朝。
目が覚めて、最初に思ったのは、『――今日、迅に会う』ということだった。
昨日の夜に届いたメッセージを思い返す。
『明日、ちょっと付き合ってほしいことがある』
結局、何をするつもりなのかは教えてもらえなかった。
私は枕元のスマートフォンを手に取った。
時刻は、朝の七時前。お兄ちゃんの言った通り、この前までの私にとっては大寝坊。7時なんて、焦って我を忘れるレベルだ。
気を取り直して、通知を確認する。
新しいメッセージが一件届いていた。
迅からだった。
『おはよう』
『おはよう』
返信すると、すぐに次のメッセージが届く。
『今日、制服着てきて』
私は画面を見つめた。
「……制服?」
『なんで?』
少しして、返信が来る。
『今日行くところ、制服のほうがいいから』
「……どこ行くのよ」
思わず声に出す。
『どこに行くの?』
送ってみたけれど、それ以上は教えてもらえなかった。
『行けば分かる』
「またそれ……」
私は小さくため息をついた。『制服』という言葉を見た瞬間から、胸の奥に小さな不安が生まれていた。
『制服を着る』こと。それは私にとって、ただ服を着替えることではない。
学校を思い出して、教室を思い出して、廊下を思い出す。そして、中学三年生の一学期のことまで思い出しそうになる。
私はクローゼットを開けた。奥にしまっていた制服を取り出す。しわもなく、奥の方に綺麗に保管してあった。
しばらく、その場から動けなかった。
「……着るだけ」
小さく呟く。
「今日は、着るだけ」
自分にわからせるために何度も言う。
制服をベッドの上に置いた。
シャツ。スカート。靴下。
一つずつ並べていき、着替える。
シャツに腕を通して、ボタンを留める。最後にスカートをはいて整える。
今日は鏡は見なかった。今の自分がどう見えるかなんて、一切考えたくなかった。
私には、『制服を着ることができた』という事実がただ嬉しかった。
そして今日は、一人じゃない。迅がいるから。そう思うと、少しだけ落ち着いた。
リビングへ行く。
お母さんが朝食を用意していた。
「おはよう。今日は珍しく遅いわね――」
私を見た瞬間、手が止まった。
「……葵依」
「なに?」
「その制服……」
「うん」
「今日、学校行くの……?」
胸が少し詰まった。
「……違う…と思う」
「そう」
お母さんはそれ以上聞いてこなかった。
私は席につく。
「友達と出かける」
そう言ってから、少しだけもやっとした。
迅のことを『友達』と言った事に、なんとなく変な感じがしたけど、それ以外の言葉を知らなかった。
朝食を食べ終える。
……鞄はどうしよう。いつも出掛けるときに背負っているリュックでいいかな…。
悩みに悩んで支度を終えると、ちょうど家を出る時間になっていた。
一応、制服姿丸出しだと落ち着かないから、薄い上着だけ着る事にした。
玄関へ向かう私に、お母さんは言った。
「気をつけてね」
「うん」
「帰る時間、分かったら連絡して」
「分かった」
靴を履いて、玄関のドアを開ける。ローファーは履かず、スニーカーにした。
「いってらっしゃい」
「……いってきます」
……この会話が出来たのはいつぶりだろうか。
外へ出た。気温もまだ高いが、風が靡いていて心地良かった。
制服で外を歩くのは、久しぶりの感覚だった。
少しだけ視線が気になるけれど、ゆっくりと歩いて駅へ向かう。
歩いている最中、振動音が響いた。スマートフォンを見ると、迅からメッセージが届いていた。
『駅の近くにいる』
『分かった』
返信した頃には、だんだんと駅が近づいてきた。
「葵依」
聞き慣れた声がした。
「おはよ」
「おはよう」
私は迅を見て――。
一瞬、言葉を失った。
迅も制服だった。
白いシャツ。黒っぽいズボン。見慣れないような、でも、妙に似合っているような。…かっこ良い。
「……制服なんだ」
「うん」
「それは分かるけど……」
私は自分の服を見てから、迅を見る。何度も繰り返し見て、そこでようやく気づいた。
「……もしかして」
「ん?」
「迅の学校って……」
私は少し迷ってから聞いた。ゆっくりと上着のファスナーを下ろす。
「私立北大松沼高等学校?」
迅も一瞬、目を丸くした。
「あ」
「やっぱり?」
「うん。俺も今気づいた」
「今?」
「だって、今まで私服でしか会ってなかったし」
「確かに」
二人でお互いの制服を見る。
「……同じだね」
「うん」
同じ制服。同じ学校。
それだけのことなのに、なぜか少し胸が踊った。
「じゃあ、今日行くところって……」
「うん」
迅が学校のある方向を見る。
「北大松沼」
私は固まった。
「……学校?」
「そう」
「なんで?」
「ちょっとした用事があるんだ」
「それなら最初から言ってよ……」
「言ったら来てくれないかなって」
「……」
図星だった。
学校だと知っていたら、私は来なかったかもしれない。
正直に言うと、行きたくもない。
迅は私の顔を見て、悪い顔で笑った。
「だから、制服って言った」
「……ずるい」
頬を膨らませる。
「ごめんって」
そんな顔されると、怒る気なくすじゃない…。
同じ学校だと言うことが分かっただけで、少しだけ不安が軽くなっていた。
「……行く?」
おそるおそる迅が聞いてくる。
私は学校のある方向を見る。
怖い。それは簡単には塗り替えられないことだ。
でも、今日もまた迅が隣にいる。過去のトラウマにでも乗り越えられる気がする。
「……うん」
私は歩き出した。
学校へ向かう道中、制服姿の生徒たちと何度かすれ違った。
いつもなら、その姿を見るだけで胸が苦しくなっていたかもしれないけど、その中には迅もいる。それだけで少し違って見えた。
「ねえ」
「ん?」
「迅って、本当に毎日ここ通ってるの?」
「うん」
「……そっか」
「どうした?」
「いや、なんでもない」
私は前を向いた。
ずっと、本当は同じ学校に通っていたことや、同じ制服を着ていたことを知らなかった。
一番近くにいたはずの私達は、学校の外で出会ったという事実がなんだか不思議だった。
「葵依」
「なに?」
「無理そうになったら遠慮はなしで言って」
「……うん」
「今日は学校に戻るって決めなくてもいいから」
その言葉に、私は少し驚いた。
「じゃあ、何しに行くの?」
「それは着いてから」
「また秘密?」
「うん」
「……もう」
私は少し笑った。
学校が近づいてくる。見慣れた校舎が見えてきた。
胸が苦しくなって、足取りが少し遅くなる。
迅もそれに気づいたのか、歩く速度を落とした。
「大丈夫?」
「……ううん。怖い」
正直に言えた。
迅はそっと近付いて、頭を撫でてきた。
驚いて、びくっと体を震わせたが、迅は何ともない顔で一緒に歩いていた。
そうして校門をくぐった途端、一気に寒気がしてきて、私は迅のシャツを少し掴んで歩いていた。
一度、立ち止まりそうになったけど、進んだ。
校舎の中に入る。
廊下には生徒がいて、あちこちから話し声や笑い声、足音が聞こえてくる。その全部が、昔の記憶と重なっていく。
私は視線を落とした。
「葵依」
迅が呼ぶ。
「……なに?」
「次こっち」
人の少ない廊下を選んで歩いてくれる。私は小さく頷いて、階段を上った。
二階。
そして、迅は一つの教室の前で止まった。
「ここ」
「……ここ?」
「俺の教室」
私は教室の中を見た。机がきれいに並んでいて、黒板の端にはテスト範囲のメモ書きが書いてあった。
窓から朝の光が入っている。
「……迅のクラス?」
「うん」
迅が先に教室へ入る。私はその後ろをついていった。
誰もいない教室。
朝の静けさの中で、机や椅子が整然と並んでいる。
私は教室の中を見回した。
確証も何もないが、どこか知っている。机の配置も、窓の位置も、掲示物も、全部、見たことがある気がした。
「……なんだろ」
「何が?」
「初めて見る感じがしない」
迅は少し不思議そうな顔をした。
「まあ、学校だしな」
「そうだけど……」
そのとき、教卓の上に置かれていた一枚の紙が目に入った。バインダーに挟まれている。先生の物だろうか。
「これ、なに?」
私は近づいた。
紙には、全校生徒全員の名前が並んでいた。教員専用の名簿表だった。
「名簿じゃない?」
迅が答える。
「そうなんだ」
私は何気なく手に取った。
特に理由はなかった。ただ、そこにあったからというだけ。
名簿を上から順番に眺めていく。
知らない名前。知っているような名前。いくつもの名前が並んでいる。
「雨宮咲那、櫻井湊、藤崎心、松田拓海、森本蒼真…」
ざっと流しながら名前を呟く。1年生の欄を見ている最中、目が止まった。
「えー⁈迅の本名、黒瀬なんだ!」
「そうだよ。ていうか、俺名乗らなかったっけ?」
「名字は言ってなかったよ」
「えー?まじかよ。俺かっこわる…」
けらけら笑ってしまった。迅はバツが悪そうな顔をしている。
迅の本名を知ることができて、とても嬉しい。今にも飛び跳ねたいくらいだ。
そして、一つの名前で、指が止まった。
「……え?」
見間違いかと思った。
もう一度、見る。
そこには
『中村葵依』
私の名前が書かれていた。
「……私?」
声が小さくなる。
迅が振り返る。
「どうした?」
私は名簿を見せた。
「これ……」
迅が紙を覗き込む。
そして
「……葵依?」
名前を確認した瞬間、迅の表情が止まった。
「……『中村葵依』って。それ、葵依の名前?」
「うん」
「本当に?」
「私の名前」
迅は名簿と私の顔を交互に見た。
その視線が少し長く感じられて、私はなんとなく落ち着かなくなった。
何かを考えているようだった。
「……なに?」
「いや」
迅は慌てたように視線を名簿へ戻した。
「なんか……本当に同じ学校なんだなって」
「……今さら?」
「だって、ずっと知らなかったから。名簿表も今日初めてちゃんと見たし」
そう言って、迅は笑った。その笑顔を見て、私も少しだけ笑う。
ふと、教室の中を見回した。
「……あ」
「どうしたの?」
迅の視線の先。
そこには、一つの空席があった。
机にも、椅子にも、名前は書かれていない。ただ、ずっと誰も座っていない席。
迅はその机を見つめていた。
「……この席」
「え?」
「ずっと空いてたんだ」
私はその席を見る。
「……ずっと?」
「うん」
迅は少し考えながら話し始めた。
「入学してから、ずっと誰も座ってなかった」
「……」
「最初は、たまたま休んでるのかなって思ってた。でも、何日経っても来なくて」
迅は空席から目を離さない。
「だから、誰の席なんだろうってずっと気になってた」
私は名簿を見る。
そして、空いている机を見る。
「……それが、私?」
「たぶん」
「たぶんって……」
「だって、机には何も書いてないし」
「確かに」
迅は少し笑ってから、また話し始めた。
「クラスのやつに聞いても、誰なのか分からないって言ってた」
「先生には?」
「聞いたことあるよ」
「なんて?」
「『この席って誰の?』って」
「それで?」
迅は少し困ったように眉を下げた。
「先生は、何も教えてくれなかった」
「……名前も?」
「うん。名前も、理由も。そもそも、中村葵依っていう名前は、生徒用のクラス名簿にはない。ずっと、空席があるだけ」
私は黙った。
「ただ、入学式以来学校にも来ていない生徒がいるっていう話を聞いたことはある」
迅はそう続けた。
「でも、それが誰なのかは知らなかった」
「……そっか」
「だからずっと、誰なんだろうって思ってた」
私は名簿を見つめる。
そこにある自分の名前と、目の前の空席。
それが、今になって一つにつながった。
「……でも」
迅が呟いた。
「なんで俺、葵依だって分からなかったんだろ」
「……?」
「入学式の日には会ってるんだよな」
私は思い出す。
入学式の日。たくさんの人がいて、名前を呼ばれて壇上へ上がる。終わったら教室へ移動して、軽く先生に挨拶して、その中に、迅もいた。
でも、その日から、一度も顔を合わせていなかった。
迅は私の横でずっと唸っている。
「でも、あれからずっと会ってなかったから……正直、顔なんて覚えてなかった」
「……私も」
「だから、さっき駅で会ったときも、同じ学校だってことしか分かんなかった」
「私も、迅が同じ学校だって制服を見て初めて気づいたし」
「だよな」
二人で少し笑う。
その笑いのあと、私はもう一度、空いている机を見た。
「……じゃあ、迅は毎日この机を見てたんだ」
「うん」
「誰なのか分からないまま?」
「そうだよ」
迅は少し考えてから、
「なんか、変な感じだな」
と言った。
「何が?」
「毎日見てたのに、まさかそれが葵依の席だったなんて」
「……私も変な感じ」
私は机に近づいた。机の表面にそっと手を置く。
ずっと使っていなかった自分の机。名前すら書かれていない。
なのに、そこに、自分が座るはずだったという事実だけが残っている。
「……ここなんだ」
「そうだね」
迅の声が、少し近くから聞こえた。
私は振り返ると、すぐ側に迅が立っていて、目が合った。なんとなく気まずくなって、私は視線を逸らした。若干耳が熱い。
「……やっぱり変なの」
「何が?」
「ずっと知らなかったことが」
「……」
「あと、迅と同じ学校で、同じクラスだったことも」
「俺も知らなかった」
私は少しだけ笑った。
「……私も」
そのとき、廊下から、たくさんの足音が聞こえてきた。
私は少し緊張した。やがて教室の扉が開く。
「おはよう!」
「おはよー」
「迅早えーな!」
「あれ?そこの女子だれー?」
生徒達が一気に入ってきた。朝礼前ギリギリで、みんなすごく焦っている。
しばらくして、担任の先生も入ってきた。
「こら!着席しろー!朝礼始めるぞ!」
私の記憶のままの声だった。先生は教卓へ向かいながら、教室を見回す。
そして、私を見た瞬間、ぴたりと足を止めた。
「……」
先生の目が大きくなる。よく見ると、瞳孔が潤んでいる。
一瞬だけ、教室の空気が止まったような気がした。
無理もない。
私は入学してから、ほとんどこの教室に来ていなかった。
先生も、まさか今日ここにいるとは思っていなかったのだろう。
私は少し緊張して、先生を見る。
「……おはようございます」
小さな声で言った。
先生は一瞬だけ驚いた顔をしたあと、すぐにいつもの表情に戻った。
「おはよう、中村」
それだけだった。
特別なことは何も言わない。
「今日は来たんだな」
そう言って、先生は教卓の上に荷物を置いた。
「じゃあ、朝の挨拶!全員起立!」
私は少しだけ目を丸くした。
もっと色々聞かれると思っていた。
どうして来たのか。今までどこにいたのか。これからどうするのか。
気になることは山ほどあるはずなのに…。先生はいつも通りだと言わんばかりに朝礼を始めた。
「連絡事項は三つ。まず――」
クラスのみんなも、いつものように先生の話を聞いている。
私は少しずつ肩の力が抜けていくのを感じた。
誰かに注目され続けるわけでもなく、先生に特別扱いされるわけでもない状態が、『そこにいていい』と言われているようで、息がしやすかった。
朝礼が終わり、先生が出席簿を閉じる。そして教室を出る前に、私のところへ少しだけ近づいてきた。
「中村」
「はい」
「久しぶりだな」
私は小さく頷いた。
「……はい。お久しぶりです」
先生は曇った顔一つしなかった。
「今日は無理しないようにな」
「……はい」
先生はそれだけ言って、教室を出ていった。
私はその背中を見送る。なんだか、不思議だった。もっと怖いと思っていた。
でも先生は、私が知っている姿と同じだった。それが少しだけ嬉しかった。
一時間目。始業のチャイムが鳴った。
私は自分の席に座った。
元々は朝礼前に帰りたかったが、ここまで来たなら、少しだけ授業を受けようかな、と思って残った。
黒板に文字が書かれていく。私はノートを開いた。ペンを持つ手が少し震えている。
黒板に書かれた内容を、一つずつ写していく。
知っている内容で、塾の復習みたいに思えるが、緊張のせいで、授業の内容が頭に全部入ってくるわけじゃなかった。
途中で何度も周りが気になって、誰かの笑い声が聞こえると、少し身体が固まる。後ろの席から椅子を引く音がすると、そちらを見そうになった。
でも、誰も私を責めていない。誰も、私に何かを言っているわけじゃない。
ただ、たんたんと授業が進んでいくだけだった。
気づけば、一時間目が終わっていた。
チャイムが鳴る。
「……終わった」
思わず呟く。
迅がこちらを見る。
「お疲れ」
「……うん」
「どうだった?」
私は少し考える。
別に、授業の内容はすでに知っていたことだ。結構ハイレベルな事だが、自分にとっては難しくは無かった。
だけど、ひとつだけ言うとしたら…?
「……緊張した」
「うん」
「でも……思ってたより、普通だった」
迅が笑った。
「それなら十分じゃん」
その言葉を聞いて、私は少しだけ嬉しくなった。
やっぱり、繰り返し聞く言葉は、こういう時に妙に落ち着かせてくれる。
一時間目が終わっても、私は席を立たなかった。
迅が不思議そうに見る。
「帰らないの?」
私は少し迷ってから答えた。
「……もう一時間、いてみる」
「そっか」
「だめ?」
「全然」
迅はそれだけ言って、自分の席に戻った。
チャイムと同時に、二時間目の授業が始まる。
今度は、一時間目より少しだけ落ち着いていた。
黒板を見て、ノートを書く。先生の話を聞いて、意見を伝える。そうして時々、窓の外をぼんやり見る。
学校にさえいたら、毎日毎時間繰り返す事で、当たり前だったはずのこと。
でも私にとっては、久しぶりのことだった。
授業が進んでいく。
私が手元の時計を見ると、終了時刻まであと少しだった。
もう少しだから、最後まで…。そう思いながら、ノートに文字を書いていたら、二時間目の終わりを知らせるチャイムが鳴った。
号令がかかり、全員礼をする。
「……終わった」
今度は、少しだけ笑えた。
迅がこちらに来た。
「どうする?3限は移動教室になるんだけど」
「……帰る」
「了解!」
帰る準備が終わって、私は鞄を持って立ち上がった。
教室を出ようとした、そのとき…。
「おい、迅!」
後ろから先生の声がした。迅が振り返る。
「ん?なんでしょう?」
「もう帰るのか?」
「はい」
迅は当たり前のように答えた。
「今はまだ二時間目だぞ」
「分かってます」
「午後の授業は?」
「受けません」
先生が少し驚いた顔をする。
「お前、今日どうしたんだ?今まで学校サボった事も、休んだ事もないだろ」
迅はちらっと私を見る。そして、なぜか少し得意そうな顔をして言った。
「そうですけど…葵依ともう帰ります!」
「……え?」
私は思わず迅を見る。
「ちょ、ちょっと!」
先生も目を丸くする。
「中村と?」
「はい!」
「……お前たち、知り合いだったのか?」
「はい。今日知りました!」
「今日知ったのかよ!」
先生が思わず突っ込む。
教室に残っていた何人かが、くすっと笑った。
「じーん!女子と何いちゃついてんだよー!」
「そーだそーだ!」
「いつのまにかわいい子連れてるんだよー!」
クラスの男子が口々に言い合っている。私は恥ずかしくなって、迅の服の袖を軽く引っ張った。
「もういいから……!」
「だって帰るんだろ?」
「そうだけど……」
「じゃあ、帰ります!」
迅は先生に向かって、もう一度はっきり言った。
先生は呆れたようにため息をつく。
「……分かった分かった。ただし、気をつけて帰れよ」
「はい!」
「中村もな」
「……はい」
「それでは先生!さよーならー!!」
迅がそう叫んだ後に続き、私は小さく頭を下げた。
教室を出て廊下に出た瞬間、私は迅の背中を叩いた。
ばちん、と思っていたより大きな音が鳴る。
「いてっ!何すんだよ⁈
「なんであんなに言い張るのよ⁈」
「だって、帰るんだから」
「そういう問題じゃないでしょ……」
「じゃあ、なんて言えばよかった?」
「普通に『帰ります』でいいの」
「でも、それじゃ面白くないじゃん」
「面白さ求めてないから……」
私が呆れていると、迅が笑った。
「ちゃんと帰れるんだから別に良くない?」
「……まあね」
私は小さく笑う。
さっきまでいた教室が、少しずつ遠ざかっていく。
二時間しかいなかった。
それでも今日は、ちゃんと自分の足で学校に行き、授業も受けられた。
奇跡のように感じる。
「行こう」
迅が言う。
「うん」
私は迅の隣を歩いた。
今度は、朝より少しだけ軽い気持ちで。
校門を出る。振り返ると、校舎が見えた。
学校は、怖い場所であり、戻れない場所だと思っていた。
でも今日は二時間そこにいられた。
それだけでいい。十分すぎるくらいの進歩だ。
「今日、来てよかったかも」
ぽつりと言う。
迅は何も言わずに、少しだけ笑った。
私はその横顔を見て、また、胸の奥が小さく高鳴るのを感じた。だけど、今日はそのことを考えすぎないことにした。
また明日も会えたらいいな、とふと思った。
でも、その気持ちにはまだ、自分でもうまく名前をつけられなかった。
―――お母さん、私、今日、学校に、行けたんだよ。
目が覚めて、最初に思ったのは、『――今日、迅に会う』ということだった。
昨日の夜に届いたメッセージを思い返す。
『明日、ちょっと付き合ってほしいことがある』
結局、何をするつもりなのかは教えてもらえなかった。
私は枕元のスマートフォンを手に取った。
時刻は、朝の七時前。お兄ちゃんの言った通り、この前までの私にとっては大寝坊。7時なんて、焦って我を忘れるレベルだ。
気を取り直して、通知を確認する。
新しいメッセージが一件届いていた。
迅からだった。
『おはよう』
『おはよう』
返信すると、すぐに次のメッセージが届く。
『今日、制服着てきて』
私は画面を見つめた。
「……制服?」
『なんで?』
少しして、返信が来る。
『今日行くところ、制服のほうがいいから』
「……どこ行くのよ」
思わず声に出す。
『どこに行くの?』
送ってみたけれど、それ以上は教えてもらえなかった。
『行けば分かる』
「またそれ……」
私は小さくため息をついた。『制服』という言葉を見た瞬間から、胸の奥に小さな不安が生まれていた。
『制服を着る』こと。それは私にとって、ただ服を着替えることではない。
学校を思い出して、教室を思い出して、廊下を思い出す。そして、中学三年生の一学期のことまで思い出しそうになる。
私はクローゼットを開けた。奥にしまっていた制服を取り出す。しわもなく、奥の方に綺麗に保管してあった。
しばらく、その場から動けなかった。
「……着るだけ」
小さく呟く。
「今日は、着るだけ」
自分にわからせるために何度も言う。
制服をベッドの上に置いた。
シャツ。スカート。靴下。
一つずつ並べていき、着替える。
シャツに腕を通して、ボタンを留める。最後にスカートをはいて整える。
今日は鏡は見なかった。今の自分がどう見えるかなんて、一切考えたくなかった。
私には、『制服を着ることができた』という事実がただ嬉しかった。
そして今日は、一人じゃない。迅がいるから。そう思うと、少しだけ落ち着いた。
リビングへ行く。
お母さんが朝食を用意していた。
「おはよう。今日は珍しく遅いわね――」
私を見た瞬間、手が止まった。
「……葵依」
「なに?」
「その制服……」
「うん」
「今日、学校行くの……?」
胸が少し詰まった。
「……違う…と思う」
「そう」
お母さんはそれ以上聞いてこなかった。
私は席につく。
「友達と出かける」
そう言ってから、少しだけもやっとした。
迅のことを『友達』と言った事に、なんとなく変な感じがしたけど、それ以外の言葉を知らなかった。
朝食を食べ終える。
……鞄はどうしよう。いつも出掛けるときに背負っているリュックでいいかな…。
悩みに悩んで支度を終えると、ちょうど家を出る時間になっていた。
一応、制服姿丸出しだと落ち着かないから、薄い上着だけ着る事にした。
玄関へ向かう私に、お母さんは言った。
「気をつけてね」
「うん」
「帰る時間、分かったら連絡して」
「分かった」
靴を履いて、玄関のドアを開ける。ローファーは履かず、スニーカーにした。
「いってらっしゃい」
「……いってきます」
……この会話が出来たのはいつぶりだろうか。
外へ出た。気温もまだ高いが、風が靡いていて心地良かった。
制服で外を歩くのは、久しぶりの感覚だった。
少しだけ視線が気になるけれど、ゆっくりと歩いて駅へ向かう。
歩いている最中、振動音が響いた。スマートフォンを見ると、迅からメッセージが届いていた。
『駅の近くにいる』
『分かった』
返信した頃には、だんだんと駅が近づいてきた。
「葵依」
聞き慣れた声がした。
「おはよ」
「おはよう」
私は迅を見て――。
一瞬、言葉を失った。
迅も制服だった。
白いシャツ。黒っぽいズボン。見慣れないような、でも、妙に似合っているような。…かっこ良い。
「……制服なんだ」
「うん」
「それは分かるけど……」
私は自分の服を見てから、迅を見る。何度も繰り返し見て、そこでようやく気づいた。
「……もしかして」
「ん?」
「迅の学校って……」
私は少し迷ってから聞いた。ゆっくりと上着のファスナーを下ろす。
「私立北大松沼高等学校?」
迅も一瞬、目を丸くした。
「あ」
「やっぱり?」
「うん。俺も今気づいた」
「今?」
「だって、今まで私服でしか会ってなかったし」
「確かに」
二人でお互いの制服を見る。
「……同じだね」
「うん」
同じ制服。同じ学校。
それだけのことなのに、なぜか少し胸が踊った。
「じゃあ、今日行くところって……」
「うん」
迅が学校のある方向を見る。
「北大松沼」
私は固まった。
「……学校?」
「そう」
「なんで?」
「ちょっとした用事があるんだ」
「それなら最初から言ってよ……」
「言ったら来てくれないかなって」
「……」
図星だった。
学校だと知っていたら、私は来なかったかもしれない。
正直に言うと、行きたくもない。
迅は私の顔を見て、悪い顔で笑った。
「だから、制服って言った」
「……ずるい」
頬を膨らませる。
「ごめんって」
そんな顔されると、怒る気なくすじゃない…。
同じ学校だと言うことが分かっただけで、少しだけ不安が軽くなっていた。
「……行く?」
おそるおそる迅が聞いてくる。
私は学校のある方向を見る。
怖い。それは簡単には塗り替えられないことだ。
でも、今日もまた迅が隣にいる。過去のトラウマにでも乗り越えられる気がする。
「……うん」
私は歩き出した。
学校へ向かう道中、制服姿の生徒たちと何度かすれ違った。
いつもなら、その姿を見るだけで胸が苦しくなっていたかもしれないけど、その中には迅もいる。それだけで少し違って見えた。
「ねえ」
「ん?」
「迅って、本当に毎日ここ通ってるの?」
「うん」
「……そっか」
「どうした?」
「いや、なんでもない」
私は前を向いた。
ずっと、本当は同じ学校に通っていたことや、同じ制服を着ていたことを知らなかった。
一番近くにいたはずの私達は、学校の外で出会ったという事実がなんだか不思議だった。
「葵依」
「なに?」
「無理そうになったら遠慮はなしで言って」
「……うん」
「今日は学校に戻るって決めなくてもいいから」
その言葉に、私は少し驚いた。
「じゃあ、何しに行くの?」
「それは着いてから」
「また秘密?」
「うん」
「……もう」
私は少し笑った。
学校が近づいてくる。見慣れた校舎が見えてきた。
胸が苦しくなって、足取りが少し遅くなる。
迅もそれに気づいたのか、歩く速度を落とした。
「大丈夫?」
「……ううん。怖い」
正直に言えた。
迅はそっと近付いて、頭を撫でてきた。
驚いて、びくっと体を震わせたが、迅は何ともない顔で一緒に歩いていた。
そうして校門をくぐった途端、一気に寒気がしてきて、私は迅のシャツを少し掴んで歩いていた。
一度、立ち止まりそうになったけど、進んだ。
校舎の中に入る。
廊下には生徒がいて、あちこちから話し声や笑い声、足音が聞こえてくる。その全部が、昔の記憶と重なっていく。
私は視線を落とした。
「葵依」
迅が呼ぶ。
「……なに?」
「次こっち」
人の少ない廊下を選んで歩いてくれる。私は小さく頷いて、階段を上った。
二階。
そして、迅は一つの教室の前で止まった。
「ここ」
「……ここ?」
「俺の教室」
私は教室の中を見た。机がきれいに並んでいて、黒板の端にはテスト範囲のメモ書きが書いてあった。
窓から朝の光が入っている。
「……迅のクラス?」
「うん」
迅が先に教室へ入る。私はその後ろをついていった。
誰もいない教室。
朝の静けさの中で、机や椅子が整然と並んでいる。
私は教室の中を見回した。
確証も何もないが、どこか知っている。机の配置も、窓の位置も、掲示物も、全部、見たことがある気がした。
「……なんだろ」
「何が?」
「初めて見る感じがしない」
迅は少し不思議そうな顔をした。
「まあ、学校だしな」
「そうだけど……」
そのとき、教卓の上に置かれていた一枚の紙が目に入った。バインダーに挟まれている。先生の物だろうか。
「これ、なに?」
私は近づいた。
紙には、全校生徒全員の名前が並んでいた。教員専用の名簿表だった。
「名簿じゃない?」
迅が答える。
「そうなんだ」
私は何気なく手に取った。
特に理由はなかった。ただ、そこにあったからというだけ。
名簿を上から順番に眺めていく。
知らない名前。知っているような名前。いくつもの名前が並んでいる。
「雨宮咲那、櫻井湊、藤崎心、松田拓海、森本蒼真…」
ざっと流しながら名前を呟く。1年生の欄を見ている最中、目が止まった。
「えー⁈迅の本名、黒瀬なんだ!」
「そうだよ。ていうか、俺名乗らなかったっけ?」
「名字は言ってなかったよ」
「えー?まじかよ。俺かっこわる…」
けらけら笑ってしまった。迅はバツが悪そうな顔をしている。
迅の本名を知ることができて、とても嬉しい。今にも飛び跳ねたいくらいだ。
そして、一つの名前で、指が止まった。
「……え?」
見間違いかと思った。
もう一度、見る。
そこには
『中村葵依』
私の名前が書かれていた。
「……私?」
声が小さくなる。
迅が振り返る。
「どうした?」
私は名簿を見せた。
「これ……」
迅が紙を覗き込む。
そして
「……葵依?」
名前を確認した瞬間、迅の表情が止まった。
「……『中村葵依』って。それ、葵依の名前?」
「うん」
「本当に?」
「私の名前」
迅は名簿と私の顔を交互に見た。
その視線が少し長く感じられて、私はなんとなく落ち着かなくなった。
何かを考えているようだった。
「……なに?」
「いや」
迅は慌てたように視線を名簿へ戻した。
「なんか……本当に同じ学校なんだなって」
「……今さら?」
「だって、ずっと知らなかったから。名簿表も今日初めてちゃんと見たし」
そう言って、迅は笑った。その笑顔を見て、私も少しだけ笑う。
ふと、教室の中を見回した。
「……あ」
「どうしたの?」
迅の視線の先。
そこには、一つの空席があった。
机にも、椅子にも、名前は書かれていない。ただ、ずっと誰も座っていない席。
迅はその机を見つめていた。
「……この席」
「え?」
「ずっと空いてたんだ」
私はその席を見る。
「……ずっと?」
「うん」
迅は少し考えながら話し始めた。
「入学してから、ずっと誰も座ってなかった」
「……」
「最初は、たまたま休んでるのかなって思ってた。でも、何日経っても来なくて」
迅は空席から目を離さない。
「だから、誰の席なんだろうってずっと気になってた」
私は名簿を見る。
そして、空いている机を見る。
「……それが、私?」
「たぶん」
「たぶんって……」
「だって、机には何も書いてないし」
「確かに」
迅は少し笑ってから、また話し始めた。
「クラスのやつに聞いても、誰なのか分からないって言ってた」
「先生には?」
「聞いたことあるよ」
「なんて?」
「『この席って誰の?』って」
「それで?」
迅は少し困ったように眉を下げた。
「先生は、何も教えてくれなかった」
「……名前も?」
「うん。名前も、理由も。そもそも、中村葵依っていう名前は、生徒用のクラス名簿にはない。ずっと、空席があるだけ」
私は黙った。
「ただ、入学式以来学校にも来ていない生徒がいるっていう話を聞いたことはある」
迅はそう続けた。
「でも、それが誰なのかは知らなかった」
「……そっか」
「だからずっと、誰なんだろうって思ってた」
私は名簿を見つめる。
そこにある自分の名前と、目の前の空席。
それが、今になって一つにつながった。
「……でも」
迅が呟いた。
「なんで俺、葵依だって分からなかったんだろ」
「……?」
「入学式の日には会ってるんだよな」
私は思い出す。
入学式の日。たくさんの人がいて、名前を呼ばれて壇上へ上がる。終わったら教室へ移動して、軽く先生に挨拶して、その中に、迅もいた。
でも、その日から、一度も顔を合わせていなかった。
迅は私の横でずっと唸っている。
「でも、あれからずっと会ってなかったから……正直、顔なんて覚えてなかった」
「……私も」
「だから、さっき駅で会ったときも、同じ学校だってことしか分かんなかった」
「私も、迅が同じ学校だって制服を見て初めて気づいたし」
「だよな」
二人で少し笑う。
その笑いのあと、私はもう一度、空いている机を見た。
「……じゃあ、迅は毎日この机を見てたんだ」
「うん」
「誰なのか分からないまま?」
「そうだよ」
迅は少し考えてから、
「なんか、変な感じだな」
と言った。
「何が?」
「毎日見てたのに、まさかそれが葵依の席だったなんて」
「……私も変な感じ」
私は机に近づいた。机の表面にそっと手を置く。
ずっと使っていなかった自分の机。名前すら書かれていない。
なのに、そこに、自分が座るはずだったという事実だけが残っている。
「……ここなんだ」
「そうだね」
迅の声が、少し近くから聞こえた。
私は振り返ると、すぐ側に迅が立っていて、目が合った。なんとなく気まずくなって、私は視線を逸らした。若干耳が熱い。
「……やっぱり変なの」
「何が?」
「ずっと知らなかったことが」
「……」
「あと、迅と同じ学校で、同じクラスだったことも」
「俺も知らなかった」
私は少しだけ笑った。
「……私も」
そのとき、廊下から、たくさんの足音が聞こえてきた。
私は少し緊張した。やがて教室の扉が開く。
「おはよう!」
「おはよー」
「迅早えーな!」
「あれ?そこの女子だれー?」
生徒達が一気に入ってきた。朝礼前ギリギリで、みんなすごく焦っている。
しばらくして、担任の先生も入ってきた。
「こら!着席しろー!朝礼始めるぞ!」
私の記憶のままの声だった。先生は教卓へ向かいながら、教室を見回す。
そして、私を見た瞬間、ぴたりと足を止めた。
「……」
先生の目が大きくなる。よく見ると、瞳孔が潤んでいる。
一瞬だけ、教室の空気が止まったような気がした。
無理もない。
私は入学してから、ほとんどこの教室に来ていなかった。
先生も、まさか今日ここにいるとは思っていなかったのだろう。
私は少し緊張して、先生を見る。
「……おはようございます」
小さな声で言った。
先生は一瞬だけ驚いた顔をしたあと、すぐにいつもの表情に戻った。
「おはよう、中村」
それだけだった。
特別なことは何も言わない。
「今日は来たんだな」
そう言って、先生は教卓の上に荷物を置いた。
「じゃあ、朝の挨拶!全員起立!」
私は少しだけ目を丸くした。
もっと色々聞かれると思っていた。
どうして来たのか。今までどこにいたのか。これからどうするのか。
気になることは山ほどあるはずなのに…。先生はいつも通りだと言わんばかりに朝礼を始めた。
「連絡事項は三つ。まず――」
クラスのみんなも、いつものように先生の話を聞いている。
私は少しずつ肩の力が抜けていくのを感じた。
誰かに注目され続けるわけでもなく、先生に特別扱いされるわけでもない状態が、『そこにいていい』と言われているようで、息がしやすかった。
朝礼が終わり、先生が出席簿を閉じる。そして教室を出る前に、私のところへ少しだけ近づいてきた。
「中村」
「はい」
「久しぶりだな」
私は小さく頷いた。
「……はい。お久しぶりです」
先生は曇った顔一つしなかった。
「今日は無理しないようにな」
「……はい」
先生はそれだけ言って、教室を出ていった。
私はその背中を見送る。なんだか、不思議だった。もっと怖いと思っていた。
でも先生は、私が知っている姿と同じだった。それが少しだけ嬉しかった。
一時間目。始業のチャイムが鳴った。
私は自分の席に座った。
元々は朝礼前に帰りたかったが、ここまで来たなら、少しだけ授業を受けようかな、と思って残った。
黒板に文字が書かれていく。私はノートを開いた。ペンを持つ手が少し震えている。
黒板に書かれた内容を、一つずつ写していく。
知っている内容で、塾の復習みたいに思えるが、緊張のせいで、授業の内容が頭に全部入ってくるわけじゃなかった。
途中で何度も周りが気になって、誰かの笑い声が聞こえると、少し身体が固まる。後ろの席から椅子を引く音がすると、そちらを見そうになった。
でも、誰も私を責めていない。誰も、私に何かを言っているわけじゃない。
ただ、たんたんと授業が進んでいくだけだった。
気づけば、一時間目が終わっていた。
チャイムが鳴る。
「……終わった」
思わず呟く。
迅がこちらを見る。
「お疲れ」
「……うん」
「どうだった?」
私は少し考える。
別に、授業の内容はすでに知っていたことだ。結構ハイレベルな事だが、自分にとっては難しくは無かった。
だけど、ひとつだけ言うとしたら…?
「……緊張した」
「うん」
「でも……思ってたより、普通だった」
迅が笑った。
「それなら十分じゃん」
その言葉を聞いて、私は少しだけ嬉しくなった。
やっぱり、繰り返し聞く言葉は、こういう時に妙に落ち着かせてくれる。
一時間目が終わっても、私は席を立たなかった。
迅が不思議そうに見る。
「帰らないの?」
私は少し迷ってから答えた。
「……もう一時間、いてみる」
「そっか」
「だめ?」
「全然」
迅はそれだけ言って、自分の席に戻った。
チャイムと同時に、二時間目の授業が始まる。
今度は、一時間目より少しだけ落ち着いていた。
黒板を見て、ノートを書く。先生の話を聞いて、意見を伝える。そうして時々、窓の外をぼんやり見る。
学校にさえいたら、毎日毎時間繰り返す事で、当たり前だったはずのこと。
でも私にとっては、久しぶりのことだった。
授業が進んでいく。
私が手元の時計を見ると、終了時刻まであと少しだった。
もう少しだから、最後まで…。そう思いながら、ノートに文字を書いていたら、二時間目の終わりを知らせるチャイムが鳴った。
号令がかかり、全員礼をする。
「……終わった」
今度は、少しだけ笑えた。
迅がこちらに来た。
「どうする?3限は移動教室になるんだけど」
「……帰る」
「了解!」
帰る準備が終わって、私は鞄を持って立ち上がった。
教室を出ようとした、そのとき…。
「おい、迅!」
後ろから先生の声がした。迅が振り返る。
「ん?なんでしょう?」
「もう帰るのか?」
「はい」
迅は当たり前のように答えた。
「今はまだ二時間目だぞ」
「分かってます」
「午後の授業は?」
「受けません」
先生が少し驚いた顔をする。
「お前、今日どうしたんだ?今まで学校サボった事も、休んだ事もないだろ」
迅はちらっと私を見る。そして、なぜか少し得意そうな顔をして言った。
「そうですけど…葵依ともう帰ります!」
「……え?」
私は思わず迅を見る。
「ちょ、ちょっと!」
先生も目を丸くする。
「中村と?」
「はい!」
「……お前たち、知り合いだったのか?」
「はい。今日知りました!」
「今日知ったのかよ!」
先生が思わず突っ込む。
教室に残っていた何人かが、くすっと笑った。
「じーん!女子と何いちゃついてんだよー!」
「そーだそーだ!」
「いつのまにかわいい子連れてるんだよー!」
クラスの男子が口々に言い合っている。私は恥ずかしくなって、迅の服の袖を軽く引っ張った。
「もういいから……!」
「だって帰るんだろ?」
「そうだけど……」
「じゃあ、帰ります!」
迅は先生に向かって、もう一度はっきり言った。
先生は呆れたようにため息をつく。
「……分かった分かった。ただし、気をつけて帰れよ」
「はい!」
「中村もな」
「……はい」
「それでは先生!さよーならー!!」
迅がそう叫んだ後に続き、私は小さく頭を下げた。
教室を出て廊下に出た瞬間、私は迅の背中を叩いた。
ばちん、と思っていたより大きな音が鳴る。
「いてっ!何すんだよ⁈
「なんであんなに言い張るのよ⁈」
「だって、帰るんだから」
「そういう問題じゃないでしょ……」
「じゃあ、なんて言えばよかった?」
「普通に『帰ります』でいいの」
「でも、それじゃ面白くないじゃん」
「面白さ求めてないから……」
私が呆れていると、迅が笑った。
「ちゃんと帰れるんだから別に良くない?」
「……まあね」
私は小さく笑う。
さっきまでいた教室が、少しずつ遠ざかっていく。
二時間しかいなかった。
それでも今日は、ちゃんと自分の足で学校に行き、授業も受けられた。
奇跡のように感じる。
「行こう」
迅が言う。
「うん」
私は迅の隣を歩いた。
今度は、朝より少しだけ軽い気持ちで。
校門を出る。振り返ると、校舎が見えた。
学校は、怖い場所であり、戻れない場所だと思っていた。
でも今日は二時間そこにいられた。
それだけでいい。十分すぎるくらいの進歩だ。
「今日、来てよかったかも」
ぽつりと言う。
迅は何も言わずに、少しだけ笑った。
私はその横顔を見て、また、胸の奥が小さく高鳴るのを感じた。だけど、今日はそのことを考えすぎないことにした。
また明日も会えたらいいな、とふと思った。
でも、その気持ちにはまだ、自分でもうまく名前をつけられなかった。
―――お母さん、私、今日、学校に、行けたんだよ。


