ひとりのじかん

迅は、何を私に話したいんだろう。
家族のことなのか。迅自身のことなのか。それとも、私に関係することなのか。
……全然わからない。
いろいろ考えているうちに、頭の中がいっぱいになってしまう。
考えていると、
「ごめん、待った?」
声がした。声がした方向に振り向くと、目の前には迅が立っていた。
「ううん。ついさっき来たところ」
「ほんと?」
「うん」
「ならよかった」
迅はいつものように笑った。その笑顔を見て、私は少し安心した。
「暑いね」
「……うん」
「アイス食べたい」
「急に?今言う事?」
「だって暑いじゃん」
そう言って笑う。
いつもの迅。
明るくて。話しやすくて。誰とでもすぐに仲良くなれて。
私とは正反対の人。
「……何?」
迅がじーっとこちらを見る。
「え?」
「さっきから俺のこと見てる」
「……見てない」
「見てたじゃん」
「見てないって」
「絶対見てた」
迅が笑う。
私は少しだけ目をそらした。
こういうところも、迅らしい。
重たい空気になりそうになると、すぐに冗談を言う。相手が困っていると、笑わせようとする。誰かが黙っていると、優しく、気さくに話しかける。
それが、迅の優しさなんだと思っていた。
だけど、今日は、少し違った。
「……迅」
「ん?」
「昨日、話したいことがあるって言ってたよね」
「ああ」
迅の表情が、一瞬だけ変わった。
本当に一瞬だった。
けれど私は気づいた。
いつもの笑顔が消えた。
「……うん」
「何?」
「その前にさ― ―」

改札を出てから、とにかく歩いた。
住宅街を抜け、大きな道路を渡る。
しばらくすると、建物が少なくなっていった。聞こえてくる音も、少しずつ変わっていく。
車の音。人の話し声。自転車のベル。そういう街の音が遠ざかっていく。
その代わりに、風の音が大きくなった。
「……もうすぐ」
前を歩く迅が振り返る。私は小さく頷いた。
海なんて、いつぶりだろう。昔、家族で行ったことはある。でも、最近はほとんど外に出なかったから、海を見るのも久しぶりだった。
そして、坂を下った先。
視界が一気に開けた。
「……わ」
青い。
空も、海も。
どこまでも続いているように見えた。
砂浜には、ほとんど人がいない。遠くに数人いるだけ。
波が寄せては、静かに戻っていく。
「ここ……」
私が呟くと、迅が少し照れたように笑った。
「俺の場所」
「迅の?」
「うん」
迅は靴を脱いで、砂浜に座った。私は少し迷ってから、その隣に座る。
潮の匂いがした。風が髪を揺らす。白い髪が顔にかかって、私は手で押さえた。すると迅が海を見ながら言った。
「葵依ってさ、俺のこと、どう思ってる?」
「……え?」
思わず迅を見る。迅は笑っていなかった。
「いや、変な意味じゃなくて」
「……変な意味?」
「そういう言い方すると余計変だな」
迅は困ったように笑った。
「ただ……俺って、どんな人に見える?」
私は考えた。
「明るくて」
「優しい」
「……あと、話しやすい」
「それ、よく言われる」
迅は少しだけ笑った。
「他には?」
「他……」 
私は言葉を探す。そして、ふと思った。
「…無理してる?」
迅の笑顔が止まった。
風が吹いた。波が音を立てる。
「……なんでそう思った?」
「なんとなく」
「いつもそう見える?」
「いいや、今日だけ」
「そっか」
迅は前を向いた。しばらく何も言わなかった。私は黙って待った。
以前の私なら、きっと何か話しかけていた。
沈黙が怖かったから。相手が嫌な気持ちになっているのではないかと思って、必死に言葉を探した。
でも今は、迅が話すまで待とうと思った。
「俺さ」
やがて、迅が口を開いた。
「中学のとき、サッカー部だったんだ」
「知ってる」
「そっか」
「前に少し話してたよね」
「うん。でも……ちゃんと話したことなかったから」
迅は膝を抱えるようにして、海を見つめた。
「中学の頃、俺、結構サッカー頑張ってたんだ」
「今も好き?」
「好きだよ」
即答だった。
その声には、少しだけ昔を懐かしむような響きがあった。
「でも……一回、部活でもめたことがあって」
私は何も言わずに聞いた。
「仲良かったやつと、意見が合わなくなったんだ」
練習のこと。試合のこと。誰がどうするべきだったのか。
最初は、小さな意見の違いだった。
でも、それが少しずつ大きくなって。
気づいた時には、すでに言い合いになっていた。
「俺、相手に嫌われたくなくてさ」
迅は苦笑した。
「だから、言いたいことをちゃんと言えなかった」
「……」
「そのくせ、分かってほしいって思ってた」
私は海を見る。波が一つ、砂浜に近づいてきた。
「それって……難しいね」
「うん。めちゃくちゃ難しかった」
迅は笑った。でも、今度の笑顔は少し寂しかった。
「結局、その友達とはしばらく話せなくなった」
「……仲直りしたの?」
「した」
「よかった」
「うん」
しばらく沈黙が続いた。
でも。
迅は逃げなかった。
いつものように笑って、話を変えることもしなかった。
ただ海を見ていた。
「そのあと、どうなったの?」
「しばらく話さなくなった」
「……」
「部活には行ってたけど、前みたいには話せなかった」
その言葉には、少し寂しさが混ざっていた。
「それが結構きつくてさ」
迅が苦笑する。
「俺、周りには普通にしてたんだよ」
「普通に?」
「うん。笑って。みんなと話して…」
「でも、それ以来かな」
「何が?」
「俺が、人に嫌われるのを怖がるようになったの」
その言葉に、胸が少しだけ詰まった。
迅はいつも明るい。誰とでも話せる。自然に人との距離を縮める。私はずっと、そういう人なんだと思っていた。
…でも、私の目に映っていた迅は、実は違ったのかもしれない。
「……無理してた?」
「たぶん」
迅は少し考えてから答えた。
「無理してたんだと思う」
私は迅を見た。
初めて見る表情だった。いつもの明るい迅じゃない。少し疲れていて。どこか寂しそうで。
でも、それを隠そうとしていない。
「それでさ」
迅は続ける。
「俺さ、いつも明るくしてるじゃん?」
「そうだね」
「別に、ずっと楽しいわけじゃないんだよ」
迅が笑う。
「しんどいときもあるし、何もしたくない日もある」
「……そんな日あるんだ」
「あるよ。普通に」
初めて聞いた。迅にも、そんな日がある。
「だからさ」
迅が海を見ながら言った。
「中学からは、そういう時に、ここに来るようになった」
「……海に?」
「うん」
迅は頷いた。
「家に帰っても、部活のこと考えちゃうし。学校でも誰かと話さないといけないし」
風が吹く。波の音が、言葉の間を埋める。
「ここなら、誰もいないから」
「……」
「弱音吐いてもいいんだよ」
迅は砂浜を見ながら笑った。
「誰にも聞かれないし」
その言葉が、妙に胸に残った。
「だから、何回も来た」
「何回も?」
「うん」
「一人で?」
「一人で」
迅は少し笑う。
「ここで『もう無理』って思ったこともあるし、呟いたこともある」
その言葉に、私は迅を見る。けれど迅は、すぐに続けた。
「でも、しばらく海見てると、ちょっとだけ落ち着くんだよ」
私は黙っていた。
「それで、帰る」
簡単な言葉だった。
でも、その繰り返しが、迅にとって、この場所がどれだけ大切なのかを教えてくれた。
「……だから、ここは俺の逃げ場所」
迅はそう言って笑った。
「逃げ場所?」
「うん」
少し恥ずかしそうに。
「俺だって逃げるんだよ」
私は思わず笑ってしまった。
「何?」
「いや……」
「笑った?」
「ちょっとだけ」
「ひど」
迅も笑った。
二人の笑い声が、風に乗って海の向こうへ消えていく。
私は、そんな時間が好きだと思った。
誰かといるのに、無理に話さなくていい。笑わなくてもいい。何かを説明しなくてもいい。ただ隣にいるだけでいい。
そんな時間があることを、私は知らなかった。
私は黙って海を見た。
迅が海で過ごす時間は、私が家にいるときと少し似ている気がした。
誰にも見られない。何も言われない。ただ、一人でいられる時間。
『ひとりのじかん』
でも、迅にとっての海は、私にとっての部屋とは少し違う。
逃げるためだけじゃない。なんとか自分を取り戻すための場所なのかもしれない。

「あ、あとさ」
迅が思いついたと言わんばかりに言い出す。
「葵依と話してると、頑張らなくていい気がするんだよな」
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
「……どうして?」
「分かんない」
「分かんないの?」
「うん」
迅は苦笑した。
「葵依って、無理に話さないじゃん」
「……それは」
「沈黙してても、別に怒らないし」
「怒らないよ」
「俺が変なこと言っても、無理に笑わないし」
「……それは、迅が変なこと言うから」
「ほら」
迅が笑った。
「そういうところ」
「どういうところ?」
「ちゃんと本当のこと言うところ」
私は黙った。そんなことを言われたのは初めてだった。
「俺、今までずっと、人に合わせることばっかり考えてたから」
「…」
「でも葵依といると、なんか……そのままでいいのかなって思える」
私は何も言えなかった。その言葉が、なぜか嬉しかった。でも同時に、少し怖かった。
誰かに必要とされることに、私は慣れていなかったから。
「だから、話したかった」
「……何を?」
「俺にも、こういうところがあるってこと」
迅は小さく笑った。
「葵依だけが秘密を抱えてるんじゃないって、知ってほしかった」
「……ありがとう」
聞こえませんように、と願いながら小さく呟いた。
聞こえたのだろう。迅は少し驚いた顔をした。
「何が?」
「話してくれて」
「こっちこそ」
「え?」
「聞いてくれてありがとう」
それから、二人とも黙った。同じようにして海を見る。
黙っているのに、不思議と気まずくなかった。

しばらくして、迅がふっと立ち上がった。
「……さて」
「?」
私は座ったまま迅を見上げる。迅は海を見た。そして、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「せっかく海来たんだし」
「?」
「入ろうぜ」
「……え?」
「海」
「いや、分かってるけど」
私は目を丸くした。
「入るの?」
「入る」
「今?」
「今」
迅は即答した。
「でも、服……」
「浅いところだけなら大丈夫だろ」
「……」
私は海を見る。
さっきまで眺めていた海が、急に別のものに見えてきた。
「私、海に入ったこと……」
言いかけて、少し考える。
「たぶん、ちゃんと入ったのは小学生のときが最後」
「じゃあ久しぶりじゃん」
「うん」
「怖い?」
「……ちょっと」
正直に言う。すると迅は笑った。
「じゃあ、浅いところだけ」
「本当に?」
「うん。嫌になったらすぐ戻ろ」
その言葉に、少しだけ安心した。
「……分かった」
立ち上がる。
砂が靴の中に入り込んでいて、歩くたびに少し気になる。
鬱陶しく思えてきて、とうとう、靴を脱いだ。
迅は先に波打ち際へ向かっていった。
「冷たっ!」
「そんなに?」
「結構冷たい」
「夏なのに?」
「海だから」
「意味分かんない」
「葵依も来てみ」
「えぇ……」
私は波打ち際で立ち止まった。足元へ、透明な波が近づいてくる。白い泡が砂の上を滑って、私の足先に触れた。
「……冷たい」
「だろ?」
思わず笑ってしまう。
もう一度、波が来る。今度は少しだけ深い。足首まで濡れた。
「わっ」
「大丈夫?」
「びっくりしただけ」
迅が笑っている。
「笑わないでよ」
「ごめんごめん」
「絶対思ってない」
「バレた?」
「バレバレ」
二人で笑う。
波が引いていく。濡れた砂が、夕方の光を反射してきらきらしていた。
私はもう一歩、海へ入った。
冷たい。でも、嫌じゃない。むしろ気持ちよかった。
「どう?」
迅が聞く。
「……気持ちいい」
「よし」
迅は満足そうに頷いた。
そして、足元の水を軽く蹴った。
ぱしゃっ。
「……!」
水しぶきが飛んできて、私の足にかかった。
「迅!」
「ごめん!」
そう言いながら笑っている。
「今の絶対わざとでしょ」
「ちょっとだけ」
「もう!」
私も仕返しするように、足元の水を蹴った。
ぱしゃっ。
今度は迅の足元に水が飛ぶ。
「おっ」
「どう?」
「やるじゃん」
「……ふふ」
また水を蹴る。
ぱしゃっ。
今度は少し大きな水しぶきが上がった。
「葵依、結構やるな!」
「迅が先にやったんでしょ!」
「じゃあ、これは?」
迅が少し後ろへ下がった。
「え?」
次の瞬間。
ぱしゃあっ、と大きな水音がした。
「ちょっ……!」
足元から水が跳ねて、膝のあたりまで濡れた。
「迅!」
「ごめんって!」
「もう!」
私は笑いながら、水を蹴り返した。
今度は迅の服に少しだけ水がかかる。
「うわっ!」
「やった」
「葵依、今笑っただろ」
「笑ってない」
「いや笑ってる」
「……ふふ」
「ほら!」
気づけば、私は声を出して笑っていた。
さらに仕返しするように、私は足元の水を蹴った。
ぱしゃん、と水が跳ねて、迅の膝まで濡らす。
「お、やり返してきたな」
「だって迅が――」
言い終わる前に、迅がもう一度水を蹴った。
「わっ!」
私は慌てて横へ避けた。
その瞬間だった。足の裏が、ふっと沈んだ。
「……え?」
砂が思っていたより柔らかかった。バランスを崩して、身体がぐらりと傾く。
「葵依!」
「きゃっ……!」
そのまま、ぺたん、と浅い海の中に座り込んでしまった。
水が大きく跳ねる。気づけば、腰から下がすっかり海の中だった。
「…………」
「…………」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
波が私の周りをゆっくり通り過ぎていく。
濡れた服が重くなって、髪の先からぽたぽたと水が落ちる。
私は自分の姿を見下ろした。
「……うそ」
思わず呟く。
迅が心配そうに手を差し出した。
「大丈夫?」
「……大丈夫」
その手を借りて立ち上がる。けれど、迅の顔を見ると、口元が少し震えていた。
「……笑ってる?」
「いや」
「笑ってるよね?」
「ごめん。ちょっとだけ」
「もう!」
私は頬を膨らませる。
でも、自分でもおかしくなって、結局笑ってしまった。
「だって……まさか転ぶとは思わなかった」
「私も思ってなかったよ」
迅が笑う。
私は濡れて重くなった服の裾を見た。
「……びしょびしょ」
腰から下はすっかり濡れている。服の裾から海水がぽたぽたと落ちていた。そんな私を見て、迅が口元を押さえる。
「完全に海入ったな」
「入るつもりなかったのに」
「不可抗力だな」
「迅のせいだから」
「俺?」
「そう」
「なんで?」
「思いっきり水かけてきたから」
「それは……ごめん」
そう言いながら、迅はまた笑っていた。
「……ぷっ」
「……」
私は顔を上げた。
「さっきからずっとけらけら笑って…」
「それがどうかした?……」
「笑ったよね?」
「ごめん。でも……」
迅は肩を震わせている。
「だって、あまりにも綺麗に転んだから」
「……迅」
「はい?」
「……笑ったね?」
「いや、だから――」
「……仕返し」
「え?」
私は彼の腕を逃すまいとつかんで、迅に飛びついた。
「うわ、ちょっ――葵依!?」
「私を見て笑い続けるなんて最悪!見せ物でもないのに!」
「待って、俺まで濡れる!」
「もう濡れてるでしょ!」
そのまま思いきり引っ張る。
「うわっ!」
足元の砂が崩れ、迅の身体がぐらりと傾いた。
私もバランスを崩して――
「きゃっ!」
「うわっ!」
ざぶんっ。
二人一緒に、浅い海へ倒れ込んだ。
一瞬、何も聞こえなくなる。波が二人の周りをさらっていく。
「…………」
「…………」
私は海の中から顔を上げた。隣では迅も呆然としている。そして、目が合った。
波の音だけが、やけに大きく聞こえた。
私は立ち上がろうとして、ふと隣を見る。すぐ近くに迅がいた。
「……っ」
思ったより近い。
そのことに気づいた瞬間、なぜか胸が一度だけ、どくん、と鳴った。
「……大丈夫?」
「な、なにが?!」
「顔、赤くない?」
「あ、う、海が冷たいから!」
自分でもよく分からない言い訳をして、私は慌てて顔をそらした。
「……?」
迅は不思議そうに首を傾げている。
私はそのまま海面を見つめた。
――今の、なんだったんだろう。
考えようとしたけれど、すぐに迅の笑い声が聞こえてきた。
「……葵依」
「……なに?」
「やったな」
「……迅が笑うからでしょ」
「だからって俺まで巻き込む?」
「……巻き込んだ」
「本当に何これ」
「分かんない」
「俺、普通に立ってただけなのに」
「私だって転ぶつもりなかったもん」
「いや、あったね」
二人で顔を見合わせる。言った瞬間、二人とも吹き出した。
「あははっ!」
「もう最悪だ!」
さっきまで恥ずかしくて仕方なかったのに、今は笑いが止まらない。
濡れた髪が顔に張りついても、服が重たくても、砂がついていても。どうでもよく思えた。ただ、楽しかった。
海辺に二人の笑い声が響く。
私は笑いながら、ふと思った。
――こんなふうに笑ったの、いつぶりだろう。
そして隣では、迅もまだ笑っていた。
「……ほんと、葵依って意外とやるな」
「迅が悪いんだから」
「はいはい」
「……ふふっ」
また笑ってしまう。
今だけは、過去のことも、学校のことも、周りの視線も。
全部、海の向こうへ流れていったような気がした。
こんなふうに何も考えず笑えたことが、少しだけ嬉しかった。
「……これで2人ともびしょ濡れだね」
「完全にやられた」
「私のせい?」
「半分くらい」
「半分なんだ」
「残り半分は、海のせい」
「海のせいなんだ」
「うん」
また笑う。
立ち上がろうとしたら、迅が手を差し伸べてくれた。
「立てる?」
「……たぶん」
差し出された手を見る。一瞬だけ迷ってから、その手を握った。
ぎゅっ。
その瞬間、胸が、どくん、と大きく鳴った。
「……っ」
なんで?
ただ、手を握っただけなのに。
心臓が急に速くなる。私は慌てて立ち上がった。
「ありがとう」
「いや、こっちこそ」
「……ごめん」
「いいって」
迅が笑う。
その顔を見て、また胸が跳ねた。私は慌てて視線を逸らした。
「……葵依?」
「な、何?」
「顔、赤くない?」
「……え?」
思わず頬に手を当てる。
熱い。
「海が暑いだけ」
「海の中やけど?」
「……そうだけど」
「変なの」
「うるさい」
私はぷいっと顔を背けた。
さっきから一体どうしたんだ?!私…。
私は濡れた髪を手で払いながら、海の向こうを見る。夕日に照らされた水面が、きらきらと揺れている。波が何度も私達の足元を撫でていった。
ここの海は、私の知っている海と比べて、少し冷たかった。
なのに、頬だけはいつまでも熱かった。
さっき握った手の感触が、なぜか残っている気がする。
私はそれを誤魔化すように、もう一度海を見た。
こんなふうに、誰かと海で笑ったことなんてなかった。
何も考えずに。失敗して。転んで。それすら笑い合える。
そんな時間があるなんて、知らなかった。

海の中で並んで立ちながら、二人で夕焼けを眺める。
空は少しずつ赤く染まり始めていた。遠くの水平線まで続くオレンジ色の光が、海の上で細く揺れている。
私はその景色を見つめながら思った。
こんな時間が、ずっと続けばいいのに。
そう思ってしまうくらいに、この海は、静かだった。
そして、今の私は。
心から思いっきり笑えていた。