朝、目が覚めたとき、カーテンの隙間から差し込む光が、床の上に細い線を作っていた。
枕元に置いたスマートフォンを見る。
通知はない。
少しだけ期待していた自分に気づいて、私は苦笑した。
……何を期待してるんだろう。
そう思いながら、スマートフォンを伏せる。
布団から出て、着替える。
昨日までなら、そのまま部屋に戻っていたかもしれない。けれど今日は、リビングへ向かった。
「おはよう」
久しぶりに自分から言った。
お母さんが一瞬、こちらを見る。
「……おはよう」
お兄ちゃんも顔を上げた。
「お、珍しい。今日は早いじゃん」
「……それ、どういう意味?」
「いや、最近の葵依、朝弱かったから」
「別に……今日はたまたま…」
そう答えると、お兄ちゃんは少し笑った。
その笑顔を見て、なんとなく胸の奥がくすぐったくなる。
なぜかって?
以前なら、朝からこんなふうに会話をすることすらなかったから。
私は席についた。お母さんが出来立ての味噌汁を置く。
「いただきます」
三人の声が重なった。
しばらくは、箸の音だけが聞こえていた。
私は黙々とご飯を食べる。
お母さんも何か言おうとしているようだった。
何度か口を開きかけて、その度にやめている。
やがて、
「……葵依」
と呼ばれた。
箸を止める。
「なに?」
「学校……」
そこまで聞いた瞬間、身体が少しだけ固くなった。
やっぱり……。またその話だ。
そう思った。
でも、母はそれ以上続けなかった。
「……ううん。ごめんなさい。なんでもないわ」
「……そっか」
それだけで終わった。
以前なら、ここで怒られて、『ごめんなさい』と繰り返し言っていた。
学校に行けないことを謝って。何もできないことを謝って。お母さんを困らせていることを謝って。
でも今日は、言わなかった。言わなくても良かった。
代わりに私は、少し迷ってから口を開いた。
「……まだ、怖い」
お母さんが顔を上げる。
「え?」
「学校」
自分でも驚くくらい、小さな声だった。
「まだ……怖い」
言ってしまった。胸の奥がざわつく。
お母さんはしばらく何も言わなかった。
責められるかもしれない。『いつまで?』と聞かれるかもしれない。そう思って身構えていた。
けれど、母はただ、
「……そう」
とだけ言った。
それから少しして、
「何が怖いの?」
と聞いた。
私は答えられなかった。何から話せばいいのか分からない。
中学三年生の一学期。あの頃のこと。
教室。視線。言葉。笑い声。
全部が頭の中に浮かびそうになって、私は目を伏せた。
「……うまく言えない」
「……そうなのね」
お母さんは、それ以上聞かなかった。それだけのことなのに、少しだけ肩の力が抜けた。
「でも……」
私は続けた。
「行きたくないんじゃなくて……行こうとすると、怖くなる」
お母さんは黙って聞いてくれていた。
「……そうだったのね」
その言葉が、妙に心に残った。
今までだったら、『行きたくない』としか受け取ってもらえなかった。でも今日は、少なくとも『怖い』と伝えることができた。
それだけで、何かが少し違って見えた。
朝食を終え、お兄ちゃんが学校へ行く準備を始める。
玄関で靴を履いているお兄ちゃんに、私は声をかけた。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「……今日、早く帰ってくる?」
「なんで?」
「別に」
「なんだそれ」
颯斗が笑う。
「まあ、今は夏期講習期間で部活ないから普通に帰ってくるけど」
「……そっか」
「なんか用?」
「……ない」
「絶対なんかあるだろ」
「ないって」
颯斗は少し首を傾げながら、
「じゃ、行ってきます」
と言った。
「……いってらっしゃい」
ドアが閉まる。
静かになった玄関を見ながら、私はなぜか少しだけ寂しくなった。
昔は、家族が出ていくとほっとしていた。ひとりになれる。誰にも何も言われない。
それが楽だった。
でも最近は、ほんの少しだけ違う。
ひとりの時間が嫌いになったわけではない。ただ、誰かと一緒にいることが、以前ほど苦痛ではなくなっていた。それが不思議だった。
昼過ぎ。
お母さんは仕事に出ていて、家には私だけだった。
テレビをつける。けれど、今日はすぐに消した。
静かな部屋に座っていると、昨日までのことを思い出す。
迅と話したこと。ノートに書いたこと。少しずつ外へ出られるようになったこと。そして、今朝のお母さんとの会話。
「……怖い、か」
口に出してみる。たったそれだけの言葉だった。でも、以前の私には言えなかった。
怖いと言えば、弱いと思われる気がした。説明できなければ、理解してもらえない気がした。だから、ずっと『ごめんなさい』で済ませていた。
謝れば、その場は終わる。それが一番楽だった。
でも、その度に自分の中には何かが残っていった。
机の上に置いてあるノートを開く。ペンを持った。
少し考えてから、一行だけ書いた。
『今日は、お母さんに「怖い」と言えた。』
それだけ。書き終えてペンを置く。なぜだか、この文だけで十分今の私を表現出来ているような気がした。
夕方。
玄関のドアが開いた。
「ただいまー」
「……おかえり」
お兄ちゃんだった。
「お、まだ起きてた」
「起きてるよ」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「どういう意味?」
「最近の葵依、ちょっと変わったなって」
「……悪かったね」
「悪いとは言ってないだろ」
お兄ちゃんが笑う。私は少しだけ睨んだ。
「……お兄ちゃん」
「ん?」
「ちょっと話したいことがあるんだけど、いい?」
お兄ちゃんの表情が変わった。
「うん、いいよ」
私たちはリビングのソファに座った。
何から話せばいいのか分からない。
私はしばらく黙っていた。お兄ちゃんも急かさなかった。
やがて私は、
「……お兄ちゃんって、私のことどう思ってる?」
と聞いた。
「どうって?」
「そのまま」
お兄ちゃんは少し考えた。
「……難しい質問だな」
「答えられない?」
「いや」
苦笑していた。
「正直に言うと、最初はよく分かってなかった」
「……何が?」
「葵依が学校に行かなくなった理由」
胸が少しだけ痛んだ。
「俺、学校行ってるだろ?」
「うん」
「だから、葵依もそのうち行けるんじゃないかって、どこかで思ってた」
私は黙った。
やっぱり、家族の中でも、そう思われていたんだ。
少しだけ視線を落とす。
「……そっか」
「でも」
颯斗が続けた。
「それって、俺の基準なんだよな」
私は顔を上げた。
「俺は学校に行けてる。だから葵依も行けるはずって考えてた。でも、同じじゃないよな」
「……うん」
「ごめん」
その言葉に、私は少し驚いた。
「お兄ちゃんが謝ることじゃ……」
「あるよ」
お兄ちゃんは、珍しく真面目な顔をしていた。
「もっと早く聞けばよかった」
私は何も言えなかった。しばらく沈黙が続く。
するとお兄ちゃんが、
「……俺さ」
と言った。
「葵依が学校に行かなくなってから、家に帰ってくるとき、ちょっとだけ気を使ってた」
「え?」
「何話したらいいんだろうって」
「……知らなかった」
「だろうな」
颯斗は笑った。
「葵依、部屋から出てこなかったし」
「……それは」
「分かってる。出たくなかったんだろ」
私は少しだけ黙った。
中学三年生の一学期。
あの頃の私は、学校から帰ってくると、すぐ自分の部屋に入っていた。
家族と顔を合わせるのが嫌だったわけじゃない。何かを聞かれるのが怖かった。
『今日どうだった?』
その一言にさえ、何も答えられなかった。
今なら少し分かる。
あの頃の私は、学校で起きたことを言葉にする余裕なんてなかったのだ。
「……あの頃の私」
私はぽつりと言った。
「家でも、変だったよね」
「変じゃないよ」
お兄ちゃんがすぐに答えた。
「ただ、しんどかったんだろ」
その言葉を聞いて、胸の奥が少し熱くなった。
「……うん。そうかもね」
それ以上は言えなかった。でも、お兄ちゃんはそれ以上聞かなかった。
「じゃあ、俺、ゲームしてくるわ」
「……急だね」
「こういうの長く話すの苦手なんだよ」
「知ってる」
「ひど」
二人で少し笑った。
この空気感が、なんとなく心地よかった。
夕食の時間。
珍しく、お母さんも早く帰ってきていた。
三人で食卓を囲む。
最初は、誰もあまり話さなかった。
テレビの音。箸が食器に触れる音。時計の針の音。
そんなものばかりが聞こえる。
私は黙ってご飯を食べていた。
すると、お兄ちゃんが突然、
「母さん」
と言った。
「なに?」
「葵依に学校の話するとき、もうちょっと言い方考えた方がいいと思う」
全員の箸が止まった。お母さんも驚いたように颯斗を見る。
「……急に何?」
「いや、前から思ってた」
「私は葵依のことを心配して……」
「分かってる」
お兄ちゃんはお母さんの言葉を遮るように言った。
「心配してるのは分かってる。でも、心配してることと、言われた側が責められてるように感じることって、別じゃない?」
お母さんは黙った。
私は二人の会話を聞いていた。
「……颯斗まで、そんなこと言うの?」
「そんなことって?」
「私は、葵依にちゃんと学校へ行ってほしいだけよ」
「うん」
「このままずっと家にいるわけにもいかないでしょう?」
「それも分かってる」
「じゃあ……」
「でも、今それを言っても葵依が苦しくなるだけじゃない?」
空気が少し重くなる。
私は下を向いた。
また、二人を困らせている。そう思った。
でも、私は逃げたくなかった。
「……お母さん」
お母さんがこちらを見る。
「なに?」
「私も……ごめんなさいって言うの、もう嫌だった」
お母さんの手が止まった。
「……え?」
「学校に行けないこと」
私は言葉を探した。
「毎回、私が悪いみたいで……」
声が少し震える。
「行けない自分が悪いんだって思ってた」
お母さんは何も言わなかった。
「でも……」
私は続けた。
「本当は、行きたくないんじゃない」
「……」
「怖いの」
その言葉が、食卓の真ん中に落ちた。誰もすぐにはその声を拾わなかった。
やがて母が、
「……そうだったのね」
と言った。
その声は、いつもより小さかった。
「私、葵依がただ行きたくないだけだと思ってた」
「……うん」
「ごめんね」
私はすぐには答えられなかった。
「……まだ」
言いかけたところで、お母さんを見る。
「まだ、全部は無理」
お母さんは少しだけ目を伏せた。
「うん」
「すぐに普通には戻れないと思う」
「うん…」
「でも……」
私は言った。
「今日みたいに、ちょっとずつ話すことなら、できるかもしれない」
お母さんがようやく顔を上げた。
「……わかった」
それだけ言って、少し笑った。
「それなら、十分ね」
その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ軽くなった。
すると、お兄ちゃんが突然、
「そういえば今日さ」
と話題を変えた。
「学校でめちゃくちゃ変なことあってさ」
「いきなり何よ?」
お母さんが聞く。
颯斗は今日学校であった出来事を話し始めた。
どうでもいいような話だった。
先生が授業中に言い間違えたとか。友達が変なことを言っていたとか。
私は最初、黙って聞いていた。
でも、颯斗の話があまりにもくだらなくて、
「それ、お兄ちゃんが悪いんじゃない?」
と思わず言ってしまった。
「なんでだよ!」
「だって、絶対お兄ちゃんが余計なこと言ったんでしょ」
「いやいや、俺は何もしてないって!」
お母さんが笑う。私も笑った。三人で笑う。
その瞬間、ふと思った。
……こういうの、久しぶりだ。
昼間の話しでもない。不登校の話でもない。私のことでもない。
ただ、くだらない話をして笑っている。
その事が、すごく久しぶりな感じがした。
私は味噌汁を一口飲んだ。
いつもと同じ味だった。いつもと同じ食卓。いつもと同じ家。
なのに、やっぱり少しだけ違って見えた。
夜。
自分の部屋に戻り、机の上のノートを開く。
しばらく何も書かずに、白いページを眺めた。
今日のことを、どう書けばいいのか分からない。
悩んだ末、短く書いた。
『今日は、お母さんとお兄ちゃんと話した。』
少し間を空ける。
『久しぶりに、家で笑った。』
そこでペンを止めた。
学校には、まだ行けない。過去のことも、全部乗り越えたわけじゃない。お母さんの言葉を全部許せたわけでもない。
それでも……。
「……少しだけ、変わったのかな」
呟いた。
ゆっくりノートを閉じる。
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面を見る。
迅からだった。
『今日どうだった?』
私は少し考えてから返信する。
『家族と話した』
すぐに既読がついた。
『お、珍しい』
『もう!失礼』
『で、どうだった?』
『……ちょっと疲れた』
『そりゃそうだろ』
『でも、悪くなかった』
しばらくして、迅から返事が来る。
『それなら十分じゃん』
私は画面を見つめた。
「……またそれ」
思わず笑ってしまう。
昨日も似たようなことを言われた気がする。
『迅って、すぐ「十分」って言うよね』
送る。
少しして、
『だって、十分だから』
と返ってきた。
私は何となく、その言葉を何度も読み返した。
それから、
『……ありがと』
と送った。
『どういたしまして』
それだけなのに、スマートフォンを置いたあとも、なんだか少し気持ちが明るかった。
同じ頃。
迅は自分の部屋でスマートフォンを眺めていた。
葵依から届いた「ありがと」の文字。
たったそれだけなのに、妙に嬉しい。
「……なんなんだろ」
自分でもよく分からなかった。
最近、葵依からメッセージが来ると、自然とスマートフォンを手に取ってしまう。
学校で何かあった日も。帰り道も。家に帰ってからも。
ふとした瞬間に、彼女のことを考えている。
でも、それを深く考えることはしなかった。
考えたところで、自分でも答えが分からないからだ。
迅はスマートフォンを伏せた。
明日のことを思い出す。
結構悩みに迷ってから、メッセージを打った。
『明日、ちょっと付き合ってほしいことがある』
送信。
すぐに返信が来た。
『何?』
迅は少し笑った。
『明日になったら分かる』
『……怪しい』
『大丈夫だって』
少し間が空く。
やがて、
『……わかった』
と返ってきた。
俺はスマートフォンを置いた。
明日……。待ちきれない。
きっと、葵依にとって驚くことになる。
でも、まだそれを伝えるつもりはなかった。
私はベッドに横になった。
明日、何があるんだろう。
迅が「付き合ってほしい」と言うくらいだから、何かあるのだろう。
少しだけ不安だった。
以前なら、分からないことがあるだけで怖くなっていたと思う。だけど、今は違う。
分からない事は、明日になれば分かる。
それでいい。
私は目を閉じた。
今日の食卓を思い出す。
お母さんの声。お兄ちゃんの笑い声。自分の笑い声。そして、迅から届いたメッセージ。
ひとりの時間は、今でも嫌いじゃないし、苦でもない。
静かな部屋も好きだ。
でも…。
ひとりじゃない時間も、全部が嫌なわけではないのかもしれない。
そんなことを考えながら、私はゆっくり眠りについた。
枕元に置いたスマートフォンを見る。
通知はない。
少しだけ期待していた自分に気づいて、私は苦笑した。
……何を期待してるんだろう。
そう思いながら、スマートフォンを伏せる。
布団から出て、着替える。
昨日までなら、そのまま部屋に戻っていたかもしれない。けれど今日は、リビングへ向かった。
「おはよう」
久しぶりに自分から言った。
お母さんが一瞬、こちらを見る。
「……おはよう」
お兄ちゃんも顔を上げた。
「お、珍しい。今日は早いじゃん」
「……それ、どういう意味?」
「いや、最近の葵依、朝弱かったから」
「別に……今日はたまたま…」
そう答えると、お兄ちゃんは少し笑った。
その笑顔を見て、なんとなく胸の奥がくすぐったくなる。
なぜかって?
以前なら、朝からこんなふうに会話をすることすらなかったから。
私は席についた。お母さんが出来立ての味噌汁を置く。
「いただきます」
三人の声が重なった。
しばらくは、箸の音だけが聞こえていた。
私は黙々とご飯を食べる。
お母さんも何か言おうとしているようだった。
何度か口を開きかけて、その度にやめている。
やがて、
「……葵依」
と呼ばれた。
箸を止める。
「なに?」
「学校……」
そこまで聞いた瞬間、身体が少しだけ固くなった。
やっぱり……。またその話だ。
そう思った。
でも、母はそれ以上続けなかった。
「……ううん。ごめんなさい。なんでもないわ」
「……そっか」
それだけで終わった。
以前なら、ここで怒られて、『ごめんなさい』と繰り返し言っていた。
学校に行けないことを謝って。何もできないことを謝って。お母さんを困らせていることを謝って。
でも今日は、言わなかった。言わなくても良かった。
代わりに私は、少し迷ってから口を開いた。
「……まだ、怖い」
お母さんが顔を上げる。
「え?」
「学校」
自分でも驚くくらい、小さな声だった。
「まだ……怖い」
言ってしまった。胸の奥がざわつく。
お母さんはしばらく何も言わなかった。
責められるかもしれない。『いつまで?』と聞かれるかもしれない。そう思って身構えていた。
けれど、母はただ、
「……そう」
とだけ言った。
それから少しして、
「何が怖いの?」
と聞いた。
私は答えられなかった。何から話せばいいのか分からない。
中学三年生の一学期。あの頃のこと。
教室。視線。言葉。笑い声。
全部が頭の中に浮かびそうになって、私は目を伏せた。
「……うまく言えない」
「……そうなのね」
お母さんは、それ以上聞かなかった。それだけのことなのに、少しだけ肩の力が抜けた。
「でも……」
私は続けた。
「行きたくないんじゃなくて……行こうとすると、怖くなる」
お母さんは黙って聞いてくれていた。
「……そうだったのね」
その言葉が、妙に心に残った。
今までだったら、『行きたくない』としか受け取ってもらえなかった。でも今日は、少なくとも『怖い』と伝えることができた。
それだけで、何かが少し違って見えた。
朝食を終え、お兄ちゃんが学校へ行く準備を始める。
玄関で靴を履いているお兄ちゃんに、私は声をかけた。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「……今日、早く帰ってくる?」
「なんで?」
「別に」
「なんだそれ」
颯斗が笑う。
「まあ、今は夏期講習期間で部活ないから普通に帰ってくるけど」
「……そっか」
「なんか用?」
「……ない」
「絶対なんかあるだろ」
「ないって」
颯斗は少し首を傾げながら、
「じゃ、行ってきます」
と言った。
「……いってらっしゃい」
ドアが閉まる。
静かになった玄関を見ながら、私はなぜか少しだけ寂しくなった。
昔は、家族が出ていくとほっとしていた。ひとりになれる。誰にも何も言われない。
それが楽だった。
でも最近は、ほんの少しだけ違う。
ひとりの時間が嫌いになったわけではない。ただ、誰かと一緒にいることが、以前ほど苦痛ではなくなっていた。それが不思議だった。
昼過ぎ。
お母さんは仕事に出ていて、家には私だけだった。
テレビをつける。けれど、今日はすぐに消した。
静かな部屋に座っていると、昨日までのことを思い出す。
迅と話したこと。ノートに書いたこと。少しずつ外へ出られるようになったこと。そして、今朝のお母さんとの会話。
「……怖い、か」
口に出してみる。たったそれだけの言葉だった。でも、以前の私には言えなかった。
怖いと言えば、弱いと思われる気がした。説明できなければ、理解してもらえない気がした。だから、ずっと『ごめんなさい』で済ませていた。
謝れば、その場は終わる。それが一番楽だった。
でも、その度に自分の中には何かが残っていった。
机の上に置いてあるノートを開く。ペンを持った。
少し考えてから、一行だけ書いた。
『今日は、お母さんに「怖い」と言えた。』
それだけ。書き終えてペンを置く。なぜだか、この文だけで十分今の私を表現出来ているような気がした。
夕方。
玄関のドアが開いた。
「ただいまー」
「……おかえり」
お兄ちゃんだった。
「お、まだ起きてた」
「起きてるよ」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「どういう意味?」
「最近の葵依、ちょっと変わったなって」
「……悪かったね」
「悪いとは言ってないだろ」
お兄ちゃんが笑う。私は少しだけ睨んだ。
「……お兄ちゃん」
「ん?」
「ちょっと話したいことがあるんだけど、いい?」
お兄ちゃんの表情が変わった。
「うん、いいよ」
私たちはリビングのソファに座った。
何から話せばいいのか分からない。
私はしばらく黙っていた。お兄ちゃんも急かさなかった。
やがて私は、
「……お兄ちゃんって、私のことどう思ってる?」
と聞いた。
「どうって?」
「そのまま」
お兄ちゃんは少し考えた。
「……難しい質問だな」
「答えられない?」
「いや」
苦笑していた。
「正直に言うと、最初はよく分かってなかった」
「……何が?」
「葵依が学校に行かなくなった理由」
胸が少しだけ痛んだ。
「俺、学校行ってるだろ?」
「うん」
「だから、葵依もそのうち行けるんじゃないかって、どこかで思ってた」
私は黙った。
やっぱり、家族の中でも、そう思われていたんだ。
少しだけ視線を落とす。
「……そっか」
「でも」
颯斗が続けた。
「それって、俺の基準なんだよな」
私は顔を上げた。
「俺は学校に行けてる。だから葵依も行けるはずって考えてた。でも、同じじゃないよな」
「……うん」
「ごめん」
その言葉に、私は少し驚いた。
「お兄ちゃんが謝ることじゃ……」
「あるよ」
お兄ちゃんは、珍しく真面目な顔をしていた。
「もっと早く聞けばよかった」
私は何も言えなかった。しばらく沈黙が続く。
するとお兄ちゃんが、
「……俺さ」
と言った。
「葵依が学校に行かなくなってから、家に帰ってくるとき、ちょっとだけ気を使ってた」
「え?」
「何話したらいいんだろうって」
「……知らなかった」
「だろうな」
颯斗は笑った。
「葵依、部屋から出てこなかったし」
「……それは」
「分かってる。出たくなかったんだろ」
私は少しだけ黙った。
中学三年生の一学期。
あの頃の私は、学校から帰ってくると、すぐ自分の部屋に入っていた。
家族と顔を合わせるのが嫌だったわけじゃない。何かを聞かれるのが怖かった。
『今日どうだった?』
その一言にさえ、何も答えられなかった。
今なら少し分かる。
あの頃の私は、学校で起きたことを言葉にする余裕なんてなかったのだ。
「……あの頃の私」
私はぽつりと言った。
「家でも、変だったよね」
「変じゃないよ」
お兄ちゃんがすぐに答えた。
「ただ、しんどかったんだろ」
その言葉を聞いて、胸の奥が少し熱くなった。
「……うん。そうかもね」
それ以上は言えなかった。でも、お兄ちゃんはそれ以上聞かなかった。
「じゃあ、俺、ゲームしてくるわ」
「……急だね」
「こういうの長く話すの苦手なんだよ」
「知ってる」
「ひど」
二人で少し笑った。
この空気感が、なんとなく心地よかった。
夕食の時間。
珍しく、お母さんも早く帰ってきていた。
三人で食卓を囲む。
最初は、誰もあまり話さなかった。
テレビの音。箸が食器に触れる音。時計の針の音。
そんなものばかりが聞こえる。
私は黙ってご飯を食べていた。
すると、お兄ちゃんが突然、
「母さん」
と言った。
「なに?」
「葵依に学校の話するとき、もうちょっと言い方考えた方がいいと思う」
全員の箸が止まった。お母さんも驚いたように颯斗を見る。
「……急に何?」
「いや、前から思ってた」
「私は葵依のことを心配して……」
「分かってる」
お兄ちゃんはお母さんの言葉を遮るように言った。
「心配してるのは分かってる。でも、心配してることと、言われた側が責められてるように感じることって、別じゃない?」
お母さんは黙った。
私は二人の会話を聞いていた。
「……颯斗まで、そんなこと言うの?」
「そんなことって?」
「私は、葵依にちゃんと学校へ行ってほしいだけよ」
「うん」
「このままずっと家にいるわけにもいかないでしょう?」
「それも分かってる」
「じゃあ……」
「でも、今それを言っても葵依が苦しくなるだけじゃない?」
空気が少し重くなる。
私は下を向いた。
また、二人を困らせている。そう思った。
でも、私は逃げたくなかった。
「……お母さん」
お母さんがこちらを見る。
「なに?」
「私も……ごめんなさいって言うの、もう嫌だった」
お母さんの手が止まった。
「……え?」
「学校に行けないこと」
私は言葉を探した。
「毎回、私が悪いみたいで……」
声が少し震える。
「行けない自分が悪いんだって思ってた」
お母さんは何も言わなかった。
「でも……」
私は続けた。
「本当は、行きたくないんじゃない」
「……」
「怖いの」
その言葉が、食卓の真ん中に落ちた。誰もすぐにはその声を拾わなかった。
やがて母が、
「……そうだったのね」
と言った。
その声は、いつもより小さかった。
「私、葵依がただ行きたくないだけだと思ってた」
「……うん」
「ごめんね」
私はすぐには答えられなかった。
「……まだ」
言いかけたところで、お母さんを見る。
「まだ、全部は無理」
お母さんは少しだけ目を伏せた。
「うん」
「すぐに普通には戻れないと思う」
「うん…」
「でも……」
私は言った。
「今日みたいに、ちょっとずつ話すことなら、できるかもしれない」
お母さんがようやく顔を上げた。
「……わかった」
それだけ言って、少し笑った。
「それなら、十分ね」
その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ軽くなった。
すると、お兄ちゃんが突然、
「そういえば今日さ」
と話題を変えた。
「学校でめちゃくちゃ変なことあってさ」
「いきなり何よ?」
お母さんが聞く。
颯斗は今日学校であった出来事を話し始めた。
どうでもいいような話だった。
先生が授業中に言い間違えたとか。友達が変なことを言っていたとか。
私は最初、黙って聞いていた。
でも、颯斗の話があまりにもくだらなくて、
「それ、お兄ちゃんが悪いんじゃない?」
と思わず言ってしまった。
「なんでだよ!」
「だって、絶対お兄ちゃんが余計なこと言ったんでしょ」
「いやいや、俺は何もしてないって!」
お母さんが笑う。私も笑った。三人で笑う。
その瞬間、ふと思った。
……こういうの、久しぶりだ。
昼間の話しでもない。不登校の話でもない。私のことでもない。
ただ、くだらない話をして笑っている。
その事が、すごく久しぶりな感じがした。
私は味噌汁を一口飲んだ。
いつもと同じ味だった。いつもと同じ食卓。いつもと同じ家。
なのに、やっぱり少しだけ違って見えた。
夜。
自分の部屋に戻り、机の上のノートを開く。
しばらく何も書かずに、白いページを眺めた。
今日のことを、どう書けばいいのか分からない。
悩んだ末、短く書いた。
『今日は、お母さんとお兄ちゃんと話した。』
少し間を空ける。
『久しぶりに、家で笑った。』
そこでペンを止めた。
学校には、まだ行けない。過去のことも、全部乗り越えたわけじゃない。お母さんの言葉を全部許せたわけでもない。
それでも……。
「……少しだけ、変わったのかな」
呟いた。
ゆっくりノートを閉じる。
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面を見る。
迅からだった。
『今日どうだった?』
私は少し考えてから返信する。
『家族と話した』
すぐに既読がついた。
『お、珍しい』
『もう!失礼』
『で、どうだった?』
『……ちょっと疲れた』
『そりゃそうだろ』
『でも、悪くなかった』
しばらくして、迅から返事が来る。
『それなら十分じゃん』
私は画面を見つめた。
「……またそれ」
思わず笑ってしまう。
昨日も似たようなことを言われた気がする。
『迅って、すぐ「十分」って言うよね』
送る。
少しして、
『だって、十分だから』
と返ってきた。
私は何となく、その言葉を何度も読み返した。
それから、
『……ありがと』
と送った。
『どういたしまして』
それだけなのに、スマートフォンを置いたあとも、なんだか少し気持ちが明るかった。
同じ頃。
迅は自分の部屋でスマートフォンを眺めていた。
葵依から届いた「ありがと」の文字。
たったそれだけなのに、妙に嬉しい。
「……なんなんだろ」
自分でもよく分からなかった。
最近、葵依からメッセージが来ると、自然とスマートフォンを手に取ってしまう。
学校で何かあった日も。帰り道も。家に帰ってからも。
ふとした瞬間に、彼女のことを考えている。
でも、それを深く考えることはしなかった。
考えたところで、自分でも答えが分からないからだ。
迅はスマートフォンを伏せた。
明日のことを思い出す。
結構悩みに迷ってから、メッセージを打った。
『明日、ちょっと付き合ってほしいことがある』
送信。
すぐに返信が来た。
『何?』
迅は少し笑った。
『明日になったら分かる』
『……怪しい』
『大丈夫だって』
少し間が空く。
やがて、
『……わかった』
と返ってきた。
俺はスマートフォンを置いた。
明日……。待ちきれない。
きっと、葵依にとって驚くことになる。
でも、まだそれを伝えるつもりはなかった。
私はベッドに横になった。
明日、何があるんだろう。
迅が「付き合ってほしい」と言うくらいだから、何かあるのだろう。
少しだけ不安だった。
以前なら、分からないことがあるだけで怖くなっていたと思う。だけど、今は違う。
分からない事は、明日になれば分かる。
それでいい。
私は目を閉じた。
今日の食卓を思い出す。
お母さんの声。お兄ちゃんの笑い声。自分の笑い声。そして、迅から届いたメッセージ。
ひとりの時間は、今でも嫌いじゃないし、苦でもない。
静かな部屋も好きだ。
でも…。
ひとりじゃない時間も、全部が嫌なわけではないのかもしれない。
そんなことを考えながら、私はゆっくり眠りについた。
