ひとりのじかん

午後。
私は家を出た。
昨日と同じように、白い髪を隠さずに。
駅までの道では、すれ違う人の視線が気になる。何度も俯きそうになる。
それでも、足を止めなかった。昨日より少しだけ。一昨日より、もっとと鼓舞する。

駅に着く。スマートフォンを見た。
『もう着いた』
迅からだった。
『私も』
送信。
駅の改札を抜ける。少し歩いたところで、
「葵依!」
聞き慣れた声がした。ぱっと顔を上げる。
迅がこちらに向かって手を振っていた。
「遅い!」
「まだ待ち合わせ時間前だけど?」
「……そうだっけ」
「そうだよ」
「じゃあ俺が早すぎた」
「何それ」
私は笑った。迅も笑う。それだけで、今日は少し嬉しかった。
「今日、なんかいいことあった?」
「……なんで?」
「顔が昨日と違う」
「分かるの?」
「分かる」
「……お兄ちゃんと話した」
迅の表情が少し変わった。
「お兄ちゃん?」
「うん」
「仲悪いの?」
「違う」
私は首を横に振った。
「今まで、私が勝手に距離を置いてただけ」
「そっか」
「お兄ちゃんも悩んでたみたい」
「……優しい人なんだな」
「うん」
少しだけ笑う。
「昔は、すごく仲良かったんだよ」
「じゃあ、また仲良くなれるんじゃない?」
「……そうかな」
「なれると思う」
迅は簡単に言った。でも、その言葉は嫌じゃなかった。
「……そうだったらいいな」
私は空を見上げた。夏の青空。昨日までより、少しだけ眩しく感じる。
歩きながら、私はふと聞いた。
「ねえ、迅」
「ん?」
「迅はさ」
「うん」
「家族と仲良い?」
迅の足が、一瞬だけ止まった。
「……え?」
ほんの一瞬だった。すぐにいつもの笑顔に戻る。
「まあ、普通」
「……普通?」
「うん」
「なんか変」
「何が?」
「今、一瞬だけ変な顔した」
「してない」
「した」
「してないって」
「絶対した」
「葵依、観察力いいな」
「誤魔化した」
「誤魔化してない」
迅は笑った。でも…。
さっきの一瞬を、私は見逃してはいない。
いつも明るくて。冗談を言って。何でも笑って受け流して。私の話を聞いてくれる。
そんな迅が。
ほんの一瞬だけ、笑っていなかった。

「……葵依」
帰り道。
駅へ向かって歩いていた私の隣で、迅は突然立ち止まった。
「何?」
振り返ると、迅は少しだけ困ったような顔をしていた。いつもの笑顔とは違う。
何かを言おうとしているのに、言葉が見つからない…。そんな感じの表情。
「明日さ、ちょっと付き合ってほしいところがある」
「どこ?」
「海」
「……海?」
思わず聞き返した。迅は小さく頷く。
「うん。ちょっと遠いけど」
「どうして海?」
「……まあ、行けば分かる」
そう言って、迅はいつものように笑った。
けれど、その笑顔は、いつもより少しだけ無理をしているように見えた。
聞いてはいけないことなのかもしれないと悟り、私はそれ以上、聞かなかった。
けれど、その日の帰り道も、迅と別れた後も、迅の言葉と表情が、ずっと頭に残っていた。忘れられなかった。

夜。
自分の部屋に戻る。
私は机の引き出しから、あのノートを取り出した。
『私が学校に行けなくなった理由。』
その文字を見る。このノートを見ると、感情の整理がつく。
『ただ、怖かっただけだった』
『私は、まだ学校が好きだった。』
『でも、少しずつ変わっていった。』
そこで手が止まった。
『白い髪が嫌いになったのは、自分からではなかった。』
私はその文字を見つめた。
そして、次の一文を書こうとした。
『最初は、ただ珍しがられていただけだった。』
ペン先が震える。筆跡も大きく乱れた。
記憶の奥から、声が聞こえてくる。
――白い。
――なんか怖い。
――触っていい?
――普通じゃない。
私は目を閉じた。
まだ怖い。
でも、昨日とは違う。少なくとも、今の私は一人じゃない。
お母さんとも。お兄ちゃんとも。
そして――迅とも。
少しずつだけど、言葉を交わせるようになっている。
大丈夫。私はもう一度、ペンを握った。
『だけど、ある日から、それは「珍しい」ではなくなった。』
そこで、一度息を止める。
『「嫌だ」と言われるようになった。』
胸が苦しくなる。
それでも、書き続ける。
『笑われるようになった。』
『避けられるようになった。』
『そして、私は――』
そこで、ペンが止まった。
その先だけは、まだ書けなかった。
私はノートを閉じる。
「……今日は、ここまで」
無理をしなくていい。そう教えてくれた人がいる。
一気に全部変えなくてもいい。一歩も進めない日があってもいい。
私はノートを引き出しに戻した。
スマートフォンを見る。迅からメッセージが来ていた。
『今日はありがとう』
私は少し考える。
『こちらこそ』
送信。
すぐに返信。
『また明日な』
その文字を見て、私は微笑んだ。
「……うん。また明日」
スマートフォンを伏せる。そして、ベッドに入った。
今日。
私はお兄ちゃんと話した。
ずっと避けていたお兄ちゃんと。
本当は嫌いじゃなかったお兄ちゃんと。
少しだけ、昔の関係に戻れた気がした。
そして同時に、私は気づいてしまった。
人は、自分が思っているほど簡単には理解できない。
家族でさえ。毎日一緒にいる人でさえ。見えていないものがある。
だったら――。
いつも笑っている迅には。
私が知らない何かがあるのだろうか。
今日、駅で見せた一瞬の表情。
あれは何だったのだろう。
私は天井を見つめた。
「……迅」
名前を呟く。
すると、スマートフォンが震えた。びっくりしすぎて、慌てて確認する。
『そういえば、帰り際にも言ったけど、明日ちょっと話したいことある』
『ここの駅に来て欲しい』
「……え?」
貼付されたマップを開く。…事前に言われた通り、少し遠いが、駅から南下したら、ちょうど海がある。
私は画面を見つめた。
『何?やっぱりどうかしたの?』
送信。
既読がつく。
けれど…返信は来なかった。
「……何それ」
少し不安になりながら、私はスマートフォンを枕元に置いた。
その夜。私はなかなか眠れなかった。
明日、迅は私に何を話すつもりなのだろう。
そして私はまだ知らなかった。
その『話したいこと』が。
迅自身がずっと隠してきたものと繋がっていることを。