ひとりのじかん

結局、次の日は会いに行けなかった。
迅から駅まで呼び出されたが、今の季節、海に人が多いことは明白だ。
海に行くと考えたら、朝起きて早々に突然怖くなってしまい、自分の部屋からなかなか出られなかった。
迅には連絡もしていない。最低だとは思うが、どうしてもする気にはなれなかった。
悶々と考えていた時、
「葵依、おはよう」
お兄ちゃんが入ってきた。
「おはよう」
「あのさ、今からコンビニ行かない?」
お兄ちゃんが尋ねてきた。
これはまた唐突だな。…どうしようかな……。
…でも、今はまだ6時前だから、人はそんなにいないはず。
少し考えた後、
「いいよ。行こ」
そう言った瞬間、そっちから言ったにも関わらず、お兄ちゃんは驚いていた。
「……え、いいの?」
「うん」
「本当に?」
「何回聞くのよ」
思わず笑ってしまう。
お兄ちゃんは少しだけ目を丸くしたまま、私の顔を見ていた。
「いや……だって、葵依が自分から外に出るって言うの、久しぶりだなと思って」
「……そうかな?」
「うん」
そう言われると、なんだか恥ずかしくなった。
私は目を逸らして、ベッドの上に置いてあった髪留めを手に取った。
「……ちょっと待ってて」
「了解」
お兄ちゃんはそう言って、部屋の外へ出ていった。
扉が閉まる。一人になった部屋で、私は大きく息を吐いた。
たったコンビニに行くだけ。
それなのに、私には勇気のいることだった。
外に出る。
それだけのことが、私にとっては簡単なことじゃない。
最近は、外に出る時には行き先に迅がいたから、家から出れた。
でも、今日はお兄ちゃんと…。家族の誰かと外に出るなんて、いつぶりになるんだろう。
私は鏡の前に立った。
見慣れているはずなのに、鏡を見るたびに少しだけ胸が苦しくなる。やっぱり、いつまで経ってもこの苦しさは変わらないのかな…。
私は、今日は帽子を被ろうかいつもより迷った。
でも、結局のところ、帽子の代わりに半袖パーカーを着ることにした。
「……よし」
着替えた後、小さく呟いて、部屋を出た。
リビングへ行くと、お兄ちゃんが玄関で靴を履いていた。
「お、早いじゃん」
「待たせるの嫌だったから」
「……やっぱり、最近の葵依ってちょっと違うな」
「どういうこと?」
「うーん…。なんていうか……」
お兄ちゃんは少し考えるように首を傾げた。
「ちょっとだけ、外に出る気になってる感じ」
「……何それ」
「そのまんま」
私は返事をせず、靴を履いた。
玄関のドアを開ける。
――ひんやり。
朝の空気が、頬に触れた。昼間とは全然違う。
まだ太陽が低いから、眩しさもそれほど強くない。
道路にはほとんど人がいない。車も少ない。
遠くから、鳥の鳴き声が聞こえる。
「……涼しい」
思わず口から言葉が漏れた。
お兄ちゃんが笑う。
私たちは並んで歩き始めた。
住宅街の道路を歩く。誰ともすれ違わない。それだけで、身体の力が少しずつ抜けていくのが分かった。
…昨日の夜。
『そういえば、明日ちょっと話したいことある』
そう送ってきた迅。
私は、その言葉の意味をずっと考えていた。
だからこそ、今日の朝、会いに行くことが怖くなった。
人がたくさんいる海で、迅と話す。そう想像しただけで、身体が動かなくなった。
海なんて、今の時期はきっと人でいっぱいだ。
家族連れ。友達同士。同じくらいの年齢の人たち。
そんな場所に自分がいるところを想像すると、胸が苦しくなった。
結局、私は何も言えないまま、お兄ちゃんと歩いていた。
迅には、まだ連絡していない。最低だと思う。約束をしていたのに。それなのに、一言も言わずに行かないことにした。
「……」
胸の奥が、また重くなる。
「どうした?」
お兄ちゃんの声で、私は顔を上げた。
「え?」
「なんか考えてる?」
「……別に」
「ふーん」
お兄ちゃんは、それ以上聞いてこなかった。そのことが、少しだけありがたかった。
…だけど、顔はすごくにやにやしていた。
コンビニが見えてくる。自動ドアが開く。ピンポーン、と音が鳴った。
「いらっしゃいませ」
店員さんの声。
私は一瞬だけ身体を固くした。でも、誰も私を見ていない。店員さんはレジで作業をしている。他のお客さんもいない。
「何買う?」
お兄ちゃんが聞いてくる。
「……アイス」
「何がいい?」
「クーリッシュで」
「了解」
お兄ちゃんがアイスの棚へ向かう。私はその後ろをついていく。
冷蔵ケースの扉を開けると、冷たい空気が流れてきた。
カルピス味を一個取る。それだけなのに、なんだか少し嬉しかった。
「これでいい?」
「うん」
お兄ちゃんも、同じのを取っていた。
「じゃ、帰ろっか」
会計を済ませて、外へ出る。
朝の空気がまた身体を包んだ。私は小さく息を吐いた。
「……大丈夫だった」
「ん?」
「外。思ってたより……大丈夫だった」
お兄ちゃんは少しだけ笑った。
「そっか」
それ以上は何も言わない。ただ、歩く速度を少しだけ落としてくれた。私に合わせるように。
家に帰る道。
空が少しずつ明るくなっていた。さっきまで青白かった空に、薄いオレンジ色が混ざっている。
私は空を見上げた。
「綺麗……」
「何が?」
「朝の空」
「珍しいな。葵依が空なんか見るの」
「し、失礼な!」
「ごめんごめん」
顔を見合わせて、二人で笑い合う。
そんな何気ない時間を過ごしているうちに、私は少しだけ落ち着いてきた。
けれど、海へ行けなかったことは、ずっと頭の片隅に残っていた。
その日。
私は結局、帰ってきてからは、家から出なかった。
朝、コンビニへ行った以外は、自分の部屋で過ごした。
窓の外から聞こえてくる蝉の声。昼になるにつれて強くなる日差し。時々聞こえる車のそして、スマートフォンを手に取るたびに確認してしまうメッセージ画面。
…迅からの連絡は、来なかった。私からも送れなかった。
何度も文章を打とうとした。
『今日はごめん』
『行けなくてごめん』
『人が多いのが怖かった』
でも、どれもしっくりこなかった。言葉にすればするほど、自分が情けなくなる気がした。
そして…。
だらだらと過ごしているうちに、気づけば外は暗くなっていた。
時計を見る。夜の十一時を少し過ぎていた。
「……もうこんな時間」
一日が終わってしまう。
結局、迅には何も言えなかった。
今日という日も、終わってしまう。
私はベッドに座ったまま、スマートフォンを見つめていた。
その時。
――ブブッ。
スマートフォンが震えた。
「……!」
私は慌てて画面を見る。迅だった。
『起きてる?』
たったそれだけのメッセージ。なのに、心臓が大きく跳ねる。
私は少し迷ってから、
『起きてる』
と送った。
既読。
すぐに返信が来た。
『よかった』
『今日、海行けなくなった?』
私は画面を見つめた。胸が痛くなる。
『うん』
それだけ送った。
…すぐに後悔した。もっとちゃんと説明しないと。そう思ったけれど、迅から先にメッセージが来た。
『そっか』
『ごめん。急に誘ったから、困らせたよな』
「……違う」
思わず声が出た。
違う。
迅が悪いわけじゃない。私が勝手に怖くなっただけ。
私は指を動かした。
『迅は悪くない』
『私が勝手に怖くなっただけ』
送信してしばらく経った…。
『何が怖かった?』
私は少し迷ってから、正直に打った。
『海、人多いと思って』
また少しして、迅から返事が来た。
『ああ』
『もしかして海水浴場みたいなところ想像してた?』
『……うん』
そう返す。
すると、
『違うよ』
と返ってきた。
『俺が行きたかったの、そういうところじゃない』
私は首を傾げた。どういうことだろうか。
『じゃあ、どこ?』
間があってから、返信が来た。
『俺がたまに行くところ』
『ちょっとした穴場みたいな場所』
『海水浴場でもないし、観光地って感じでもない』
『人もそんなに来ない』
私は画面と見つめ合った。
『どんなところ?』
『綺麗な砂浜がある』
『その端の方に岩場が続いてて、』
『少し離れたところには木もある』
『周りに建物とかもあんまりないから、海がそのまま広がってる感じ』
私は、その言葉を読みながら、ぼんやりとその場所を想像した。
綺麗な砂浜。
その先には、どこまでも続く海。
砂浜の端には、いくつかの岩が重なるように並んでいて、その向こうにも青い海が広がっている。
風が吹けば、木の葉が揺れて。
波が砂浜に寄せては、静かに引いていく。
きっと、海水浴場みたいな賑やかさはない。人の声も、たくさんの足音もない。ただ、波の音が静かに響いているような場所。
『……人は?』
私は一番気になっていたことを尋ねた。
『ほとんどいない』
『俺が行ったときも、誰もいないことの方が多かった』
『たまに人がいるくらい』
その文章を見て、私は少しだけ安心した。
『……そうなんだ』
『うん』
『俺、あそこ好きなんだよな』
その一言に、私は少しだけ目を止めた。
『好きなの?』
『うん。とても』
『なんか落ち着く』
『暇なときとか、たまに行ってる』
私は画面を見つめた。
迅がそこで過ごしているところを想像する。
一人で砂浜に座って、海を眺めている迅。波の音を聞きながら、何も考えずに過ごしているのだろうか。
『……お気に入りなんだ』
『まあ、そんな感じ』
『あんまり人に知られてないから、俺は好き』
その返信を見て、私は少しだけ笑った。
『いいね』
『いいでしょ(笑)』
『明日にでも行こうよ』
それから、しばらくメッセージは途切れた。
私はスマートフォンを握ったまま、ぼんやりと天井を見上げる。
迅が好きな海。誰にもあまり知られていない、静かな場所。綺麗な砂浜と、岩場。波の音。
まだ見たこともない場所なのに、なぜだか、その景色を見てみたくなった。
― ―ピコン!
迅からだった。
『…無理しなくていいからね』
私はその言葉を見つめた。
今日、私は約束を守れなかった。それなのに、迅は責めなかった。ただ、明日にでも一緒に行こうと言ってくれた。
『……ありがとう』
そう送る。
すると、
『こっちこそ』
『一緒に行ってくれるなら嬉しい』
と返ってきた。
私はスマートフォンを胸元に抱えた。
海は、まだ少し怖い。
だけど。
迅が教えてくれたその場所なら。
少しだけ、行ってみたいと思った。