ、傷つくこともないと思っていた。
でも今は?
もちろん、一人の時間は好きだ。
けど……。一人じゃない時間も、少し好きになっていた。
その理由を考える。
すぐに、一人の顔が浮かぶ。
――迅。
「……!」
私は枕に顔を埋めた。
「……なんで」
答えは分からない。
いや、本当は、少しだけ分かっている気がした。
ただ、その気持ちにまだ名前をつけることができなかった。
昼過ぎに、私は家を出た。
昨日よりも、外へ出ることに慣れている気がした。
まだ視線は気になるし、少しだが怖いとも思う。
でも、前ほど足は止まらなかった。
駅へ向かい、約束した場所へ近づく。
遠くに、迅の姿が見えた。
胸の奥が、ほんの少し軽くなる。
昨日の朝も、今朝も、迅に会えるかどうかを考えていた。
そして今、実際に迅を見つけたら安心した。
私はそのことに気づいて、少しだけ不思議な気持ちになった。
「葵依」
迅がこちらに気づいて手を上げた。
「……待った?」
「いや、今来たところ」
「そう」
私は迅の隣に立つ。
「今日、どこ行くの?」
「決めてない」
「え?」
「たまには決めずに歩いてみようかなって」
「……珍しい」
「そう?」
「いつも迅が勝手に決めるじゃん」
「勝手にって言うなよー!葵依にとっては感謝の念の方が大きいだろ?」
迅が笑う。私も笑った。
こういうの、妙に安心する。
私たちは並んで歩き始めた。駅前を抜けて、少し人の少ない道へ入る。
しばらく歩いていると、迅が口を開いた。
「昨日さ」
「うん?」
「学校、どうだった?」
私は少し考える。
「……怖かった」
「うん」
「教室に入るとき、すごく緊張した。誰もいなかったのに」
「そうだよな」
「足は先に帰りたがってた」
「でも入ったじゃん」
「……うん」
「それなら十分だよ」
「そうかな」
「そうだよ」
迅は、それ以上何も言わなかった。
日付を跨いだら、『すごい』とも言わない。『もう大丈夫だね』とも言わない。
ただ、私が昨日どんな気持ちだったのかを聞いてくれる。そっちの方が、私にとっては嬉しい。
「先生も普通だったよね」
「うん。あれが通常運転だな」
「クラスの人たちも、別に何もしてこなかった」
「それならよかった」
「二時間だけだったけど」
「二時間も行ったんだろ」
私は少しだけ笑った。
「……そうだね」
そのとき気づいた。私は『できたこと』を話す事への抵抗がなくなっていた。
以前なら、自分が学校へ行けなかったことを知られるのさえ嫌だった。自分の事は、他人の前では徹底的して言わなかった。
でも迅には、昨日できたことを聞いてほしいと思った。
「迅」
「ん?」
「昨日……ありがとう」
「何が?」
「学校」
迅は少し考えてから、
「俺、何もしてないけど」
と言った。
「したよ」
「してない」
「したってば!」
私が言い切ると、迅が笑った。
「じゃあ、どういたしまして?」
「……うん」
歩きながら、私は少しだけ俯いた。
本当は、学校へ行けたことだけじゃなかった。
教室に入るとき、迅がいた。休み時間や授業中にも目が合った。帰るときも、一緒だった。
もし迅がいなかったら、私は昨日、教室のドアを開けられただろうか。
そう考えると、少しだけ分からなくなる。
「ねえ」
「ん?」
「迅って、なんで私にそんなに付き合ってくれるの?」
迅の足が、少しだけゆっくりになる。
「そんなにって?」
「学校に行ったり」
「うん」
「海に行ったり、私が何か言うと、ずっと聞いてくれたり」
迅はすぐには答えなかった。少し考えているようだった。
「……最初は、本当に何となくだった」
「何となく?」
「うん」
「最初に会ったとき、葵依がすごく、人間に対して嫌そうな顔してたから」
私は黙って聞いていた。
「何があったのかは知らなかったけど、なんとなく放っておけなかった」
「……そっか」
「でも」
迅が少し笑う。
「話していくうちに、それだけじゃなくなった」
「それだけじゃない?」
「うん」
「じゃあ、何?」
迅は前を向いたまま言った。
「葵依と話すのが普通になった」
「普通……」
「うん。会ったら話すし、何かあったら連絡するし」
「……」
「気づいたら、それが楽しみになってた」
胸の奥が、小さく跳ねた。
「……楽しい?」
「うん」
「私と?」
「他に誰がいるんだよ」
「……そうだけど」
私は視線を逸らした。
「葵依は?」
「……何が?」
「俺といるの、楽しい?」
私はすぐには答えられなかった。
楽しい。もちろん、楽しいよ。
でも、それだけではなかった。
一緒にいると安心する。怖い場所でも、迅がいると少しだけ平気になる。何かあったとき、話したくなる。メッセージが届くと嬉しい。会えると、もっと嬉しい。
そして、会えない日は、少し寂しい。
そこまで考えて、私は足を止めた。
「……私」
「ん?」
「迅に会うの、楽しみになってる」
言ってしまった。
自分で言ってから、急に恥ずかしくなった。
迅も少し驚いた顔をしている。
「……そっか」
「うん」
「俺も」
「……え?」
「俺も、葵依に会うの楽しみ」
その言葉だけで、胸がいっぱいになる。
私は何も言えずに前を向いた。
顔が熱い。
「……暑いね」
「今日そんな暑くないけど」
「……そういうことじゃない」
「じゃあ何?」
「……知らないし」
迅が笑った。私は少しだけ睨む。でも、私の方こそ思いっきり笑っていた。
それからしばらく、私たちは何でもない話をしながら歩いた。
最近見たものとか、学校であったことや、昨日の授業で先生が少し変なことを言っていたことなどの、本当にどうでもいい話。
そのどうでもいい話が、やっぱり面白くて、私は好きだった。
昔は、誰かと話すことにいつも意味が必要だと思っていた。
何を話せば嫌われないのか?どんな言葉なら変に思われないのか?そんなことばかり考えていた。
でも迅とは、そうじゃなかった。
思いついたことを話せる。くだらないことで笑える。黙っていても気まずくない。
会話文を毎度のように考えなくてよくなった。
それからは、少しだけ自分の荷が軽くなった気がした。
不思議なくらい心地よかった。
「葵依」
「なに?」
「最近、よく笑うようになったな」
私は少し驚いた。
「……そう?」
「うん」
「自分じゃ分からないや」
「俺は分かる」
その言葉に、胸が少しだけくすぐったくなる。
「迅って、そういうのよく見てるよね」
「案外そうでもないかもよ?」
「……既に十分すぎるくらい些細なことに気付いてくれてるよ」
「葵依のことだからじゃない?」
「……え?」
迅は何でもないような顔をしていた。
私は、その言葉を何度も頭の中で繰り返した。
顔が熱を持っているのがわかる。
『葵依のことだから』
その一言が、妙に嬉しかった。思わず口角をあげてしまいそうになる。そして同時に、また、胸が少しだけ騒がしくなった。
坂道を抜けると、海が見えてきた。
以前、迅が連れてきてくれた場所だった。
人の少ない砂浜。その先には岩場があって、波が静かに寄せては返している。
「ここ?」
「うん」
迅が砂浜へ降りる。私も後をついていく。
「懐かしい」
「まだそんなに経ってないけどな」
「でも、最初に来たときとは違うじゃん?」
「何が?」
私は海の向こうの水平線を見つめながら言った。
「私が」
迅は黙った。
「最初は、何もかもが嫌だった」
「……」
「外に出るのも嫌だったし、人に会うのも嫌だった」
「……」
「自分のことも、嫌いだった」
迅は黙って聞いてくれた。
「でも」
私は少しだけ笑う。
「今は、ここに来るのが楽しみ」
「……そっか」
「それに、昨日学校にも行けた」
「うん」
「まだ怖いけど……。もう、ずっと一人じゃなくてもいいのかもしれないって思った」
迅が私を見る。
「それなら、よかった」
「うん」
波の音がする。顔に向かって風が吹く。湿気のせいで、髪の毛はもうぐちゃぐちゃだ。
私は砂浜に座った。
迅も少し離れたところに座る。
しばらく二人とも何も話さなかった。
でも、その沈黙は嫌じゃなかった。
むしろ心地よかった。
私は海を眺めながら、最近のことを思い返していた。
少し前まで。
私は、一人でいることを望んでいた。
誰にも会いたくなかった。
誰にも自分を見られたくなかった。
今は、誰かに会いたいと思う日がある。
その「誰か」は、一人しかいなかった。
「ねえ、迅」
「ん?」
「私、最近変なの」
「どういう意味?」
「迅からメッセージが来ると嬉しい」
「
「来ないと、ちょっと気になる」
「
「会う約束があると、朝から楽しみになる」
「」
「学校でも、迅がどこにいるか気になった」
「……
私はそこで口を閉じた。
言ってしまってから、恥ずかしくなる。
でも、迅は笑わなかった。
からかいもしなかった。
ただ、静かに私の話を聞いていた。
「……なんでだと思う?」
私は聞いた。
迅は少し考えた。
「俺に聞く?」
「分からないから」
「……俺は」
迅が海を見る。
「分かってる」
「え?」
「たぶん」
「何が?」
迅は少し困ったように笑った。
「俺も、葵依と同じだから」
胸が大きく鳴った。
「……同じ?」
「うん」
「どういうこと?」
「葵依が俺のこと気にしてるのと同じように、俺も葵依のこと気にしてる」
「……」
「朝、連絡がないと、どうしたのかなって思う」
「
「学校に来てると、ちょっと安心する」
「…
「逆に、いないと少し気になる」
私は顔を上げた。
「……迅も?」
「うん」
「どうして?」
「それが、俺にもよく分からなかった」
迅は少し笑った。
「最初は心配だからだと思ってた」
「うん」
「でも、最近はそれだけじゃないって思う」
「……」
「葵依が誰かと話してると、ちょっと気になるし」
「……え?」
「楽しそうにしてると、嬉しいけど」
「うん」
「なんか、自分もそこにいたいって思う」
私は何も言えなかった。
胸の奥が、どんどん熱くなっていく。
迅が海へ視線を戻す。
「だからたぶん」
少し間を置いて。
「俺にとって、葵依はもう普通の友達とは違うんだと思う」
その言葉に、胸が大きく跳ねた。
普通の友達とは違う。
私も、そう思っていた。
でも。
それが何なのかは分からなかった。
「……私も」
小さく呟く。
「ん?」
「迅は、普通じゃない」
迅がこちらを見る。
「どういう意味?」
「分からない」
私は海を見る。
「でも……」
少し考えてから、言葉を続ける。
「迅がいないと、ちょっと寂しい」
言った瞬間、自分で驚いた。
こんなこと、今まで誰にも言ったことがなかった。
迅も少し驚いた顔をしていた。
「……そっか」
「うん」
「俺も」
また、その言葉。
胸が熱くなる。
私は自分の気持ちを考えた。
迅に会いたい。
話したい。
メッセージがほしい。
学校にいるなら、姿を見つけたい。
何かあれば伝えたい。
そして。
できるなら、これからも一緒にいたい。
そこまで考えて、ようやく、少しだけ分かった。
私は迅のことを、ただ「気になる人」として見ているわけじゃない。
もっと大切な存在になっている。
でも、その気持ちに名前をつけるのが、少し怖かった。
名前をつけてしまったら、何かが変わってしまいそうだった。
「葵依」
「なに?」
「ちょっと歩かない?」
「うん」
二人で立ち上がった。
海から少し離れた道を歩く。
夕方の光が、街を少しずつオレンジ色に染めていく。
しばらくして、小さなベンチが見えた。
迅がそこに座る。
私はその隣に座った。
いつもより少し近い。
でも、今日は、離れようとは思わなかった。
「葵依」
「なに?」
「俺さ」
迅が前を向いたまま話し始める。
「最初に会ったときは、本当にただ気になっただけだった」
「……
「何があったのか分からなくて」
「」
「でも、何度も話して」
迅は少し笑った。
「葵依が笑うと、俺も嬉しくなった」
私は黙って聞いていた。
「葵依が外に出られたって聞くと嬉しかった」
「……」
「学校に行ったって聞いたら、もっと嬉しいと思った」
「……うん」
「でも最近は、それだけじゃなくなった」
迅が一度、息を吐く。
「葵依が何かできたら、自分のことみたいに嬉しい」
「……」
「葵依が落ち込んでたら、気になる」
「……」
「会えない日は、少しつまらない」
私は少しだけ笑った。
「それ、私と同じ」
「うん」
迅も笑う。
「だから、たぶん俺はもう分かってる」
「……何が?」
迅が私を見る。
「葵依のことが、好きなんだと思う」
時間が止まったように感じた。
「……好き」
その言葉を、私は頭の中で繰り返した。
怖い言葉でもなかった。嫌な言葉でもなかった。
自分の静寂が漂っていた胸の奥に、ゆっくり広がっていく。
嬉しい。
その感情が、一番近かった。
私は俯いた。
「……葵依?」
「……ごめん」
「え?」
「ちょっと待って」
自分でもどうしていいのか分からなかった。
涙が出るわけじゃない。
悲しいわけでもない。
ただ、嬉しくて。
今までずっと、自分のことを否定する言葉ばかり聞いてきた。
「普通じゃない」
「変だ」
「どうしてそんなふうなの」
そんな言葉ばかりだった。
自分の白い髪も。
白い肌も。
白い瞳も。
全部、嫌いになろうとしていた。
でも、迅は違った。
私を変えようとしなかった。
無理に外へ連れ出そうともしなかった。
学校へ行けないことを責めることもしなかった。
ただ、隣にいてくれた。
笑ってくれた。
私が少し前に進めたとき、一緒に喜んでくれた。
そして今、私自身を見て、好きだと言ってくれた。
「……私」
やっと声が出た。
「うん」
「私も、迅のこと……」
言葉が詰まる。
顔が熱い。
心臓がうるさい。
でも、もう逃げたくなかった。
「好きだよ」
言った。
今度は、はっきりと。
迅の目が少し大きくなる。
「……本当に?」
「うん」
私は頷いた。
「私も、いつからか分からないけど」
少しだけ笑う。
「迅に会いたいって思うようになった」
迅は黙って私を見ている。
「メッセージが来たら嬉しくて」
「
「来ないと、ちょっと寂しくて」
「
「会えるって分かったら、楽しみで」
「
「学校にいるときも、迅のこと探してた」
「……俺も」
「それに……」
私は少しだけ息を吸った。
「迅に、私のことをもっと知ってほしいって思うようになった」
迅が少し驚いた顔をした。
「もっと?」
「うん」
「どうして?」
「分からないけど……」
私は少しだけ笑った。
「私のことを知っても、嫌いにならないでほしいって思う」
迅はしばらく黙っていた。
そして、優しく笑った。
「ならないよ」
その言葉が、胸の奥に残った。
「だから……」
私は続けた。
「たぶん、私もずっと迅のことが好きだったんだと思う」
迅が笑った。
いつもの笑顔だった。
でも今日は、少しだけ違って見えた。
「……よかった」
「うん」
「断られたらどうしようかと思ってた」
「私も」
「なんで葵依が?」
「だって……」
私は少し笑う。
「迅に嫌われたくなかったから」
「俺も」
「……そっか」
二人で笑った。
しばらく、何も言わなかった。
でも、さっきまでの沈黙とは違う。
どこかくすぐったくて。
でも、嫌じゃなかった。
むしろ。
今までよりも近く感じた。
「なんか」
私が言う。
「変な感じ」
「何が?」
「昨日までと同じ場所なのに、全然違って見える」
迅も海を見る。
「俺も」
「今日から、どうすればいいんだろう」
「どうすればって?」
「……分からない」
迅が少し笑う。
「俺も分からない」
「じゃあ、同じだね」
「うん」
その返事が、なんだか嬉しかった。
急に何かが変わるわけじゃない。
今日まで一緒に歩いて、話して、笑ってきた。
明日もきっと、それは変わらない。
ただ。
そこに一つだけ、新しい気持ちが加わった。
私はそのことを、まだ少し恥ずかしく思いながらも、嬉しく感じていた。
「これから」
迅が言った。
「どうする?」
「どうするって?」
「学校」
私は少し考えた。
「毎日行けるかは、まだ分からない」
「うん」
「怖い日もあると思う」
「うん」
「また行けなくなるかもしれない」
迅は何度も頷いた。
「でも」
私は続けた。
「少しずつでいいなら」
「うん」
「行ってみたい」
迅が笑う。
「じゃあ、明日は?」
「……二時間」
「二時間?」
「昨日と同じ」
「分かった」
「それ以上は、明日考える」
「それでいい」
私は少し笑った。
「迅は?」
「俺?」
「明日も学校にいる?」
「いるよ」
「……そっか」
それだけで安心した。
私は立ち上がった。
「帰ろう」
「うん」
二人で歩き出す。
夕方の道を並んで歩く。
昨日までなら、ただ隣にいるだけだった。
でも今日は違う。
迅が私のことを好きだと知っている。
私も、迅のことが好きだと伝えた。
それだけなのに。
世界が少しだけ変わったような気がした。
駅が近づいてくる。
「じゃあ、また明日」
迅が言う。
「うん」
私は頷く。
少し歩いてから、私は足を止めた。
「……迅」
「ん?」
私は振り返った。
「明日も、会えるよね」
迅は笑った。
「会えるよ」
「……よかった」
「葵依」
「なに?」
「これからも、ちゃんと隣にいるから」
その言葉を聞いて、私は少しだけ笑った。
「……うん」
家へ帰る道。
私は一人で歩いていた。
でも、もう、前みたいな「ひとり」ではなかった。
私はスマートフォンを取り出す。
画面には、さっき迅から届いたメッセージが残っている。
『また明日』
私はその文字を見つめて、小さく笑った。
そして、返信する。
『また明日』
送信したあと、胸の奥が、ほんの少し温かくなった。
私はまだ、完全に変わったわけじゃない。
学校が怖い日もある。
外へ出るのが嫌になる日もあるし、過去の言葉に傷つくこともある。
それでも、私には、明日がある。
会いたいと思える人がいる。話したいと思える人がいる。
そして。
一人でいた時間を、少しずつ誰かと分けていけるようになった。
「ひとりのじかん」は、私を守ってくれた。
でも…。
ずっと一人でいなければならないわけじゃない。
一人でいることと、誰かを大切にすることは、両立できる。
そう教えてくれたのは、迅だった。
私は空を見上げる。
夜になりかけた空に、月が浮かんでいた。
少し前まで、夜は一人の時間だった。
誰にも会わず。誰にも話しかけられず。静かな部屋で、ただ時間が過ぎていくのを待っていた。
でも今は、明日が待ち遠しい。
また迅に会える。
また話せる。
また、くだらないことで笑える。
そんな小さな楽しみが、私の中に増えていた。
「……明日も晴れるかな」
小さく呟く。
答える人はいない。
それでも。
なぜか、寂しくなかった。
私は歩き続けた。
明日、迅に会うために。
そして、これからの自分に、少しずつ会うために。
胸の中に生まれた気持ちに、私はようやく名前をつけることができた。
それは、「好き」という、少し照れくさく
でも、今まで知らなかったくらい温かい言葉だった。
目が覚めた後、私はしばらく天井を見つめていた。
昨日のことを思い出していた。
学校へ行って、迅の教室……。私自身の教室に入った。
二時間だけだったけれど、授業を受けた。
その間、隣には迅がいてくれた。
「……なんでついていったのかなぁ」
小さく呟く。
昨日まで、学校は私にとって遠い場所だった。実際に戻る事なんて、考えられなかった。
なのに今は、学校そのものよりも、昨日の教室にいた迅の姿を思い出している。
制服姿。笑った顔。授業中にちらちら目が合ったこと。帰り際、先生に向かって言った言葉。
『葵依ともう帰ります!』
思い出した瞬間、頬が少し熱くなった。
「……なんであんなこと言うのよ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
昨日は、帰ってからも何度か思い出していた。
先生の驚いた顔や、教室にいた人たちの視線。今まで空席だった自分の席。そして、一部始終ずっと隣にいた迅。
学校に行ったこと自体、とても大きなことだった。でも、私の頭の中に残っているのは、どうしても迅のことだった。
それが少し不思議だった。学校はあんなに怖かったのに、学校という言葉で一番最初に思い浮かぶのが、迅の顔だった。
私は布団の中で小さく息を吐いた。
「……どうしてなの?」
そのとき、枕元のスマートフォンが震えた。
私は反射的に手を伸ばし、画面を見る。
やっぱり迅からだった。
『おはよう』
たった四文字なのに、とても嬉しく感じた。
私は少しだけ口元を緩めて、
『おはよう』
と返した。
すぐに既読がつく。
『今日、時間ある?』
私は画面を見つめた。
時間ならある。というより、今日は朝から何となく、迅に会いたいと思っていた。
その気持ちに気づいて、少し戸惑う。
昨日までは、こんなことを考えたことはなかった。
誰かと会う予定があるから朝が楽しみになるなんて。誰かからのメッセージを待つなんて。
『あるよ』
送る。
少しして、返信が来た。
『じゃあ、昼から会おう』
『どこで?』
少し間があって、
『いつものところまで来て』
と返ってきた。
『いつものところ』
その言葉が、なんだか嬉しかった。
「……いつもの、か」
私たちには、いつの間にか「いつもの場所」ができていた。
学校とは関係のない場所。誰にも知られていない場所。
私達がよく待ち合わせをしている場所。原点としていつも通る場所。
その場所から少しずつ、私たちはいろいろな場所へ行った。
海に行った。くだらない話をした。何も話さない時間もあった。
そして私は、その時間が嫌ではなかった。むしろ、楽しみにしていた。
スマートフォンを置く。すると、ふと気づいた。
私は昨日から、何度も迅からのメッセージを待っている。
朝起きたとき。授業のあと。家に帰ったとき。寝る前。
ほとんど四六時中とも言っていいほどに。
以前の私は、一人でいることが一番安心できた。
誰とも関わらなければ、傷つくこともないと思っていた。
でも今は?
もちろん、一人の時間は好きだ。
けど……。一人じゃない時間も、少し好きになっていた。
その理由を考える。
すぐに、一人の顔が浮かぶ。
――迅。
「……!」
私は枕に顔を埋めた。
「……なんで」
答えは分からない。
いや、本当は、少しだけ分かっている気がした。
ただ、その気持ちにまだ名前をつけることができなかった。
昼過ぎに、私は家を出た。
昨日よりも、外へ出ることに慣れている気がした。
まだ視線は気になるし、少しだが怖いとも思う。
でも、前ほど足は止まらなかった。
駅へ向かい、約束した場所へ近づく。
遠くに、迅の姿が見えた。
胸の奥が、ほんの少し軽くなる。
昨日の朝も、今朝も、迅に会えるかどうかを考えていた。
そして今、実際に迅を見つけたら安心した。
私はそのことに気づいて、少しだけ不思議な気持ちになった。
「葵依」
迅がこちらに気づいて手を上げた。
「……待った?」
「いや、今来たところ」
「そう」
私は迅の隣に立つ。
「今日、どこ行くの?」
「決めてない」
「え?」
「たまには決めずに歩いてみようかなって」
「……珍しい」
「そう?」
「いつも迅が勝手に決めるじゃん」
「勝手にって言うなよー!葵依にとっては感謝の念の方が大きいだろ?」
迅が笑う。私も笑った。
こういうの、妙に安心する。
私たちは並んで歩き始めた。駅前を抜けて、少し人の少ない道へ入る。
しばらく歩いていると、迅が口を開いた。
「昨日さ」
「うん?」
「学校、どうだった?」
私は少し考える。
「……怖かった」
「うん」
「教室に入るとき、すごく緊張した。誰もいなかったのに」
「そうだよな」
「足は先に帰りたがってた」
「でも入ったじゃん」
「……うん」
「それなら十分だよ」
「そうかな」
「そうだよ」
迅は、それ以上何も言わなかった。
日付を跨いだら、『すごい』とも言わない。『もう大丈夫だね』とも言わない。
ただ、私が昨日どんな気持ちだったのかを聞いてくれる。そっちの方が、私にとっては嬉しい。
「先生も普通だったよね」
「うん。あれが通常運転だな」
「クラスの人たちも、別に何もしてこなかった」
「それならよかった」
「二時間だけだったけど」
「二時間も行ったんだろ」
私は少しだけ笑った。
「……そうだね」
そのとき気づいた。私は『できたこと』を話す事への抵抗がなくなっていた。
以前なら、自分が学校へ行けなかったことを知られるのさえ嫌だった。自分の事は、他人の前では徹底的して言わなかった。
でも迅には、昨日できたことを聞いてほしいと思った。
「迅」
「ん?」
「昨日……ありがとう」
「何が?」
「学校」
迅は少し考えてから、
「俺、何もしてないけど」
と言った。
「したよ」
「してない」
「したってば!」
私が言い切ると、迅が笑った。
「じゃあ、どういたしまして?」
「……うん」
歩きながら、私は少しだけ俯いた。
本当は、学校へ行けたことだけじゃなかった。
教室に入るとき、迅がいた。休み時間や授業中にも目が合った。帰るときも、一緒だった。
もし迅がいなかったら、私は昨日、教室のドアを開けられただろうか。
そう考えると、少しだけ分からなくなる。
「ねえ」
「ん?」
「迅って、なんで私にそんなに付き合ってくれるの?」
迅の足が、少しだけゆっくりになる。
「そんなにって?」
「学校に行ったり」
「うん」
「海に行ったり、私が何か言うと、ずっと聞いてくれたり」
迅はすぐには答えなかった。少し考えているようだった。
「……最初は、本当に何となくだった」
「何となく?」
「うん」
「最初に会ったとき、葵依がすごく、人間に対して嫌そうな顔してたから」
私は黙って聞いていた。
「何があったのかは知らなかったけど、なんとなく放っておけなかった」
「……そっか」
「でも」
迅が少し笑う。
「話していくうちに、それだけじゃなくなった」
「それだけじゃない?」
「うん」
「じゃあ、何?」
迅は前を向いたまま言った。
「葵依と話すのが普通になった」
「普通……」
「うん。会ったら話すし、何かあったら連絡するし」
「……」
「気づいたら、それが楽しみになってた」
胸の奥が、小さく跳ねた。
「……楽しい?」
「うん」
「私と?」
「他に誰がいるんだよ」
「……そうだけど」
私は視線を逸らした。
「葵依は?」
「……何が?」
「俺といるの、楽しい?」
私はすぐには答えられなかった。
楽しい。もちろん、楽しいよ。
でも、それだけではなかった。
一緒にいると安心する。怖い場所でも、迅がいると少しだけ平気になる。何かあったとき、話したくなる。メッセージが届くと嬉しい。会えると、もっと嬉しい。
そして、会えない日は、少し寂しい。
そこまで考えて、私は足を止めた。
「……私」
「ん?」
「迅に会うの、楽しみになってる」
言ってしまった。
自分で言ってから、急に恥ずかしくなった。
迅も少し驚いた顔をしている。
「……そっか」
「うん」
「俺も」
「……え?」
「俺も、葵依に会うの楽しみ」
その言葉だけで、胸がいっぱいになる。
私は何も言えずに前を向いた。
顔が熱い。
「……暑いね」
「今日そんな暑くないけど」
「……そういうことじゃない」
「じゃあ何?」
「……知らないし」
迅が笑った。私は少しだけ睨む。でも、私の方こそ思いっきり笑っていた。
それからしばらく、私たちは何でもない話をしながら歩いた。
最近見たものとか、学校であったことや、昨日の授業で先生が少し変なことを言っていたことなどの、本当にどうでもいい話。
そのどうでもいい話が、やっぱり面白くて、私は好きだった。
昔は、誰かと話すことにいつも意味が必要だと思っていた。
何を話せば嫌われないのか?どんな言葉なら変に思われないのか?そんなことばかり考えていた。
でも迅とは、そうじゃなかった。
思いついたことを話せる。くだらないことで笑える。黙っていても気まずくない。
会話文を毎度のように考えなくてよくなった。
それからは、少しだけ自分の荷が軽くなった気がした。
不思議なくらい心地よかった。
「葵依」
「なに?」
「最近、よく笑うようになったな」
私は少し驚いた。
「……そう?」
「うん」
「自分じゃ分からないや」
「俺は分かる」
その言葉に、胸が少しだけくすぐったくなる。
「迅って、そういうのよく見てるよね」
「案外そうでもないかもよ?」
「……既に十分すぎるくらい些細なことに気付いてくれてるよ」
「葵依のことだからじゃない?」
「……え?」
迅は何でもないような顔をしていた。
私は、その言葉を何度も頭の中で繰り返した。
顔が熱を持っているのがわかる。
『葵依のことだから』
その一言が、妙に嬉しかった。思わず口角をあげてしまいそうになる。そして同時に、また、胸が少しだけ騒がしくなった。
坂道を抜けると、海が見えてきた。
以前、迅が連れてきてくれた場所だった。
人の少ない砂浜。その先には岩場があって、波が静かに寄せては返している。
「ここ?」
「うん」
迅が砂浜へ降りる。私も後をついていく。
「懐かしい」
「まだそんなに経ってないけどな」
「でも、最初に来たときとは違うじゃん?」
「何が?」
私は海の向こうの水平線を見つめながら言った。
「私が」
迅は黙った。
「最初は、何もかもが嫌だった」
「……」
「外に出るのも嫌だったし、人に会うのも嫌だった」
「……」
「自分のことも、嫌いだった」
迅は黙って聞いてくれた。
「でも」
私は少しだけ笑う。
「今は、ここに来るのが楽しみ」
「……そっか」
「それに、昨日学校にも行けた」
「うん」
「まだ怖いけど……。もう、ずっと一人じゃなくてもいいのかもしれないって思った」
迅が私を見る。
「それなら、よかった」
「うん」
波の音がする。顔に向かって風が吹く。湿気のせいで、髪の毛はもうぐちゃぐちゃだ。
私は砂浜に座った。
迅も少し離れたところに座る。
しばらく二人とも何も話さなかった。
でも、その沈黙は嫌じゃなかった。
むしろ心地よかった。
私は海を眺めながら、最近のことを思い返していた。
少し前まで。
私は、一人でいることを望んでいた。
誰にも会いたくなかった。
誰にも自分を見られたくなかった。
今は、誰かに会いたいと思う日がある。
その「誰か」は、一人しかいなかった。
「ねえ、迅」
「ん?」
「私、最近変なの」
「どういう意味?」
「迅からメッセージが来ると嬉しい」
「
「来ないと、ちょっと気になる」
「
「会う約束があると、朝から楽しみになる」
「」
「学校でも、迅がどこにいるか気になった」
「……
私はそこで口を閉じた。
言ってしまってから、恥ずかしくなる。
でも、迅は笑わなかった。
からかいもしなかった。
ただ、静かに私の話を聞いていた。
「……なんでだと思う?」
私は聞いた。
迅は少し考えた。
「俺に聞く?」
「分からないから」
「……俺は」
迅が海を見る。
「分かってる」
「え?」
「たぶん」
「何が?」
迅は少し困ったように笑った。
「俺も、葵依と同じだから」
胸が大きく鳴った。
「……同じ?」
「うん」
「どういうこと?」
「葵依が俺のこと気にしてるのと同じように、俺も葵依のこと気にしてる」
「……」
「朝、連絡がないと、どうしたのかなって思う」
「
「学校に来てると、ちょっと安心する」
「…
「逆に、いないと少し気になる」
私は顔を上げた。
「……迅も?」
「うん」
「どうして?」
「それが、俺にもよく分からなかった」
迅は少し笑った。
「最初は心配だからだと思ってた」
「うん」
「でも、最近はそれだけじゃないって思う」
「……」
「葵依が誰かと話してると、ちょっと気になるし」
「……え?」
「楽しそうにしてると、嬉しいけど」
「うん」
「なんか、自分もそこにいたいって思う」
私は何も言えなかった。
胸の奥が、どんどん熱くなっていく。
迅が海へ視線を戻す。
「だからたぶん」
少し間を置いて。
「俺にとって、葵依はもう普通の友達とは違うんだと思う」
その言葉に、胸が大きく跳ねた。
普通の友達とは違う。
私も、そう思っていた。
でも。
それが何なのかは分からなかった。
「……私も」
小さく呟く。
「ん?」
「迅は、普通じゃない」
迅がこちらを見る。
「どういう意味?」
「分からない」
私は海を見る。
「でも……」
少し考えてから、言葉を続ける。
「迅がいないと、ちょっと寂しい」
言った瞬間、自分で驚いた。
こんなこと、今まで誰にも言ったことがなかった。
迅も少し驚いた顔をしていた。
「……そっか」
「うん」
「俺も」
また、その言葉。
胸が熱くなる。
私は自分の気持ちを考えた。
迅に会いたい。
話したい。
メッセージがほしい。
学校にいるなら、姿を見つけたい。
何かあれば伝えたい。
そして。
できるなら、これからも一緒にいたい。
そこまで考えて、ようやく、少しだけ分かった。
私は迅のことを、ただ「気になる人」として見ているわけじゃない。
もっと大切な存在になっている。
でも、その気持ちに名前をつけるのが、少し怖かった。
名前をつけてしまったら、何かが変わってしまいそうだった。
「葵依」
「なに?」
「ちょっと歩かない?」
「うん」
二人で立ち上がった。
海から少し離れた道を歩く。
夕方の光が、街を少しずつオレンジ色に染めていく。
しばらくして、小さなベンチが見えた。
迅がそこに座る。
私はその隣に座った。
いつもより少し近い。
でも、今日は、離れようとは思わなかった。
「葵依」
「なに?」
「俺さ」
迅が前を向いたまま話し始める。
「最初に会ったときは、本当にただ気になっただけだった」
「……
「何があったのか分からなくて」
「」
「でも、何度も話して」
迅は少し笑った。
「葵依が笑うと、俺も嬉しくなった」
私は黙って聞いていた。
「葵依が外に出られたって聞くと嬉しかった」
「……」
「学校に行ったって聞いたら、もっと嬉しいと思った」
「……うん」
「でも最近は、それだけじゃなくなった」
迅が一度、息を吐く。
「葵依が何かできたら、自分のことみたいに嬉しい」
「……」
「葵依が落ち込んでたら、気になる」
「……」
「会えない日は、少しつまらない」
私は少しだけ笑った。
「それ、私と同じ」
「うん」
迅も笑う。
「だから、たぶん俺はもう分かってる」
「……何が?」
迅が私を見る。
「葵依のことが、好きなんだと思う」
時間が止まったように感じた。
「……好き」
その言葉を、私は頭の中で繰り返した。
怖い言葉でもなかった。嫌な言葉でもなかった。
自分の静寂が漂っていた胸の奥に、ゆっくり広がっていく。
嬉しい。
その感情が、一番近かった。
私は俯いた。
「……葵依?」
「……ごめん」
「え?」
「ちょっと待って」
自分でもどうしていいのか分からなかった。
涙が出るわけじゃない。
悲しいわけでもない。
ただ、嬉しくて。
今までずっと、自分のことを否定する言葉ばかり聞いてきた。
「普通じゃない」
「変だ」
「どうしてそんなふうなの」
そんな言葉ばかりだった。
自分の白い髪も。
白い肌も。
白い瞳も。
全部、嫌いになろうとしていた。
でも、迅は違った。
私を変えようとしなかった。
無理に外へ連れ出そうともしなかった。
学校へ行けないことを責めることもしなかった。
ただ、隣にいてくれた。
笑ってくれた。
私が少し前に進めたとき、一緒に喜んでくれた。
そして今、私自身を見て、好きだと言ってくれた。
「……私」
やっと声が出た。
「うん」
「私も、迅のこと……」
言葉が詰まる。
顔が熱い。
心臓がうるさい。
でも、もう逃げたくなかった。
「好きだよ」
言った。
今度は、はっきりと。
迅の目が少し大きくなる。
「……本当に?」
「うん」
私は頷いた。
「私も、いつからか分からないけど」
少しだけ笑う。
「迅に会いたいって思うようになった」
迅は黙って私を見ている。
「メッセージが来たら嬉しくて」
「
「来ないと、ちょっと寂しくて」
「
「会えるって分かったら、楽しみで」
「
「学校にいるときも、迅のこと探してた」
「……俺も」
「それに……」
私は少しだけ息を吸った。
「迅に、私のことをもっと知ってほしいって思うようになった」
迅が少し驚いた顔をした。
「もっと?」
「うん」
「どうして?」
「分からないけど……」
私は少しだけ笑った。
「私のことを知っても、嫌いにならないでほしいって思う」
迅はしばらく黙っていた。
そして、優しく笑った。
「ならないよ」
その言葉が、胸の奥に残った。
「だから……」
私は続けた。
「たぶん、私もずっと迅のことが好きだったんだと思う」
迅が笑った。
いつもの笑顔だった。
でも今日は、少しだけ違って見えた。
「……よかった」
「うん」
「断られたらどうしようかと思ってた」
「私も」
「なんで葵依が?」
「だって……」
私は少し笑う。
「迅に嫌われたくなかったから」
「俺も」
「……そっか」
二人で笑った。
しばらく、何も言わなかった。
でも、さっきまでの沈黙とは違う。
どこかくすぐったくて。
でも、嫌じゃなかった。
むしろ。
今までよりも近く感じた。
「なんか」
私が言う。
「変な感じ」
「何が?」
「昨日までと同じ場所なのに、全然違って見える」
迅も海を見る。
「俺も」
「今日から、どうすればいいんだろう」
「どうすればって?」
「……分からない」
迅が少し笑う。
「俺も分からない」
「じゃあ、同じだね」
「うん」
その返事が、なんだか嬉しかった。
急に何かが変わるわけじゃない。
今日まで一緒に歩いて、話して、笑ってきた。
明日もきっと、それは変わらない。
ただ。
そこに一つだけ、新しい気持ちが加わった。
私はそのことを、まだ少し恥ずかしく思いながらも、嬉しく感じていた。
「これから」
迅が言った。
「どうする?」
「どうするって?」
「学校」
私は少し考えた。
「毎日行けるかは、まだ分からない」
「うん」
「怖い日もあると思う」
「うん」
「また行けなくなるかもしれない」
迅は何度も頷いた。
「でも」
私は続けた。
「少しずつでいいなら」
「うん」
「行ってみたい」
迅が笑う。
「じゃあ、明日は?」
「……二時間」
「二時間?」
「昨日と同じ」
「分かった」
「それ以上は、明日考える」
「それでいい」
私は少し笑った。
「迅は?」
「俺?」
「明日も学校にいる?」
「いるよ」
「……そっか」
それだけで安心した。
私は立ち上がった。
「帰ろう」
「うん」
二人で歩き出す。
夕方の道を並んで歩く。
昨日までなら、ただ隣にいるだけだった。
でも今日は違う。
迅が私のことを好きだと知っている。
私も、迅のことが好きだと伝えた。
それだけなのに。
世界が少しだけ変わったような気がした。
駅が近づいてくる。
「じゃあ、また明日」
迅が言う。
「うん」
私は頷く。
少し歩いてから、私は足を止めた。
「……迅」
「ん?」
私は振り返った。
「明日も、会えるよね」
迅は笑った。
「会えるよ」
「……よかった」
「葵依」
「なに?」
「これからも、ちゃんと隣にいるから」
その言葉を聞いて、私は少しだけ笑った。
「……うん」
家へ帰る道。
私は一人で歩いていた。
でも、もう、前みたいな「ひとり」ではなかった。
私はスマートフォンを取り出す。
画面には、さっき迅から届いたメッセージが残っている。
『また明日』
私はその文字を見つめて、小さく笑った。
そして、返信する。
『また明日』
送信したあと、胸の奥が、ほんの少し温かくなった。
私はまだ、完全に変わったわけじゃない。
学校が怖い日もある。
外へ出るのが嫌になる日もあるし、過去の言葉に傷つくこともある。
それでも、私には、明日がある。
会いたいと思える人がいる。話したいと思える人がいる。
そして。
一人でいた時間を、少しずつ誰かと分けていけるようになった。
「ひとりのじかん」は、私を守ってくれた。
でも…。
ずっと一人でいなければならないわけじゃない。
一人でいることと、誰かを大切にすることは、両立できる。
そう教えてくれたのは、迅だった。
私は空を見上げる。
夜になりかけた空に、月が浮かんでいた。
少し前まで、夜は一人の時間だった。
誰にも会わず。誰にも話しかけられず。静かな部屋で、ただ時間が過ぎていくのを待っていた。
でも今は、明日が待ち遠しい。
また迅に会える。
また話せる。
また、くだらないことで笑える。
そんな小さな楽しみが、私の中に増えていた。
「……明日も晴れるかな」
小さく呟く。
答える人はいない。
それでも。
なぜか、寂しくなかった。
私は歩き続けた。
明日、迅に会うために。
そして、これからの自分に、少しずつ会うために。
胸の中に生まれた気持ちに、私はようやく名前をつけることができた。
それは、「好き」という、少し照れくさく
でも、今まで知らなかったくらい温かい言葉だった。
