昼過ぎ。
私はリビングの窓際に座っていた。
蝉の声が外から聞こえる。道路には強い日差しが照りつけていて、遠くの景色が少し揺らいで見えた。いつもなら、そんな景色をただ眺めて終わる。
でも今日は…。
ふと、玄関の方を見た。
外へ出てみようかな。そう思った。
理由はない。迅との約束でもない。誰かに頼まれたわけでもない。ただ、自分で決めてみたかった。
私はすぐに立ち上がった。決心したからには出来るだけ早くに実行したい。
玄関へ向かい、靴を履いた。ドアの前に立つ。
少しだけ緊張した。それでも、今日は逃げる前に一つ考えてみた。
――私は、どうしたい?
答えは…。
少しだけ外へ出てみたい、だった。
私はドアを開けた。
眩しい。夏の日差しに目を細める。家の前の道路。いつもの景色。変わりない光景だ。
私は外へ出た。数メートル歩く。そして、立ち止まった。
周りには誰もいない。風が少し吹いていて、木の葉が少し揺れているだけ。
私は空を見上げた。
青い。どこか、あの日行った海と似ている。
いつも家の中から見ていた空と、何も変わらない。
なのに。
外で見ると、かなり違って見えた。
「……」
私はしばらくそこにいた。そして、自分から家へ戻った。
たった数メートルだけだった。それなのに、ものすごく遠くまで来たような気がした。
「……できた」
小さく呟く。誰かに褒めてもらうためではない。
ただ、自分で決めて、自分で外へ出た。
その事実が少しだけ嬉しかった。
夜。
私はノートを開いた。
今日のことを書く。
『今日は家の前まで出た。』
少し考えてから。
『怖かった。』
『でも、自分で出ると決めた。逃げなかった。』
最後に。
『誰かに言われたからじゃない。』
私はその文章を見て、少し笑った。
小さなことだ。
たった家の前まで。
でも。
私にとっては、今日一番の大きな進歩だ。
そして、私はノートに追記した。これは、絶対に書いておくべきだと私の勘が言っている。
『明日は、もう少しだけ先まで行ってみたい。』と。
次の日。
私は外へ出なかった。朝からは何となく気分が重くなって、窓を開ける気にもなれない。昨日は外へ出られた。だから今日も出なければ…。そんな考えが頭に浮かんだ。
けれどもすぐに打ち消した。昨日できたからって、今日もできなければいけないわけじゃない。
私はベッドの上でしばらく本を読んだ。その後、塾の授業を受けた。
昼になって、お腹が空いた。勉強した後だからか、思ったより疲れた。
冷蔵庫を開ける。隅々まで覗いたが、飲み物がない。
私は少し考えた。
「……買いに行こうかな」
昨日までなら、『面倒だからいいや』で終わっていたかもしれない。
でも、今回は自分で決めてみた。
コンビニまでの道は、昨日より少し長く感じた。
人とすれ違う。自転車が通る。車の音がする。そのたびに、身体が少し強張る。
途中で制服姿の学生とすれ違った。
胸の奥がざわつく。足が止まりそうになる。けれど、その学生は私の横を通り過ぎただけだった。
何も言わない。振り返りもしない人。私はその背中を見送った。
それからまた歩き進め、コンビニに入る。
冷房の風が頬に当たる。外が暑くて汗もかいているから、心地良く感じる。
飲み物を一本取り、レジへ向かう。
「いらっしゃいませ」
「……お願いします」
自分でも分かるくらい、声が小さかった。
それでも店員さんは何も気にせず、会計をしてくれた。終始ずっと笑顔だった。
「ありがとうございました」
「……ありがとうございました」
店を出ると、いきなり熱風に襲われた。夏は本当に暑い。もうすぐで夏休みも明けるというのに…。
…私は袋を持ったまま、少し立ち止まった。周りを見回す。
何も起こらなかった。
誰かに何かを言われたわけでもない。
もちろんのこと、私を見た人はいた。白い髪だから、目に入ることくらいある。
でも、見ることと、傷つけることは同じじゃない。
その当たり前のことを、私は初めて実感した。
帰宅すると、私は買ってきた飲み物を冷蔵庫へ入れた。
それからノートを開いた。
『今日はコンビニに行った。』
『人に見られるのは、やっぱり怖かった。』
『でも、見られただけで何かが起こるわけじゃなかった。』
そこで少し考える。
『怖いことと、嫌なことは、全部同じじゃないのかもしれない。』
書いた後、私はその文章をしばらく眺めた。
今までの私なら、『怖い』と『危ない』を同じように考えていたのかもしれない。
もちろん、怖いと感じたら無理をする必要はない。
帰ってもいいし、立ち止まってもいい。
でも、怖いと感じた瞬間に、必ず逃げなければいけないわけでもない。
そのことを、少しだけ、本当に少しだけだが知った。
その日の夜。
スマートフォンが震えた。
迅からだった。
『今日どうだった?』
私は少し考えてから送る。
『コンビニ行った』
すぐに返信が来る。
『おお』
『すごいじゃん』
『そんなに?』
『そんなに』
『コンビニだよ?』
『葵依にとっては、そうじゃないだろ』
私は画面を見つめた。
そして、少しだけ笑った。
『……まあ、そうだけど』
『でしょ』
私は少し迷ってから。
『途中で制服の人とすれ違った』
『うん』
『ちょっと怖かった』
『そりゃ怖いよな』
それだけだった。
もっと頑張れ。次は駅まで。
決して迅はそんなことを言わない。
『でも行けたんだろ?』
『うん』
『じゃあ、それでいいじゃん』
私は画面を見つめる。
まただ。
迅はいつも、できなかったことではなく、できたことを見てくれる。
『ありがとう』
そう送る。
『どういたしまして』
少し間が空く。
『明日は?』
私は少し考えた。
『明日になったら決める』
『それがいい』
その短いやり取りが、なぜか嬉しかった。
私はスマートフォンを机に置いた。
そして、また手に取り、画面を開く。
『それがいい』
たった四文字なのに。
その一言に、私は少し笑っていた。
それから数日。
私は毎日外へ出たわけではない。
何もしたくない日もあった。
窓の外を見るだけで終わった日もあった。
でも、以前とは少し違っていた。
外へ出られなかった日に、『また何もできなかった』と、自分を責めることが減った。
できる日もある。できない日もある。
それだけ。そう思えるようになっていた。認められるようになった。自分を許せるようになった。
ある日の午後。
私は駅まで行ってみることにした。なんとなく行こう、と思っただけだった。
コンビニより遠いし、人も多い。
駅が近づくにつれて、胸の奥が落ち着かなくなっていく。
けれど、私は途中で立ち止まらなかった。
駅前に着く。
たくさんの人がいる。その中には笑っている人がいて、誰かに電話をしている人もいる。急いで走っている人もいる。
やっている事も、様々。
私はその光景を見ていた。
今まで、私は『人』と『私』を分けて考えていた。
あちら側に人がいて、こちら側に私がいる。
でも、ここにいる人達は、誰も私の過去を知らない。私も、私以外の誰の過去も知らない。
この一瞬、同じ場所にいるだけの人達。
私は駅の中へ入った。
改札の前まで行く。
怖い。帰りたい。行ってみたい。足が動かない。
とぐろを巻くように感情が交差する。
そてでも、私はここまで来た。
私は鞄を握り直す。
深呼吸。
吸って、吐く。
それから、駅の中へ入った。
視線。いくつかの視線を感じる。私は俯きそうになる。
でも、負けてたまるか!
勇気を出して、顔を上げた。
私はゆっくり歩いた。
ホームへ向かう。電車が到着する。大きな音に、少し驚いた。
結局、電車には乗らなかった。
でも、その場から逃げなかった。
ホームの端、人の少ない場所で立ち止まる。
空を見上げる。
やっぱり青い。清々しいとも思える程に。
いつも家の中から見ていた空と同じなのに、やっぱり外からでは少し違って見えた。
今日はここまで。
そう決めて、私はベンチに座った。
思っていたより何も起こらなかった。
電車が来る。人が乗る。人が降りる。また電車が来る。
そんな光景を眺めているうちに、私は少しだけ落ち着いてきた。
スマートフォンを取り出す。迅とのメッセージを開く。
少し迷って、
『駅まで来た』
と送った。
すぐに、
『ほんと?』
『うん』
『すご』
『人多い』
『そりゃ駅だからな(笑)』
『うるさい』
『ごめん(笑)』
私は思わず笑った。駅のベンチで。一人で。
私は今、外で笑っている。
そのことが、なんだか嬉しかった。
『今ちょっと笑った』
送る。少しして。
『何で?』
『迅のせい』
『俺?』
『うん』
『じゃあ、もっと笑わせないとな』
私は画面を見つめた。
「……何それ」
思わず声が出る。また笑った。
最近、私の中では何かが一つ変わっていた。
1人で外に出ることが、ただの『練習』ではなくなっていた。
外には、怖いものだけじゃない。
知らない景色も。何気ない会話も。笑える瞬間もある。
そんなことを、私は少しずつ知り始めていた。
その頃。
迅は学校の教室にいた。夏期講習だ。
テストの補講とかではなく、完全に習熟度別の普通の授業だ。まだ夏休みが終わったわけでもないのに、数日前から勉強三昧…。
正直にいうと、もう少し夏休みを謳歌したかった。(泣)
授業も終わった放課後。
昼間は騒がしかった教室も、生徒が減ると急に静かになる。
迅は自分の席でプリントを整理していた。
先生から返された課題。友達が置いていったノート。机の上に散らばった筆記用具。いつも通りの景色。
その中で、迅はふとスマートフォンを取り出した。
葵依からのメッセージ。
『今ちょっと笑った』
『迅のせい』
迅はそれを見て、小さく笑った。
「……なんだよ、それ」
でも…。
嬉しかった。
最近、あまり会えていないからか、葵依から連絡が来るのが楽しみになっている。
葵依が今日、何をしたのか。何があったのか。今、何を考えているのか。
気づけば、そんなことを考えている。
「……頑張ってるよな」
自然と、そんな言葉が出た。
最初に会った頃の葵依は、どこか自分のことを諦めているように見えた。
何を言っても、『どうせ無理』と自分で終わらせてしまいそうな感じ。
それが、少しずつ変わっている。迅は、それが嬉しかった。
でも。果たしてそれだけなのか。
最近は、少しだけ違う気がする。
葵依からメッセージが来ると嬉しい。外へ出られたと聞くと安心する。何をしているのか、ふと気になる。学校にいる間にも、よく思い出す。
そう考えている自分に気づいて、迅は少し笑った。
「……俺、何やってんだろ」
恋愛なんて、まだ考えていなかった。
ただ、気になる。
迅はスマートフォンをしまった。
ふと、教室の後ろへ視線を向ける。
そこには、入学式以来、一つ空いている席がある。
もうずっと、誰も座っていない席。
完全にクラスメイトとは初対面だから、名前も顔も覚えていない。他のみんなも、その子のことは覚えていない。先生も、その話題には触れない。
迅は何となく、その席を見た。
毎日そこにあるのに…。普段は気にも留めない。
けれど、今日はなぜか、少しだけ気になった。
いつか。
ここに誰かが戻ってくるのだろうか。
そんなことを考える。
「本当に、俺…。どうかしてる」
迅は視線を戻した。
「帰ろ」
迅は小さく笑って、鞄を持った。
教室を出る。
廊下を歩きながら、またスマートフォンを見る。
新しいメッセージは来ていない。
それなのに。
なぜか少し待っている自分がいた。
そして― ―。
その席の持ち主が。
今、一番身近に感じている相手だとは。
この時はまだ、知らない。
その夜。
私はノートを開いた。
これまで書いたページを、最初から読み返す。
『今日、迅と話した。』
『私は何が嫌だった?』
『誰の言葉が怖かった?』
『本当はどうしてほしかった?』
そして。
『私が嫌だったのは、アルビノの私じゃない。』
『「普通じゃない」と決めつけられることだった。』
『私が悪かったわけじゃない。』
私はページをめくった。
最近の私は、前よりも少しだけだが、自分の気持ちを言葉にできるようになっていた。
もちろん、全部が分かったわけではない。
まだ外へ出るのも怖いし、人の視線も怖い。学校のことを考えると、今でも胸が苦しくなる。
それでも、確かに分かったことはある。
怖いからといって、全部を諦めなくてもいい。誰かに否定されたからといって、自分まで自分を否定しなくてもいい。私は私のことを、少しずつ、自分で決めていけばいい。
主にこの3つだ。
私は新しいページを開いた。
『私は、普通になりたいわけじゃない。』
その下に。
『私のままでいいと思えるようになりたい。』
書き終えて、私はペンを置いた。
そして。
もう一つだけ。
『いつか、学校に戻れたらいい。』
と書いた。
その文字を見つめる。少し怖かった。学校という言葉は、まだ私にとって、大きな壁だった。
でも、『いつか』と書けた。
それだけで、昨日までとは違う気がした。
翌朝。
私は洗面所へ向かった。
壁一面の鏡。
いつもならできるだけ見ないようにしていた。
顔を洗って、髪を整えて、すぐにその場を離れる。
それがいつもの私だった。
鏡の中の自分を見る。
この姿を好きにならなくてもいい。無理に好きになる必要もない。
だけど、嫌いだと決めつける必要もない。
「……私だ」
それだけ言った。
鏡の中の自分は、何も答えない。
当たり前だ。
でも、なぜか、それでよかった。気が楽に思えた。
私は髪を整えた。
そして、洗面所を後にした。
― ― 自分の姿から逃げずにいられた気がした。
午後。
私は少し遠くまで歩いた。
駅より先の、知らない店や知らない道。
前なら、『知らない場所』というだけで怖かった。
外に出る時には、隣に誰かいてくれた。
もちろん、途中で不安にはなる。人とすれ違えば緊張する。
それでも、私は自分に問いかけた。
――帰りたい?
答えは…。
少し帰りたい。
でも…。
もう少し歩きたい。
それなら、歩けばいい。
私はそう決めた。
誰かに言われたからではない。自分の意思で私は歩いた。
― ―。
目的地で、美味しいと有名なカフェに行き、ケーキと紅茶を飲んだ。
やっぱり、外もすごく素敵なところなんだ。改めて思う。
…昨日よりも一歩足を延ばしてよかった、と心の底から思った。
1人での外の時間を通して、私は少しずつ分かってきた。
私の人生を決めるのは、誰かの言葉じゃない。
『普通』という言葉でもない。
私自身だ。
そのことを、これから少しずつ覚えていけばいい、と。
夕方になって、家へ戻る。靴を脱ぎ、部屋へ籠る。そして、ノートを開く。
今日は、短く書こう。
『今日は少し遠くまで行った。』
『怖かった。』
『でも、自分で帰るか進むかを決めた。』
最後に。
『それが、少し嬉しかった。』
それだけ。
私はノートを閉じた。
以前の私なら、もっとできなきゃ。もっと頑張らなきゃ、と、そう思ったかもしれない。
今日は思わなかった。
今日の私は。
今日の私なりにやった。
それって十分すごい事じゃん!
夜。
スマートフォンが鳴った。
迅からだった。
『今日どこまで行った?』
『駅よりちょっと先』
『結構行ったな』
『途中で帰りたくなったけど』
『でも帰らなかったんだろ?』
『うん』
『じゃあ十分じゃん』
私は笑った。
『迅って、そればっかり』
『何が?』
『十分じゃん、って』
『だって十分だろ』
『……そうかな』
『そうだよ』
私は画面を見つめた。その言葉は、不思議と心に残った。
十分…。
私は、いつも足りないと思っていた。
学校へ行けない。外へ出られない。人と話せない。
だから、自分は駄目なのだと思っていた。
でも、迅は違う。
今日できたことを、そのまま「できた」と言ってくれる。
それが嬉しかった。
私は返信する。
『ありがとう』
『どういたしまして』
少し間があって。
『葵依が少しずつ変わってくの、なんか嬉しい』
私は固まった。
「……」
心臓が、ほんの少しだけ速くなる。
どうしてだろう。ただ『嬉しい』と言われただけなのに。
私は返信画面を開く。
閉じる。
また開く。
何を書けばいいのか分からない。
結局、
『……変なの』
と送った。
『何が?』
『迅が』
『なんでだよ(笑)』
私は笑った。
画面の向こうで、迅も笑っている気がした。
そう思うと、また少し嬉しくなった。
この気持ちが何なのか。
今はまだ分からない。
ただ、迅から連絡が来ると嬉しい。今日あったことを伝えたくなる。話していると、自然に笑える。
今は、それだけでよかった。
私はノートを開いた。
今日までに書いたことを眺める。
最初は、ただ自分の過去を整理したかった。
何が嫌だったのか。誰の言葉が怖かったのか。本当はどうしてほしかったのか。
その答えを書いていくうちに、少しずつだが、自分のことが分かってきた。
私は、普通になりたかったわけじゃない。誰かと同じになりたかったわけでもない。
ただ、私のまま、私として、生きてみたかった。
それが、今の私が見つけた答えだった。
私はページの最後にこう書いた。
『まだ学校は怖い。』
『でも、いつか戻れたらいいと思う。』
そして。
『今は、そう思えただけで十分。』
ペンを置き、ゆっくりノートを閉じる。机の引き出しへしまった。
これは、私だけのノート。
まだ誰にも見せるつもりはない。
ここにしか書けないことが、たくさんある。
でも。
いつか。
このノートに書いていることを、誰かに話せる日が来るかもしれない。
そう思った。
その「誰か」を考えたとき。
自然に、一人の名前が浮かんだ。
「……迅」
名前を呟いた途端、少し恥ずかしくなった。
「なんで迅なんだろ……」
自分で言って。自分で少し笑う。
分からない。
でも、迅に会いたいと思うことが増えた。話したいと思うことも、今日あったことを伝えたいと思うことも、少しずつ増えている。
それが何なのか。今はまだ、答えを出さなくていい。
私はそう思った。
窓の外を見る。
夏の空が、少しずつ冥色に染まっている。
季節は進んでいく。時間も進んでいく。
…時間が進むことを怖いと思っていた。何も変わらないまま、時間だけが過ぎていく気がしていたから。
けれども、今は少し違う。時間が進むなら、私も、少しずつ進んでみてもいい。
一気に変わる必要なんてない。明日、学校へ行けなくてもいい。また外へ出られない日があってもいい。怖くなってしまってもいい。
そのたびに、自分で考えればいい。
どうしたいのか。どうすればいいのか。
誰かではなく、私自身に聞けばいい。
私はそう思った。
同じ頃。
迅も自分の部屋で、スマートフォンを眺めていた。
今日の葵依とのやり取り。
最後に送られてきたメッセージ。
迅はそれを見て、スマートフォンを伏せた。
「……明日、どうしてるかな」
自然に口から出た。
学校へ行けば、いつもの一日が始まる。
朝。授業。休み時間。放課後。変わらない毎日。
でも、最近の迅には、その『いつもの毎日』の中に、少しだけ気になるものが増えていた。
葵依のこと。
連絡が来ると嬉しい。笑っていると聞くと安心するし、何かあれば、話を聞きたいと思う。
それが恋なのか。迅にはまだ分からない。
ただ、頭から離れない。特別な存在になりつつあった。
迅は窓の外を見る。
夏の夜。遠くの明かり。
その先にいる葵依のことを考える。
そして、小さく笑った。
「……明日も連絡来るかな」
私はベッドに入った。
部屋の明かりを消す。途端に暗くなる。
いつもの夜。
でも、以前とは少し違う。
私は目を閉じる。
明日は何をしよう。外へ出るかもしれない。出ないかもしれない。
どちらでもいい。
そのときの自分が決めればいい。
そう思った。そして、ほんの少しだけ。
明日が来ることを待ってみようと思った。
同じ夏の夜。
別々の場所で。
二人はそれぞれ眠りにつこうとしていた。
まだ、二人とも知らない。
自分たちが思っているよりずっと近くに、お互いの日常があることを。
まだ、葵依は知らない。
迅が毎日過ごしている場所のことを。
まだ、迅も知らない。
自分が何気なく過ごしている場所と、葵依の人生が、これから繋がっていくことを。
そして、二人がこれから先、今までとは違う形で。
もう一度向き合うことになることを。
今はまだ、誰も何も知らない。
ただ、同じ時間、同じ空の下で。お互いのことを、ほんの少しだけ、考えていた。
私はリビングの窓際に座っていた。
蝉の声が外から聞こえる。道路には強い日差しが照りつけていて、遠くの景色が少し揺らいで見えた。いつもなら、そんな景色をただ眺めて終わる。
でも今日は…。
ふと、玄関の方を見た。
外へ出てみようかな。そう思った。
理由はない。迅との約束でもない。誰かに頼まれたわけでもない。ただ、自分で決めてみたかった。
私はすぐに立ち上がった。決心したからには出来るだけ早くに実行したい。
玄関へ向かい、靴を履いた。ドアの前に立つ。
少しだけ緊張した。それでも、今日は逃げる前に一つ考えてみた。
――私は、どうしたい?
答えは…。
少しだけ外へ出てみたい、だった。
私はドアを開けた。
眩しい。夏の日差しに目を細める。家の前の道路。いつもの景色。変わりない光景だ。
私は外へ出た。数メートル歩く。そして、立ち止まった。
周りには誰もいない。風が少し吹いていて、木の葉が少し揺れているだけ。
私は空を見上げた。
青い。どこか、あの日行った海と似ている。
いつも家の中から見ていた空と、何も変わらない。
なのに。
外で見ると、かなり違って見えた。
「……」
私はしばらくそこにいた。そして、自分から家へ戻った。
たった数メートルだけだった。それなのに、ものすごく遠くまで来たような気がした。
「……できた」
小さく呟く。誰かに褒めてもらうためではない。
ただ、自分で決めて、自分で外へ出た。
その事実が少しだけ嬉しかった。
夜。
私はノートを開いた。
今日のことを書く。
『今日は家の前まで出た。』
少し考えてから。
『怖かった。』
『でも、自分で出ると決めた。逃げなかった。』
最後に。
『誰かに言われたからじゃない。』
私はその文章を見て、少し笑った。
小さなことだ。
たった家の前まで。
でも。
私にとっては、今日一番の大きな進歩だ。
そして、私はノートに追記した。これは、絶対に書いておくべきだと私の勘が言っている。
『明日は、もう少しだけ先まで行ってみたい。』と。
次の日。
私は外へ出なかった。朝からは何となく気分が重くなって、窓を開ける気にもなれない。昨日は外へ出られた。だから今日も出なければ…。そんな考えが頭に浮かんだ。
けれどもすぐに打ち消した。昨日できたからって、今日もできなければいけないわけじゃない。
私はベッドの上でしばらく本を読んだ。その後、塾の授業を受けた。
昼になって、お腹が空いた。勉強した後だからか、思ったより疲れた。
冷蔵庫を開ける。隅々まで覗いたが、飲み物がない。
私は少し考えた。
「……買いに行こうかな」
昨日までなら、『面倒だからいいや』で終わっていたかもしれない。
でも、今回は自分で決めてみた。
コンビニまでの道は、昨日より少し長く感じた。
人とすれ違う。自転車が通る。車の音がする。そのたびに、身体が少し強張る。
途中で制服姿の学生とすれ違った。
胸の奥がざわつく。足が止まりそうになる。けれど、その学生は私の横を通り過ぎただけだった。
何も言わない。振り返りもしない人。私はその背中を見送った。
それからまた歩き進め、コンビニに入る。
冷房の風が頬に当たる。外が暑くて汗もかいているから、心地良く感じる。
飲み物を一本取り、レジへ向かう。
「いらっしゃいませ」
「……お願いします」
自分でも分かるくらい、声が小さかった。
それでも店員さんは何も気にせず、会計をしてくれた。終始ずっと笑顔だった。
「ありがとうございました」
「……ありがとうございました」
店を出ると、いきなり熱風に襲われた。夏は本当に暑い。もうすぐで夏休みも明けるというのに…。
…私は袋を持ったまま、少し立ち止まった。周りを見回す。
何も起こらなかった。
誰かに何かを言われたわけでもない。
もちろんのこと、私を見た人はいた。白い髪だから、目に入ることくらいある。
でも、見ることと、傷つけることは同じじゃない。
その当たり前のことを、私は初めて実感した。
帰宅すると、私は買ってきた飲み物を冷蔵庫へ入れた。
それからノートを開いた。
『今日はコンビニに行った。』
『人に見られるのは、やっぱり怖かった。』
『でも、見られただけで何かが起こるわけじゃなかった。』
そこで少し考える。
『怖いことと、嫌なことは、全部同じじゃないのかもしれない。』
書いた後、私はその文章をしばらく眺めた。
今までの私なら、『怖い』と『危ない』を同じように考えていたのかもしれない。
もちろん、怖いと感じたら無理をする必要はない。
帰ってもいいし、立ち止まってもいい。
でも、怖いと感じた瞬間に、必ず逃げなければいけないわけでもない。
そのことを、少しだけ、本当に少しだけだが知った。
その日の夜。
スマートフォンが震えた。
迅からだった。
『今日どうだった?』
私は少し考えてから送る。
『コンビニ行った』
すぐに返信が来る。
『おお』
『すごいじゃん』
『そんなに?』
『そんなに』
『コンビニだよ?』
『葵依にとっては、そうじゃないだろ』
私は画面を見つめた。
そして、少しだけ笑った。
『……まあ、そうだけど』
『でしょ』
私は少し迷ってから。
『途中で制服の人とすれ違った』
『うん』
『ちょっと怖かった』
『そりゃ怖いよな』
それだけだった。
もっと頑張れ。次は駅まで。
決して迅はそんなことを言わない。
『でも行けたんだろ?』
『うん』
『じゃあ、それでいいじゃん』
私は画面を見つめる。
まただ。
迅はいつも、できなかったことではなく、できたことを見てくれる。
『ありがとう』
そう送る。
『どういたしまして』
少し間が空く。
『明日は?』
私は少し考えた。
『明日になったら決める』
『それがいい』
その短いやり取りが、なぜか嬉しかった。
私はスマートフォンを机に置いた。
そして、また手に取り、画面を開く。
『それがいい』
たった四文字なのに。
その一言に、私は少し笑っていた。
それから数日。
私は毎日外へ出たわけではない。
何もしたくない日もあった。
窓の外を見るだけで終わった日もあった。
でも、以前とは少し違っていた。
外へ出られなかった日に、『また何もできなかった』と、自分を責めることが減った。
できる日もある。できない日もある。
それだけ。そう思えるようになっていた。認められるようになった。自分を許せるようになった。
ある日の午後。
私は駅まで行ってみることにした。なんとなく行こう、と思っただけだった。
コンビニより遠いし、人も多い。
駅が近づくにつれて、胸の奥が落ち着かなくなっていく。
けれど、私は途中で立ち止まらなかった。
駅前に着く。
たくさんの人がいる。その中には笑っている人がいて、誰かに電話をしている人もいる。急いで走っている人もいる。
やっている事も、様々。
私はその光景を見ていた。
今まで、私は『人』と『私』を分けて考えていた。
あちら側に人がいて、こちら側に私がいる。
でも、ここにいる人達は、誰も私の過去を知らない。私も、私以外の誰の過去も知らない。
この一瞬、同じ場所にいるだけの人達。
私は駅の中へ入った。
改札の前まで行く。
怖い。帰りたい。行ってみたい。足が動かない。
とぐろを巻くように感情が交差する。
そてでも、私はここまで来た。
私は鞄を握り直す。
深呼吸。
吸って、吐く。
それから、駅の中へ入った。
視線。いくつかの視線を感じる。私は俯きそうになる。
でも、負けてたまるか!
勇気を出して、顔を上げた。
私はゆっくり歩いた。
ホームへ向かう。電車が到着する。大きな音に、少し驚いた。
結局、電車には乗らなかった。
でも、その場から逃げなかった。
ホームの端、人の少ない場所で立ち止まる。
空を見上げる。
やっぱり青い。清々しいとも思える程に。
いつも家の中から見ていた空と同じなのに、やっぱり外からでは少し違って見えた。
今日はここまで。
そう決めて、私はベンチに座った。
思っていたより何も起こらなかった。
電車が来る。人が乗る。人が降りる。また電車が来る。
そんな光景を眺めているうちに、私は少しだけ落ち着いてきた。
スマートフォンを取り出す。迅とのメッセージを開く。
少し迷って、
『駅まで来た』
と送った。
すぐに、
『ほんと?』
『うん』
『すご』
『人多い』
『そりゃ駅だからな(笑)』
『うるさい』
『ごめん(笑)』
私は思わず笑った。駅のベンチで。一人で。
私は今、外で笑っている。
そのことが、なんだか嬉しかった。
『今ちょっと笑った』
送る。少しして。
『何で?』
『迅のせい』
『俺?』
『うん』
『じゃあ、もっと笑わせないとな』
私は画面を見つめた。
「……何それ」
思わず声が出る。また笑った。
最近、私の中では何かが一つ変わっていた。
1人で外に出ることが、ただの『練習』ではなくなっていた。
外には、怖いものだけじゃない。
知らない景色も。何気ない会話も。笑える瞬間もある。
そんなことを、私は少しずつ知り始めていた。
その頃。
迅は学校の教室にいた。夏期講習だ。
テストの補講とかではなく、完全に習熟度別の普通の授業だ。まだ夏休みが終わったわけでもないのに、数日前から勉強三昧…。
正直にいうと、もう少し夏休みを謳歌したかった。(泣)
授業も終わった放課後。
昼間は騒がしかった教室も、生徒が減ると急に静かになる。
迅は自分の席でプリントを整理していた。
先生から返された課題。友達が置いていったノート。机の上に散らばった筆記用具。いつも通りの景色。
その中で、迅はふとスマートフォンを取り出した。
葵依からのメッセージ。
『今ちょっと笑った』
『迅のせい』
迅はそれを見て、小さく笑った。
「……なんだよ、それ」
でも…。
嬉しかった。
最近、あまり会えていないからか、葵依から連絡が来るのが楽しみになっている。
葵依が今日、何をしたのか。何があったのか。今、何を考えているのか。
気づけば、そんなことを考えている。
「……頑張ってるよな」
自然と、そんな言葉が出た。
最初に会った頃の葵依は、どこか自分のことを諦めているように見えた。
何を言っても、『どうせ無理』と自分で終わらせてしまいそうな感じ。
それが、少しずつ変わっている。迅は、それが嬉しかった。
でも。果たしてそれだけなのか。
最近は、少しだけ違う気がする。
葵依からメッセージが来ると嬉しい。外へ出られたと聞くと安心する。何をしているのか、ふと気になる。学校にいる間にも、よく思い出す。
そう考えている自分に気づいて、迅は少し笑った。
「……俺、何やってんだろ」
恋愛なんて、まだ考えていなかった。
ただ、気になる。
迅はスマートフォンをしまった。
ふと、教室の後ろへ視線を向ける。
そこには、入学式以来、一つ空いている席がある。
もうずっと、誰も座っていない席。
完全にクラスメイトとは初対面だから、名前も顔も覚えていない。他のみんなも、その子のことは覚えていない。先生も、その話題には触れない。
迅は何となく、その席を見た。
毎日そこにあるのに…。普段は気にも留めない。
けれど、今日はなぜか、少しだけ気になった。
いつか。
ここに誰かが戻ってくるのだろうか。
そんなことを考える。
「本当に、俺…。どうかしてる」
迅は視線を戻した。
「帰ろ」
迅は小さく笑って、鞄を持った。
教室を出る。
廊下を歩きながら、またスマートフォンを見る。
新しいメッセージは来ていない。
それなのに。
なぜか少し待っている自分がいた。
そして― ―。
その席の持ち主が。
今、一番身近に感じている相手だとは。
この時はまだ、知らない。
その夜。
私はノートを開いた。
これまで書いたページを、最初から読み返す。
『今日、迅と話した。』
『私は何が嫌だった?』
『誰の言葉が怖かった?』
『本当はどうしてほしかった?』
そして。
『私が嫌だったのは、アルビノの私じゃない。』
『「普通じゃない」と決めつけられることだった。』
『私が悪かったわけじゃない。』
私はページをめくった。
最近の私は、前よりも少しだけだが、自分の気持ちを言葉にできるようになっていた。
もちろん、全部が分かったわけではない。
まだ外へ出るのも怖いし、人の視線も怖い。学校のことを考えると、今でも胸が苦しくなる。
それでも、確かに分かったことはある。
怖いからといって、全部を諦めなくてもいい。誰かに否定されたからといって、自分まで自分を否定しなくてもいい。私は私のことを、少しずつ、自分で決めていけばいい。
主にこの3つだ。
私は新しいページを開いた。
『私は、普通になりたいわけじゃない。』
その下に。
『私のままでいいと思えるようになりたい。』
書き終えて、私はペンを置いた。
そして。
もう一つだけ。
『いつか、学校に戻れたらいい。』
と書いた。
その文字を見つめる。少し怖かった。学校という言葉は、まだ私にとって、大きな壁だった。
でも、『いつか』と書けた。
それだけで、昨日までとは違う気がした。
翌朝。
私は洗面所へ向かった。
壁一面の鏡。
いつもならできるだけ見ないようにしていた。
顔を洗って、髪を整えて、すぐにその場を離れる。
それがいつもの私だった。
鏡の中の自分を見る。
この姿を好きにならなくてもいい。無理に好きになる必要もない。
だけど、嫌いだと決めつける必要もない。
「……私だ」
それだけ言った。
鏡の中の自分は、何も答えない。
当たり前だ。
でも、なぜか、それでよかった。気が楽に思えた。
私は髪を整えた。
そして、洗面所を後にした。
― ― 自分の姿から逃げずにいられた気がした。
午後。
私は少し遠くまで歩いた。
駅より先の、知らない店や知らない道。
前なら、『知らない場所』というだけで怖かった。
外に出る時には、隣に誰かいてくれた。
もちろん、途中で不安にはなる。人とすれ違えば緊張する。
それでも、私は自分に問いかけた。
――帰りたい?
答えは…。
少し帰りたい。
でも…。
もう少し歩きたい。
それなら、歩けばいい。
私はそう決めた。
誰かに言われたからではない。自分の意思で私は歩いた。
― ―。
目的地で、美味しいと有名なカフェに行き、ケーキと紅茶を飲んだ。
やっぱり、外もすごく素敵なところなんだ。改めて思う。
…昨日よりも一歩足を延ばしてよかった、と心の底から思った。
1人での外の時間を通して、私は少しずつ分かってきた。
私の人生を決めるのは、誰かの言葉じゃない。
『普通』という言葉でもない。
私自身だ。
そのことを、これから少しずつ覚えていけばいい、と。
夕方になって、家へ戻る。靴を脱ぎ、部屋へ籠る。そして、ノートを開く。
今日は、短く書こう。
『今日は少し遠くまで行った。』
『怖かった。』
『でも、自分で帰るか進むかを決めた。』
最後に。
『それが、少し嬉しかった。』
それだけ。
私はノートを閉じた。
以前の私なら、もっとできなきゃ。もっと頑張らなきゃ、と、そう思ったかもしれない。
今日は思わなかった。
今日の私は。
今日の私なりにやった。
それって十分すごい事じゃん!
夜。
スマートフォンが鳴った。
迅からだった。
『今日どこまで行った?』
『駅よりちょっと先』
『結構行ったな』
『途中で帰りたくなったけど』
『でも帰らなかったんだろ?』
『うん』
『じゃあ十分じゃん』
私は笑った。
『迅って、そればっかり』
『何が?』
『十分じゃん、って』
『だって十分だろ』
『……そうかな』
『そうだよ』
私は画面を見つめた。その言葉は、不思議と心に残った。
十分…。
私は、いつも足りないと思っていた。
学校へ行けない。外へ出られない。人と話せない。
だから、自分は駄目なのだと思っていた。
でも、迅は違う。
今日できたことを、そのまま「できた」と言ってくれる。
それが嬉しかった。
私は返信する。
『ありがとう』
『どういたしまして』
少し間があって。
『葵依が少しずつ変わってくの、なんか嬉しい』
私は固まった。
「……」
心臓が、ほんの少しだけ速くなる。
どうしてだろう。ただ『嬉しい』と言われただけなのに。
私は返信画面を開く。
閉じる。
また開く。
何を書けばいいのか分からない。
結局、
『……変なの』
と送った。
『何が?』
『迅が』
『なんでだよ(笑)』
私は笑った。
画面の向こうで、迅も笑っている気がした。
そう思うと、また少し嬉しくなった。
この気持ちが何なのか。
今はまだ分からない。
ただ、迅から連絡が来ると嬉しい。今日あったことを伝えたくなる。話していると、自然に笑える。
今は、それだけでよかった。
私はノートを開いた。
今日までに書いたことを眺める。
最初は、ただ自分の過去を整理したかった。
何が嫌だったのか。誰の言葉が怖かったのか。本当はどうしてほしかったのか。
その答えを書いていくうちに、少しずつだが、自分のことが分かってきた。
私は、普通になりたかったわけじゃない。誰かと同じになりたかったわけでもない。
ただ、私のまま、私として、生きてみたかった。
それが、今の私が見つけた答えだった。
私はページの最後にこう書いた。
『まだ学校は怖い。』
『でも、いつか戻れたらいいと思う。』
そして。
『今は、そう思えただけで十分。』
ペンを置き、ゆっくりノートを閉じる。机の引き出しへしまった。
これは、私だけのノート。
まだ誰にも見せるつもりはない。
ここにしか書けないことが、たくさんある。
でも。
いつか。
このノートに書いていることを、誰かに話せる日が来るかもしれない。
そう思った。
その「誰か」を考えたとき。
自然に、一人の名前が浮かんだ。
「……迅」
名前を呟いた途端、少し恥ずかしくなった。
「なんで迅なんだろ……」
自分で言って。自分で少し笑う。
分からない。
でも、迅に会いたいと思うことが増えた。話したいと思うことも、今日あったことを伝えたいと思うことも、少しずつ増えている。
それが何なのか。今はまだ、答えを出さなくていい。
私はそう思った。
窓の外を見る。
夏の空が、少しずつ冥色に染まっている。
季節は進んでいく。時間も進んでいく。
…時間が進むことを怖いと思っていた。何も変わらないまま、時間だけが過ぎていく気がしていたから。
けれども、今は少し違う。時間が進むなら、私も、少しずつ進んでみてもいい。
一気に変わる必要なんてない。明日、学校へ行けなくてもいい。また外へ出られない日があってもいい。怖くなってしまってもいい。
そのたびに、自分で考えればいい。
どうしたいのか。どうすればいいのか。
誰かではなく、私自身に聞けばいい。
私はそう思った。
同じ頃。
迅も自分の部屋で、スマートフォンを眺めていた。
今日の葵依とのやり取り。
最後に送られてきたメッセージ。
迅はそれを見て、スマートフォンを伏せた。
「……明日、どうしてるかな」
自然に口から出た。
学校へ行けば、いつもの一日が始まる。
朝。授業。休み時間。放課後。変わらない毎日。
でも、最近の迅には、その『いつもの毎日』の中に、少しだけ気になるものが増えていた。
葵依のこと。
連絡が来ると嬉しい。笑っていると聞くと安心するし、何かあれば、話を聞きたいと思う。
それが恋なのか。迅にはまだ分からない。
ただ、頭から離れない。特別な存在になりつつあった。
迅は窓の外を見る。
夏の夜。遠くの明かり。
その先にいる葵依のことを考える。
そして、小さく笑った。
「……明日も連絡来るかな」
私はベッドに入った。
部屋の明かりを消す。途端に暗くなる。
いつもの夜。
でも、以前とは少し違う。
私は目を閉じる。
明日は何をしよう。外へ出るかもしれない。出ないかもしれない。
どちらでもいい。
そのときの自分が決めればいい。
そう思った。そして、ほんの少しだけ。
明日が来ることを待ってみようと思った。
同じ夏の夜。
別々の場所で。
二人はそれぞれ眠りにつこうとしていた。
まだ、二人とも知らない。
自分たちが思っているよりずっと近くに、お互いの日常があることを。
まだ、葵依は知らない。
迅が毎日過ごしている場所のことを。
まだ、迅も知らない。
自分が何気なく過ごしている場所と、葵依の人生が、これから繋がっていくことを。
そして、二人がこれから先、今までとは違う形で。
もう一度向き合うことになることを。
今はまだ、誰も何も知らない。
ただ、同じ時間、同じ空の下で。お互いのことを、ほんの少しだけ、考えていた。
