迅は、何を私に話したいんだろう。
家族のことなのか。迅自身のことなのか。それとも、私に関係することなのか。
……全然わからない。
いろいろ考えているうちに、頭の中がいっぱいになってしまう。
考えていると、
「ごめん、待った?」
声がした。声がした方向に振り向くと、目の前には迅が立っていた。
「ううん。ついさっき来たところ」
「ほんと?」
「うん」
「ならよかった」
迅はいつものように笑った。その笑顔を見て、私は少し安心した。
「暑いね」
「……うん」
「アイス食べたい」
「急に?今言う事?」
「だって暑いじゃん」
そう言って笑う。
いつもの迅。
明るくて。話しやすくて。誰とでもすぐに仲良くなれて。
私とは正反対の人。
「……何?」
迅がじーっとこちらを見る。
「え?」
「さっきから俺のこと見てる」
「……見てない」
「見てたじゃん」
「見てないって」
「絶対見てた」
迅が笑う。
私は少しだけ目をそらした。
こういうところも、迅らしい。
重たい空気になりそうになると、すぐに冗談を言う。相手が困っていると、笑わせようとする。誰かが黙っていると、優しく、気さくに話しかける。
それが、迅の優しさなんだと思っていた。
だけど、今日は、少し違った。
「……迅」
「ん?」
「昨日、話したいことがあるって言ってたよね」
「ああ」
迅の表情が、一瞬だけ変わった。
本当に一瞬だった。
けれど私は気づいた。
いつもの笑顔が消えた。
「……うん」
「何?」
「その前にさ― ―」
改札を出てから、とにかく歩いた。
住宅街を抜け、大きな道路を渡る。
しばらくすると、建物が少なくなっていった。聞こえてくる音も、少しずつ変わっていく。
車の音。人の話し声。自転車のベル。そういう街の音が遠ざかっていく。
その代わりに、風の音が大きくなった。
「……もうすぐ」
前を歩く迅が振り返る。私は小さく頷いた。
海なんて、いつぶりだろう。昔、家族で行ったことはある。でも、最近はほとんど外に出なかったから、海を見るのも久しぶりだった。
そして、坂を下った先。
視界が一気に開けた。
「……わ」
青い。
空も、海も。
どこまでも続いているように見えた。
砂浜には、ほとんど人がいない。遠くに数人いるだけ。
波が寄せては、静かに戻っていく。
「ここ……」
私が呟くと、迅が少し照れたように笑った。
「俺の場所」
「迅の?」
「うん」
迅は靴を脱いで、砂浜に座った。私は少し迷ってから、その隣に座る。
潮の匂いがした。風が髪を揺らす。白い髪が顔にかかって、私は手で押さえた。すると迅が海を見ながら言った。
「葵依ってさ、俺のこと、どう思ってる?」
「……え?」
思わず迅を見る。迅は笑っていなかった。
「いや、変な意味じゃなくて」
「……変な意味?」
「そういう言い方すると余計変だな」
迅は困ったように笑った。
「ただ……俺って、どんな人に見える?」
私は考えた。
「明るくて」
「優しい」
「……あと、話しやすい」
「それ、よく言われる」
迅は少しだけ笑った。
「他には?」
「他……」
私は言葉を探す。そして、ふと思った。
「…無理してる?」
迅の笑顔が止まった。
風が吹いた。波が音を立てる。
「……なんでそう思った?」
「なんとなく」
「いつもそう見える?」
「いいや、今日だけ」
「そっか」
迅は前を向いた。しばらく何も言わなかった。私は黙って待った。
以前の私なら、きっと何か話しかけていた。
沈黙が怖かったから。相手が嫌な気持ちになっているのではないかと思って、必死に言葉を探した。
でも今は、迅が話すまで待とうと思った。
「俺さ」
やがて、迅が口を開いた。
「中学のとき、サッカー部だったんだ」
「知ってる」
「そっか」
「前に少し話してたよね」
「うん。でも……ちゃんと話したことなかったから」
迅は膝を抱えるようにして、海を見つめた。
「中学の頃、俺、結構サッカー頑張ってたんだ」
「今も好き?」
「好きだよ」
即答だった。
その声には、少しだけ昔を懐かしむような響きがあった。
「でも……一回、部活でもめたことがあって」
私は何も言わずに聞いた。
「仲良かったやつと、意見が合わなくなったんだ」
練習のこと。試合のこと。誰がどうするべきだったのか。
最初は、小さな意見の違いだった。
でも、それが少しずつ大きくなって。
気づいた時には、すでに言い合いになっていた。
「俺、相手に嫌われたくなくてさ」
迅は苦笑した。
「だから、言いたいことをちゃんと言えなかった」
「……」
「そのくせ、分かってほしいって思ってた」
私は海を見る。波が一つ、砂浜に近づいてきた。
「それって……難しいね」
「うん。めちゃくちゃ難しかった」
迅は笑った。でも、今度の笑顔は少し寂しかった。
「結局、その友達とはしばらく話せなくなった」
「……仲直りしたの?」
「した」
「よかった」
「うん」
しばらく沈黙が続いた。
でも。
迅は逃げなかった。
いつものように笑って、話を変えることもしなかった。
ただ海を見ていた。
「そのあと、どうなったの?」
「しばらく話さなくなった」
「……」
「部活には行ってたけど、前みたいには話せなかった」
その言葉には、少し寂しさが混ざっていた。
「それが結構きつくてさ」
迅が苦笑する。
「俺、周りには普通にしてたんだよ」
「普通に?」
「うん。笑って。みんなと話して…」
「でも、それ以来かな」
「何が?」
「俺が、人に嫌われるのを怖がるようになったの」
その言葉に、胸が少しだけ詰まった。
迅はいつも明るい。誰とでも話せる。自然に人との距離を縮める。私はずっと、そういう人なんだと思っていた。
…でも、私の目に映っていた迅は、実は違ったのかもしれない。
「……無理してた?」
「たぶん」
迅は少し考えてから答えた。
「無理してたんだと思う」
私は迅を見た。
初めて見る表情だった。いつもの明るい迅じゃない。少し疲れていて。どこか寂しそうで。
でも、それを隠そうとしていない。
「それでさ」
迅は続ける。
「俺さ、いつも明るくしてるじゃん?」
「そうだね」
「別に、ずっと楽しいわけじゃないんだよ」
迅が笑う。
「しんどいときもあるし、何もしたくない日もある」
「……そんな日あるんだ」
「あるよ。普通に」
初めて聞いた。迅にも、そんな日がある。
「だからさ」
迅が海を見ながら言った。
「中学からは、そういう時に、ここに来るようになった」
「……海に?」
「うん」
迅は頷いた。
「家に帰っても、部活のこと考えちゃうし。学校でも誰かと話さないといけないし」
風が吹く。波の音が、言葉の間を埋める。
「ここなら、誰もいないから」
「……」
「弱音吐いてもいいんだよ」
迅は砂浜を見ながら笑った。
「誰にも聞かれないし」
その言葉が、妙に胸に残った。
「だから、何回も来た」
「何回も?」
「うん」
「一人で?」
「一人で」
迅は少し笑う。
「ここで『もう無理』って思ったこともあるし、呟いたこともある」
その言葉に、私は迅を見る。けれど迅は、すぐに続けた。
「でも、しばらく海見てると、ちょっとだけ落ち着くんだよ」
私は黙っていた。
「それで、帰る」
簡単な言葉だった。
でも、その繰り返しが、迅にとって、この場所がどれだけ大切なのかを教えてくれた。
「……だから、ここは俺の逃げ場所」
迅はそう言って笑った。
「逃げ場所?」
「うん」
少し恥ずかしそうに。
「俺だって逃げるんだよ」
私は思わず笑ってしまった。
「何?」
「いや……」
「笑った?」
「ちょっとだけ」
「ひど」
迅も笑った。
二人の笑い声が、風に乗って海の向こうへ消えていく。
私は、そんな時間が好きだと思った。
誰かといるのに、無理に話さなくていい。笑わなくてもいい。何かを説明しなくてもいい。ただ隣にいるだけでいい。
そんな時間があることを、私は知らなかった。
私は黙って海を見た。
迅が海で過ごす時間は、私が家にいるときと少し似ている気がした。
誰にも見られない。何も言われない。ただ、一人でいられる時間。
『ひとりのじかん』
でも、迅にとっての海は、私にとっての部屋とは少し違う。
逃げるためだけじゃない。なんとか自分を取り戻すための場所なのかもしれない。
「あ、あとさ」
迅が思いついたと言わんばかりに言い出す。
「葵依と話してると、頑張らなくていい気がするんだよな」
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
「……どうして?」
「分かんない」
「分かんないの?」
「うん」
迅は苦笑した。
「葵依って、無理に話さないじゃん」
「……それは」
「沈黙してても、別に怒らないし」
「怒らないよ」
「俺が変なこと言っても、無理に笑わないし」
「……それは、迅が変なこと言うから」
「ほら」
迅が笑った。
「そういうところ」
「どういうところ?」
「ちゃんと本当のこと言うところ」
私は黙った。そんなことを言われたのは初めてだった。
「俺、今までずっと、人に合わせることばっかり考えてたから」
「…」
「でも葵依といると、なんか……そのままでいいのかなって思える」
私は何も言えなかった。その言葉が、なぜか嬉しかった。でも同時に、少し怖かった。
誰かに必要とされることに、私は慣れていなかったから。
「だから、話したかった」
「……何を?」
「俺にも、こういうところがあるってこと」
迅は小さく笑った。
「葵依だけが秘密を抱えてるんじゃないって、知ってほしかった」
「……ありがとう」
聞こえませんように、と願いながら小さく呟いた。
聞こえたのだろう。迅は少し驚いた顔をした。
「何が?」
「話してくれて」
「こっちこそ」
「え?」
「聞いてくれてありがとう」
それから、二人とも黙った。同じようにして海を見る。
黙っているのに、不思議と気まずくなかった。
しばらくして、迅がふっと立ち上がった。
「……さて」
「?」
私は座ったまま迅を見上げる。迅は海を見た。そして、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「せっかく海来たんだし」
「?」
「入ろうぜ」
「……え?」
「海」
「いや、分かってるけど」
私は目を丸くした。
「入るの?」
「入る」
「今?」
「今」
迅は即答した。
「でも、服……」
「浅いところだけなら大丈夫だろ」
「……」
私は海を見る。
さっきまで眺めていた海が、急に別のものに見えてきた。
「私、海に入ったこと……」
言いかけて、少し考える。
「たぶん、ちゃんと入ったのは小学生のときが最後」
「じゃあ久しぶりじゃん」
「うん」
「怖い?」
「……ちょっと」
正直に言う。すると迅は笑った。
「じゃあ、浅いところだけ」
「本当に?」
「うん。嫌になったらすぐ戻ろ」
その言葉に、少しだけ安心した。
「……分かった」
立ち上がる。
砂が靴の中に入り込んでいて、歩くたびに少し気になる。
鬱陶しく思えてきて、とうとう、靴を脱いだ。
迅は先に波打ち際へ向かっていった。
「冷たっ!」
「そんなに?」
「結構冷たい」
「夏なのに?」
「海だから」
「意味分かんない」
「葵依も来てみ」
「えぇ……」
私は波打ち際で立ち止まった。足元へ、透明な波が近づいてくる。白い泡が砂の上を滑って、私の足先に触れた。
「……冷たい」
「だろ?」
思わず笑ってしまう。
もう一度、波が来る。今度は少しだけ深い。足首まで濡れた。
「わっ」
「大丈夫?」
「びっくりしただけ」
迅が笑っている。
「笑わないでよ」
「ごめんごめん」
「絶対思ってない」
「バレた?」
「バレバレ」
二人で笑う。
波が引いていく。濡れた砂が、夕方の光を反射してきらきらしていた。
私はもう一歩、海へ入った。
冷たい。でも、嫌じゃない。むしろ気持ちよかった。
「どう?」
迅が聞く。
「……気持ちいい」
「よし」
迅は満足そうに頷いた。
そして、足元の水を軽く蹴った。
ぱしゃっ。
「……!」
水しぶきが飛んできて、私の足にかかった。
「迅!」
「ごめん!」
そう言いながら笑っている。
「今の絶対わざとでしょ」
「ちょっとだけ」
「もう!」
私も仕返しするように、足元の水を蹴った。
ぱしゃっ。
今度は迅の足元に水が飛ぶ。
「おっ」
「どう?」
「やるじゃん」
「……ふふ」
また水を蹴る。
ぱしゃっ。
今度は少し大きな水しぶきが上がった。
「葵依、結構やるな!」
「迅が先にやったんでしょ!」
「じゃあ、これは?」
迅が少し後ろへ下がった。
「え?」
次の瞬間。
ぱしゃあっ、と大きな水音がした。
「ちょっ……!」
足元から水が跳ねて、膝のあたりまで濡れた。
「迅!」
「ごめんって!」
「もう!」
私は笑いながら、水を蹴り返した。
今度は迅の服に少しだけ水がかかる。
「うわっ!」
「やった」
「葵依、今笑っただろ」
「笑ってない」
「いや笑ってる」
「……ふふ」
「ほら!」
気づけば、私は声を出して笑っていた。
さらに仕返しするように、私は足元の水を蹴った。
ぱしゃん、と水が跳ねて、迅の膝まで濡らす。
「お、やり返してきたな」
「だって迅が――」
言い終わる前に、迅がもう一度水を蹴った。
「わっ!」
私は慌てて横へ避けた。
その瞬間だった。足の裏が、ふっと沈んだ。
「……え?」
砂が思っていたより柔らかかった。バランスを崩して、身体がぐらりと傾く。
「葵依!」
「きゃっ……!」
そのまま、ぺたん、と浅い海の中に座り込んでしまった。
水が大きく跳ねる。気づけば、腰から下がすっかり海の中だった。
「…………」
「…………」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
波が私の周りをゆっくり通り過ぎていく。
濡れた服が重くなって、髪の先からぽたぽたと水が落ちる。
私は自分の姿を見下ろした。
「……うそ」
思わず呟く。
迅が心配そうに手を差し出した。
「大丈夫?」
「……大丈夫」
その手を借りて立ち上がる。けれど、迅の顔を見ると、口元が少し震えていた。
「……笑ってる?」
「いや」
「笑ってるよね?」
「ごめん。ちょっとだけ」
「もう!」
私は頬を膨らませる。
でも、自分でもおかしくなって、結局笑ってしまった。
「だって……まさか転ぶとは思わなかった」
「私も思ってなかったよ」
迅が笑う。
私は濡れて重くなった服の裾を見た。
「……びしょびしょ」
腰から下はすっかり濡れている。服の裾から海水がぽたぽたと落ちていた。そんな私を見て、迅が口元を押さえる。
「完全に海入ったな」
「入るつもりなかったのに」
「不可抗力だな」
「迅のせいだから」
「俺?」
「そう」
「なんで?」
「思いっきり水かけてきたから」
「それは……ごめん」
そう言いながら、迅はまた笑っていた。
「……ぷっ」
「……」
私は顔を上げた。
「さっきからずっとけらけら笑って…」
「それがどうかした?……」
「笑ったよね?」
「ごめん。でも……」
迅は肩を震わせている。
「だって、あまりにも綺麗に転んだから」
「……迅」
「はい?」
「……笑ったね?」
「いや、だから――」
「……仕返し」
「え?」
私は彼の腕を逃すまいとつかんで、迅に飛びついた。
「うわ、ちょっ――葵依!?」
「私を見て笑い続けるなんて最悪!見せ物でもないのに!」
「待って、俺まで濡れる!」
「もう濡れてるでしょ!」
そのまま思いきり引っ張る。
「うわっ!」
足元の砂が崩れ、迅の身体がぐらりと傾いた。
私もバランスを崩して――
「きゃっ!」
「うわっ!」
ざぶんっ。
二人一緒に、浅い海へ倒れ込んだ。
一瞬、何も聞こえなくなる。波が二人の周りをさらっていく。
「…………」
「…………」
私は海の中から顔を上げた。隣では迅も呆然としている。そして、目が合った。
波の音だけが、やけに大きく聞こえた。
私は立ち上がろうとして、ふと隣を見る。すぐ近くに迅がいた。
「……っ」
思ったより近い。
そのことに気づいた瞬間、なぜか胸が一度だけ、どくん、と鳴った。
「……大丈夫?」
「な、なにが?!」
「顔、赤くない?」
「あ、う、海が冷たいから!」
自分でもよく分からない言い訳をして、私は慌てて顔をそらした。
「……?」
迅は不思議そうに首を傾げている。
私はそのまま海面を見つめた。
――今の、なんだったんだろう。
考えようとしたけれど、すぐに迅の笑い声が聞こえてきた。
「……葵依」
「……なに?」
「やったな」
「……迅が笑うからでしょ」
「だからって俺まで巻き込む?」
「……巻き込んだ」
「本当に何これ」
「分かんない」
「俺、普通に立ってただけなのに」
「私だって転ぶつもりなかったもん」
「いや、あったね」
二人で顔を見合わせる。言った瞬間、二人とも吹き出した。
「あははっ!」
「もう最悪だ!」
さっきまで恥ずかしくて仕方なかったのに、今は笑いが止まらない。
濡れた髪が顔に張りついても、服が重たくても、砂がついていても。どうでもよく思えた。ただ、楽しかった。
海辺に二人の笑い声が響く。
私は笑いながら、ふと思った。
――こんなふうに笑ったの、いつぶりだろう。
そして隣では、迅もまだ笑っていた。
「……ほんと、葵依って意外とやるな」
「迅が悪いんだから」
「はいはい」
「……ふふっ」
また笑ってしまう。
今だけは、過去のことも、学校のことも、周りの視線も。
全部、海の向こうへ流れていったような気がした。
こんなふうに何も考えず笑えたことが、少しだけ嬉しかった。
「……これで2人ともびしょ濡れだね」
「完全にやられた」
「私のせい?」
「半分くらい」
「半分なんだ」
「残り半分は、海のせい」
「海のせいなんだ」
「うん」
また笑う。
立ち上がろうとしたら、迅が手を差し伸べてくれた。
「立てる?」
「……たぶん」
差し出された手を見る。一瞬だけ迷ってから、その手を握った。
ぎゅっ。
その瞬間、胸が、どくん、と大きく鳴った。
「……っ」
なんで?
ただ、手を握っただけなのに。
心臓が急に速くなる。私は慌てて立ち上がった。
「ありがとう」
「いや、こっちこそ」
「……ごめん」
「いいって」
迅が笑う。
その顔を見て、また胸が跳ねた。私は慌てて視線を逸らした。
「……葵依?」
「な、何?」
「顔、赤くない?」
「……え?」
思わず頬に手を当てる。
熱い。
「海が暑いだけ」
「海の中やけど?」
「……そうだけど」
「変なの」
「うるさい」
私はぷいっと顔を背けた。
さっきから一体どうしたんだ?!私…。
私は濡れた髪を手で払いながら、海の向こうを見る。夕日に照らされた水面が、きらきらと揺れている。波が何度も私達の足元を撫でていった。
ここの海は、私の知っている海と比べて、少し冷たかった。
なのに、頬だけはいつまでも熱かった。
さっき握った手の感触が、なぜか残っている気がする。
私はそれを誤魔化すように、もう一度海を見た。
こんなふうに、誰かと海で笑ったことなんてなかった。
何も考えずに。失敗して。転んで。それすら笑い合える。
そんな時間があるなんて、知らなかった。
海の中で並んで立ちながら、二人で夕焼けを眺める。
空は少しずつ赤く染まり始めていた。遠くの水平線まで続くオレンジ色の光が、海の上で細く揺れている。
私はその景色を見つめながら思った。
こんな時間が、ずっと続けばいいのに。
そう思ってしまうくらいに、この海は、静かだった。
そして、今の私は。
心から思いっきり笑えていた。
家族のことなのか。迅自身のことなのか。それとも、私に関係することなのか。
……全然わからない。
いろいろ考えているうちに、頭の中がいっぱいになってしまう。
考えていると、
「ごめん、待った?」
声がした。声がした方向に振り向くと、目の前には迅が立っていた。
「ううん。ついさっき来たところ」
「ほんと?」
「うん」
「ならよかった」
迅はいつものように笑った。その笑顔を見て、私は少し安心した。
「暑いね」
「……うん」
「アイス食べたい」
「急に?今言う事?」
「だって暑いじゃん」
そう言って笑う。
いつもの迅。
明るくて。話しやすくて。誰とでもすぐに仲良くなれて。
私とは正反対の人。
「……何?」
迅がじーっとこちらを見る。
「え?」
「さっきから俺のこと見てる」
「……見てない」
「見てたじゃん」
「見てないって」
「絶対見てた」
迅が笑う。
私は少しだけ目をそらした。
こういうところも、迅らしい。
重たい空気になりそうになると、すぐに冗談を言う。相手が困っていると、笑わせようとする。誰かが黙っていると、優しく、気さくに話しかける。
それが、迅の優しさなんだと思っていた。
だけど、今日は、少し違った。
「……迅」
「ん?」
「昨日、話したいことがあるって言ってたよね」
「ああ」
迅の表情が、一瞬だけ変わった。
本当に一瞬だった。
けれど私は気づいた。
いつもの笑顔が消えた。
「……うん」
「何?」
「その前にさ― ―」
改札を出てから、とにかく歩いた。
住宅街を抜け、大きな道路を渡る。
しばらくすると、建物が少なくなっていった。聞こえてくる音も、少しずつ変わっていく。
車の音。人の話し声。自転車のベル。そういう街の音が遠ざかっていく。
その代わりに、風の音が大きくなった。
「……もうすぐ」
前を歩く迅が振り返る。私は小さく頷いた。
海なんて、いつぶりだろう。昔、家族で行ったことはある。でも、最近はほとんど外に出なかったから、海を見るのも久しぶりだった。
そして、坂を下った先。
視界が一気に開けた。
「……わ」
青い。
空も、海も。
どこまでも続いているように見えた。
砂浜には、ほとんど人がいない。遠くに数人いるだけ。
波が寄せては、静かに戻っていく。
「ここ……」
私が呟くと、迅が少し照れたように笑った。
「俺の場所」
「迅の?」
「うん」
迅は靴を脱いで、砂浜に座った。私は少し迷ってから、その隣に座る。
潮の匂いがした。風が髪を揺らす。白い髪が顔にかかって、私は手で押さえた。すると迅が海を見ながら言った。
「葵依ってさ、俺のこと、どう思ってる?」
「……え?」
思わず迅を見る。迅は笑っていなかった。
「いや、変な意味じゃなくて」
「……変な意味?」
「そういう言い方すると余計変だな」
迅は困ったように笑った。
「ただ……俺って、どんな人に見える?」
私は考えた。
「明るくて」
「優しい」
「……あと、話しやすい」
「それ、よく言われる」
迅は少しだけ笑った。
「他には?」
「他……」
私は言葉を探す。そして、ふと思った。
「…無理してる?」
迅の笑顔が止まった。
風が吹いた。波が音を立てる。
「……なんでそう思った?」
「なんとなく」
「いつもそう見える?」
「いいや、今日だけ」
「そっか」
迅は前を向いた。しばらく何も言わなかった。私は黙って待った。
以前の私なら、きっと何か話しかけていた。
沈黙が怖かったから。相手が嫌な気持ちになっているのではないかと思って、必死に言葉を探した。
でも今は、迅が話すまで待とうと思った。
「俺さ」
やがて、迅が口を開いた。
「中学のとき、サッカー部だったんだ」
「知ってる」
「そっか」
「前に少し話してたよね」
「うん。でも……ちゃんと話したことなかったから」
迅は膝を抱えるようにして、海を見つめた。
「中学の頃、俺、結構サッカー頑張ってたんだ」
「今も好き?」
「好きだよ」
即答だった。
その声には、少しだけ昔を懐かしむような響きがあった。
「でも……一回、部活でもめたことがあって」
私は何も言わずに聞いた。
「仲良かったやつと、意見が合わなくなったんだ」
練習のこと。試合のこと。誰がどうするべきだったのか。
最初は、小さな意見の違いだった。
でも、それが少しずつ大きくなって。
気づいた時には、すでに言い合いになっていた。
「俺、相手に嫌われたくなくてさ」
迅は苦笑した。
「だから、言いたいことをちゃんと言えなかった」
「……」
「そのくせ、分かってほしいって思ってた」
私は海を見る。波が一つ、砂浜に近づいてきた。
「それって……難しいね」
「うん。めちゃくちゃ難しかった」
迅は笑った。でも、今度の笑顔は少し寂しかった。
「結局、その友達とはしばらく話せなくなった」
「……仲直りしたの?」
「した」
「よかった」
「うん」
しばらく沈黙が続いた。
でも。
迅は逃げなかった。
いつものように笑って、話を変えることもしなかった。
ただ海を見ていた。
「そのあと、どうなったの?」
「しばらく話さなくなった」
「……」
「部活には行ってたけど、前みたいには話せなかった」
その言葉には、少し寂しさが混ざっていた。
「それが結構きつくてさ」
迅が苦笑する。
「俺、周りには普通にしてたんだよ」
「普通に?」
「うん。笑って。みんなと話して…」
「でも、それ以来かな」
「何が?」
「俺が、人に嫌われるのを怖がるようになったの」
その言葉に、胸が少しだけ詰まった。
迅はいつも明るい。誰とでも話せる。自然に人との距離を縮める。私はずっと、そういう人なんだと思っていた。
…でも、私の目に映っていた迅は、実は違ったのかもしれない。
「……無理してた?」
「たぶん」
迅は少し考えてから答えた。
「無理してたんだと思う」
私は迅を見た。
初めて見る表情だった。いつもの明るい迅じゃない。少し疲れていて。どこか寂しそうで。
でも、それを隠そうとしていない。
「それでさ」
迅は続ける。
「俺さ、いつも明るくしてるじゃん?」
「そうだね」
「別に、ずっと楽しいわけじゃないんだよ」
迅が笑う。
「しんどいときもあるし、何もしたくない日もある」
「……そんな日あるんだ」
「あるよ。普通に」
初めて聞いた。迅にも、そんな日がある。
「だからさ」
迅が海を見ながら言った。
「中学からは、そういう時に、ここに来るようになった」
「……海に?」
「うん」
迅は頷いた。
「家に帰っても、部活のこと考えちゃうし。学校でも誰かと話さないといけないし」
風が吹く。波の音が、言葉の間を埋める。
「ここなら、誰もいないから」
「……」
「弱音吐いてもいいんだよ」
迅は砂浜を見ながら笑った。
「誰にも聞かれないし」
その言葉が、妙に胸に残った。
「だから、何回も来た」
「何回も?」
「うん」
「一人で?」
「一人で」
迅は少し笑う。
「ここで『もう無理』って思ったこともあるし、呟いたこともある」
その言葉に、私は迅を見る。けれど迅は、すぐに続けた。
「でも、しばらく海見てると、ちょっとだけ落ち着くんだよ」
私は黙っていた。
「それで、帰る」
簡単な言葉だった。
でも、その繰り返しが、迅にとって、この場所がどれだけ大切なのかを教えてくれた。
「……だから、ここは俺の逃げ場所」
迅はそう言って笑った。
「逃げ場所?」
「うん」
少し恥ずかしそうに。
「俺だって逃げるんだよ」
私は思わず笑ってしまった。
「何?」
「いや……」
「笑った?」
「ちょっとだけ」
「ひど」
迅も笑った。
二人の笑い声が、風に乗って海の向こうへ消えていく。
私は、そんな時間が好きだと思った。
誰かといるのに、無理に話さなくていい。笑わなくてもいい。何かを説明しなくてもいい。ただ隣にいるだけでいい。
そんな時間があることを、私は知らなかった。
私は黙って海を見た。
迅が海で過ごす時間は、私が家にいるときと少し似ている気がした。
誰にも見られない。何も言われない。ただ、一人でいられる時間。
『ひとりのじかん』
でも、迅にとっての海は、私にとっての部屋とは少し違う。
逃げるためだけじゃない。なんとか自分を取り戻すための場所なのかもしれない。
「あ、あとさ」
迅が思いついたと言わんばかりに言い出す。
「葵依と話してると、頑張らなくていい気がするんだよな」
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
「……どうして?」
「分かんない」
「分かんないの?」
「うん」
迅は苦笑した。
「葵依って、無理に話さないじゃん」
「……それは」
「沈黙してても、別に怒らないし」
「怒らないよ」
「俺が変なこと言っても、無理に笑わないし」
「……それは、迅が変なこと言うから」
「ほら」
迅が笑った。
「そういうところ」
「どういうところ?」
「ちゃんと本当のこと言うところ」
私は黙った。そんなことを言われたのは初めてだった。
「俺、今までずっと、人に合わせることばっかり考えてたから」
「…」
「でも葵依といると、なんか……そのままでいいのかなって思える」
私は何も言えなかった。その言葉が、なぜか嬉しかった。でも同時に、少し怖かった。
誰かに必要とされることに、私は慣れていなかったから。
「だから、話したかった」
「……何を?」
「俺にも、こういうところがあるってこと」
迅は小さく笑った。
「葵依だけが秘密を抱えてるんじゃないって、知ってほしかった」
「……ありがとう」
聞こえませんように、と願いながら小さく呟いた。
聞こえたのだろう。迅は少し驚いた顔をした。
「何が?」
「話してくれて」
「こっちこそ」
「え?」
「聞いてくれてありがとう」
それから、二人とも黙った。同じようにして海を見る。
黙っているのに、不思議と気まずくなかった。
しばらくして、迅がふっと立ち上がった。
「……さて」
「?」
私は座ったまま迅を見上げる。迅は海を見た。そして、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「せっかく海来たんだし」
「?」
「入ろうぜ」
「……え?」
「海」
「いや、分かってるけど」
私は目を丸くした。
「入るの?」
「入る」
「今?」
「今」
迅は即答した。
「でも、服……」
「浅いところだけなら大丈夫だろ」
「……」
私は海を見る。
さっきまで眺めていた海が、急に別のものに見えてきた。
「私、海に入ったこと……」
言いかけて、少し考える。
「たぶん、ちゃんと入ったのは小学生のときが最後」
「じゃあ久しぶりじゃん」
「うん」
「怖い?」
「……ちょっと」
正直に言う。すると迅は笑った。
「じゃあ、浅いところだけ」
「本当に?」
「うん。嫌になったらすぐ戻ろ」
その言葉に、少しだけ安心した。
「……分かった」
立ち上がる。
砂が靴の中に入り込んでいて、歩くたびに少し気になる。
鬱陶しく思えてきて、とうとう、靴を脱いだ。
迅は先に波打ち際へ向かっていった。
「冷たっ!」
「そんなに?」
「結構冷たい」
「夏なのに?」
「海だから」
「意味分かんない」
「葵依も来てみ」
「えぇ……」
私は波打ち際で立ち止まった。足元へ、透明な波が近づいてくる。白い泡が砂の上を滑って、私の足先に触れた。
「……冷たい」
「だろ?」
思わず笑ってしまう。
もう一度、波が来る。今度は少しだけ深い。足首まで濡れた。
「わっ」
「大丈夫?」
「びっくりしただけ」
迅が笑っている。
「笑わないでよ」
「ごめんごめん」
「絶対思ってない」
「バレた?」
「バレバレ」
二人で笑う。
波が引いていく。濡れた砂が、夕方の光を反射してきらきらしていた。
私はもう一歩、海へ入った。
冷たい。でも、嫌じゃない。むしろ気持ちよかった。
「どう?」
迅が聞く。
「……気持ちいい」
「よし」
迅は満足そうに頷いた。
そして、足元の水を軽く蹴った。
ぱしゃっ。
「……!」
水しぶきが飛んできて、私の足にかかった。
「迅!」
「ごめん!」
そう言いながら笑っている。
「今の絶対わざとでしょ」
「ちょっとだけ」
「もう!」
私も仕返しするように、足元の水を蹴った。
ぱしゃっ。
今度は迅の足元に水が飛ぶ。
「おっ」
「どう?」
「やるじゃん」
「……ふふ」
また水を蹴る。
ぱしゃっ。
今度は少し大きな水しぶきが上がった。
「葵依、結構やるな!」
「迅が先にやったんでしょ!」
「じゃあ、これは?」
迅が少し後ろへ下がった。
「え?」
次の瞬間。
ぱしゃあっ、と大きな水音がした。
「ちょっ……!」
足元から水が跳ねて、膝のあたりまで濡れた。
「迅!」
「ごめんって!」
「もう!」
私は笑いながら、水を蹴り返した。
今度は迅の服に少しだけ水がかかる。
「うわっ!」
「やった」
「葵依、今笑っただろ」
「笑ってない」
「いや笑ってる」
「……ふふ」
「ほら!」
気づけば、私は声を出して笑っていた。
さらに仕返しするように、私は足元の水を蹴った。
ぱしゃん、と水が跳ねて、迅の膝まで濡らす。
「お、やり返してきたな」
「だって迅が――」
言い終わる前に、迅がもう一度水を蹴った。
「わっ!」
私は慌てて横へ避けた。
その瞬間だった。足の裏が、ふっと沈んだ。
「……え?」
砂が思っていたより柔らかかった。バランスを崩して、身体がぐらりと傾く。
「葵依!」
「きゃっ……!」
そのまま、ぺたん、と浅い海の中に座り込んでしまった。
水が大きく跳ねる。気づけば、腰から下がすっかり海の中だった。
「…………」
「…………」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
波が私の周りをゆっくり通り過ぎていく。
濡れた服が重くなって、髪の先からぽたぽたと水が落ちる。
私は自分の姿を見下ろした。
「……うそ」
思わず呟く。
迅が心配そうに手を差し出した。
「大丈夫?」
「……大丈夫」
その手を借りて立ち上がる。けれど、迅の顔を見ると、口元が少し震えていた。
「……笑ってる?」
「いや」
「笑ってるよね?」
「ごめん。ちょっとだけ」
「もう!」
私は頬を膨らませる。
でも、自分でもおかしくなって、結局笑ってしまった。
「だって……まさか転ぶとは思わなかった」
「私も思ってなかったよ」
迅が笑う。
私は濡れて重くなった服の裾を見た。
「……びしょびしょ」
腰から下はすっかり濡れている。服の裾から海水がぽたぽたと落ちていた。そんな私を見て、迅が口元を押さえる。
「完全に海入ったな」
「入るつもりなかったのに」
「不可抗力だな」
「迅のせいだから」
「俺?」
「そう」
「なんで?」
「思いっきり水かけてきたから」
「それは……ごめん」
そう言いながら、迅はまた笑っていた。
「……ぷっ」
「……」
私は顔を上げた。
「さっきからずっとけらけら笑って…」
「それがどうかした?……」
「笑ったよね?」
「ごめん。でも……」
迅は肩を震わせている。
「だって、あまりにも綺麗に転んだから」
「……迅」
「はい?」
「……笑ったね?」
「いや、だから――」
「……仕返し」
「え?」
私は彼の腕を逃すまいとつかんで、迅に飛びついた。
「うわ、ちょっ――葵依!?」
「私を見て笑い続けるなんて最悪!見せ物でもないのに!」
「待って、俺まで濡れる!」
「もう濡れてるでしょ!」
そのまま思いきり引っ張る。
「うわっ!」
足元の砂が崩れ、迅の身体がぐらりと傾いた。
私もバランスを崩して――
「きゃっ!」
「うわっ!」
ざぶんっ。
二人一緒に、浅い海へ倒れ込んだ。
一瞬、何も聞こえなくなる。波が二人の周りをさらっていく。
「…………」
「…………」
私は海の中から顔を上げた。隣では迅も呆然としている。そして、目が合った。
波の音だけが、やけに大きく聞こえた。
私は立ち上がろうとして、ふと隣を見る。すぐ近くに迅がいた。
「……っ」
思ったより近い。
そのことに気づいた瞬間、なぜか胸が一度だけ、どくん、と鳴った。
「……大丈夫?」
「な、なにが?!」
「顔、赤くない?」
「あ、う、海が冷たいから!」
自分でもよく分からない言い訳をして、私は慌てて顔をそらした。
「……?」
迅は不思議そうに首を傾げている。
私はそのまま海面を見つめた。
――今の、なんだったんだろう。
考えようとしたけれど、すぐに迅の笑い声が聞こえてきた。
「……葵依」
「……なに?」
「やったな」
「……迅が笑うからでしょ」
「だからって俺まで巻き込む?」
「……巻き込んだ」
「本当に何これ」
「分かんない」
「俺、普通に立ってただけなのに」
「私だって転ぶつもりなかったもん」
「いや、あったね」
二人で顔を見合わせる。言った瞬間、二人とも吹き出した。
「あははっ!」
「もう最悪だ!」
さっきまで恥ずかしくて仕方なかったのに、今は笑いが止まらない。
濡れた髪が顔に張りついても、服が重たくても、砂がついていても。どうでもよく思えた。ただ、楽しかった。
海辺に二人の笑い声が響く。
私は笑いながら、ふと思った。
――こんなふうに笑ったの、いつぶりだろう。
そして隣では、迅もまだ笑っていた。
「……ほんと、葵依って意外とやるな」
「迅が悪いんだから」
「はいはい」
「……ふふっ」
また笑ってしまう。
今だけは、過去のことも、学校のことも、周りの視線も。
全部、海の向こうへ流れていったような気がした。
こんなふうに何も考えず笑えたことが、少しだけ嬉しかった。
「……これで2人ともびしょ濡れだね」
「完全にやられた」
「私のせい?」
「半分くらい」
「半分なんだ」
「残り半分は、海のせい」
「海のせいなんだ」
「うん」
また笑う。
立ち上がろうとしたら、迅が手を差し伸べてくれた。
「立てる?」
「……たぶん」
差し出された手を見る。一瞬だけ迷ってから、その手を握った。
ぎゅっ。
その瞬間、胸が、どくん、と大きく鳴った。
「……っ」
なんで?
ただ、手を握っただけなのに。
心臓が急に速くなる。私は慌てて立ち上がった。
「ありがとう」
「いや、こっちこそ」
「……ごめん」
「いいって」
迅が笑う。
その顔を見て、また胸が跳ねた。私は慌てて視線を逸らした。
「……葵依?」
「な、何?」
「顔、赤くない?」
「……え?」
思わず頬に手を当てる。
熱い。
「海が暑いだけ」
「海の中やけど?」
「……そうだけど」
「変なの」
「うるさい」
私はぷいっと顔を背けた。
さっきから一体どうしたんだ?!私…。
私は濡れた髪を手で払いながら、海の向こうを見る。夕日に照らされた水面が、きらきらと揺れている。波が何度も私達の足元を撫でていった。
ここの海は、私の知っている海と比べて、少し冷たかった。
なのに、頬だけはいつまでも熱かった。
さっき握った手の感触が、なぜか残っている気がする。
私はそれを誤魔化すように、もう一度海を見た。
こんなふうに、誰かと海で笑ったことなんてなかった。
何も考えずに。失敗して。転んで。それすら笑い合える。
そんな時間があるなんて、知らなかった。
海の中で並んで立ちながら、二人で夕焼けを眺める。
空は少しずつ赤く染まり始めていた。遠くの水平線まで続くオレンジ色の光が、海の上で細く揺れている。
私はその景色を見つめながら思った。
こんな時間が、ずっと続けばいいのに。
そう思ってしまうくらいに、この海は、静かだった。
そして、今の私は。
心から思いっきり笑えていた。
