朝の6時。今日は珍しく寝坊した。
昨日のことを思い出しながら、私はベッドの上でごろごろと寝返りを打った。
その時だった。
コンコン。
部屋の扉が軽く叩かれた。
「葵依、起きてる?」
お兄ちゃんだった。
…私が不登校になってからは、毎朝こうして呼びに来てくれている。
「……起きてる」
「朝ご飯、もうすぐでできるって」
「分かった」
足音が遠ざかっていく。
私はゆっくり起き上がった。そして洗面所へ向かう。鏡の前に立つ。
白い髪。白い肌。淡い色の瞳。何も変わってはいない。
でも。
「……」
私は、すぐには目を逸らさなかった。
昨日より少し長く、鏡の中の自分を見る。
まだ好きにはなれない。だけど、昨日よりほんの少しだけ、逃げなくなった気がする。
毎日こうして見つめているおかげだ。
「……迅のせいかな」
そう呟いて、水を出した。冷たい水が手に触れる。
その瞬間、ふと、昔のことを思い出した。
――お兄ちゃんはできる子なのに。
――颯斗は学年主席なのよ。
――お兄ちゃんを見習いなさい。
お母さんの声。
私は蛇口を閉めた。
「……」
胸の奥が、少しだけ重くなる。
以前の私なら、ここで考えるのをやめていた。
でも今は…。
迅の言葉が頭に浮かんだ。
『自分が何で苦しいのかを、少しずつ知る』
私は小さく息を吐いた。
「……お兄ちゃん、か」
私はリビングへ向かった。
朝食の席。
お兄ちゃんはいつものようにテレビを眺めながら、ご飯を食べていた。
何も変わらない朝。なのに、今日は妙に気になった。
お兄ちゃん。
颯斗。
私より二つ年上。成績優秀。運動もできる。先生からも頼りにされている。友達も多い。お母さんが自慢したくなるのも分かる。
――分かるからこそ、嫌だった。
「葵依?」
「……え?」
顔を上げる。
お兄ちゃんがこちらを見ていた。
「どうした? ぼーっとして」
「なんでもない」
「そっか」
それ以上は聞いてこなかった。
私は箸を動かす。でも、頭の中では昔のことが浮かんでいた。
中学生の頃。まだ学校へ普通に通っていた頃。
私は、お兄ちゃんのことが嫌いだったわけじゃない。
むしろ…。昔は、かなり仲が良かった。
小さい頃、お兄ちゃんは、私の手を引いてよく公園へ連れて行ってくれた。転んで泣いた時には、母より先に駆け寄ってくれた。私が算数の問題で分からなくなった時には、一緒に考えてくれたし、教えてくれた。中学受験も手伝って貰った。
「ここはこうすればいい」
「……ほんとだ」
「葵依、頭いいじゃん」
「お兄ちゃんが教えたからでしょ」
「じゃあ俺がすごいってこと?」
「調子乗らないで」
「ひど」
そんなくだらない会話をして。二人で笑って。
昔の私は、お兄ちゃんが大好きだった。
だからこそ。
いつからだろう。お兄ちゃんの名前…。『颯斗』と聞くだけで、胸が苦しくなったのは。
「葵依」
「……なに?」
「今日、塾あるんだろ?」
「うん」
ん?あれ?…塾?聞き間違いだろうか…。
「じゃあ、頑張って」
「……うん」
その言葉に、ほんの少しだけ引っかかった。
そして、『頑張って』という言葉。
悪い言葉じゃない。
むしろ、優しい言葉のはずなのに。私はどうしてか、胸がざわついた。お兄ちゃんが悪いわけじゃない。
そんなこと、分かっている。
でも。
「……」
私は箸を置いた。
「ごちそうさま」
「もういいの?」
「うん」
私は席を立った。その背中を、お兄ちゃんがじっと見ていたことには気づかなかった。
午前。
いつものオンライン授業を終える。
画面が暗くなった。
「……疲れた」
私は椅子から立ち上がった。
机の上を片付けていると、スマートフォンが鳴った。
『今日も会えそう?』
迅からだった。思わず口元が緩む。
『うん』
送信。
すぐに返事が来る。
『よっしゃ』
『何その喜び方』
『葵依が来てくれるから』
「……」
私はスマートフォンを見つめた。顔がやたら熱い。
なんだろう。胸の奥が、痺れるというか、疼くというか…。
『じゃあ、昨日と同じ駅ね』
『了解』
『遅刻しないでね』
『努力します』
『そこは絶対って言ってよ』
『絶対』
「ふふっ」
思わず笑った。
その時。
コンコン。
また扉が鳴った。
「葵依?」
「……お兄ちゃん?」
扉の向こうから声がする。そういえば、今日は部活がないとか言ってたっけ?
「入っていい?」
「……うん」
扉が開いた。お兄ちゃんが入ってくる。
「何?」
「いや……」
珍しく、歯切れが悪かった。いつもなら、もっと何でも迷わず言う人なのに。
「……何か用?」
「その……」
お兄ちゃんは私の机の横に立った。
少しだけ間があって。
「最近、俺のこと避けてる?」
心臓が跳ねた。
「……え?」
「いや、なんとなく」
お兄ちゃんは苦笑した。
「朝もあんまり目合わせないし。俺が話しかけると、すぐ部屋に戻るし」
「……そんなことな…」
「あるよ」
即答だった。
私は黙った。
「俺、何かした?」
その言葉を聞いて、胸が詰まった。
「……してない」
「本当に?」
「うん」
「じゃあ、なんで?」
答えられない。
『お兄ちゃんが嫌いだから』なんて、そんなこと、言えるわけがない。
だって違うから。私はお兄ちゃんが嫌いなわけじゃない。嫌いじゃない。
ただ――。
「……お兄ちゃんを見ると、苦しくなる」
しまった!口から出てしまった。否定しないと!
お兄ちゃんの表情が変わる。
「……俺のこと、嫌いってわけ?」
「違う!」
思わず大きな声が出た。
「嫌いじゃない」
「じゃあ……」
お兄ちゃんは困ったように眉を寄せた。
「なんで俺を見ると、そんな苦しそうな顔するの?」
「……」
また答えられない。
喉の奥が詰まる。私は俯いた。
「……お兄ちゃんが悪いんじゃない」
「でも」
「本当に違う」
私は自分の膝の上で手を握った。
「私が勝手に……」
「何を?」
「……比べちゃうの」
「比べる?」
「お母さんが」
その一言で、お兄ちゃんの顔から表情が消えた。
「……ああ」
きっと、分かったのだろう。
「お兄ちゃんはできるのに」
「……」
「颯斗は学年主席」
「……」
「お兄ちゃんを見習いなさい」
一つずつ、言葉にするたびに、胸の奥が痛くなった。
「何回も聞いてるうちに……」
声が震える。
「お兄ちゃんを見るだけで、その言葉が頭の中に浮かぶようになった」
お兄ちゃんは何も言わなかった。
「だから……」
私は顔を上げる。
「お兄ちゃんが嫌いなんじゃない」
「……うん」
「むしろ、昔は好きだった」
「……昔?」
「小さい頃」
少しだけ笑う。
「公園連れてってくれたし。私が転んだら助けてくれたし。勉強も教えてくれた。」
「……覚えてたんだ」
「忘れるわけないじゃん」
お兄ちゃんも少し笑った。でも、その笑顔はすぐに消えた。
「じゃあ、俺はどうすればいい?」
「……え?」
「葵依が苦しんでるのは分かった」
お兄ちゃんは少し俯いた。
「でも、俺、どう声かけたらいいのか分からなかったし、今も分からない」
その言葉に、私は驚いた。
「学校行けって言ったら傷つけるかもしれない」
「……」
「頑張れって言っても、今の葵依にはきついかもしれない」
「……うん」
「だから、何も言わない方がいいのかなって思ってた」
私は黙って聞いていた。
「でも、何も言わなかったら、今度は俺が葵依を見捨ててるみたいになる気がして」
お兄ちゃんは苦笑した。
「……難しいよな」
その顔は、私が知っている『完璧なお兄ちゃん』とは全然違った。
いつも何でもできて。何でも分かって。何をやっても失敗しない。そんな人だと思っていた。
でも、違った。
お兄ちゃんだって、分からないことがある。私への接し方が分からなくて、悩んでいた。
「……私も」
「ん?」
「お兄ちゃんにどう接したらいいか分からなかった」
「……そっか」
「お兄ちゃんは何も悪くないのに」
「うん」
「勝手に苦しくなって……」
「うん」
「勝手に避けて……」
「うん」
「……ごめん」
お兄ちゃんは少しだけ笑った。
「謝らなくていいよ」
「でも」
「俺も悪かった」
「お兄ちゃんは悪くないって」
「それでも」
少しだけ間を置いて。
「俺も、葵依が苦しんでることに気づくのが遅かったから」
私は何も言えなかった。
しばらく沈黙が続いた。
でも、嫌な沈黙ではなかった。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「私さ」
私は少し迷ってから言った。
「勉強、ちゃんとやってるよ」
「……知ってる」
「え?」
「父さんから聞いてる」
私は目を丸くした。まさか、あれ程口の硬いお父さんが、お兄ちゃんには言っていたなんて…。信じ難かった。
「お父さんから?」
「うん」
お兄ちゃんは笑った。
「毎日四時間くらいやってるんだろ?」
「……うん」
「すごいじゃん」
「……」
その言葉が、妙に胸に響いた。お母さんからは一度も言われたことがない。
『すごい』
その一言だけなのに、涙が出そうになる。
「何泣きそうになってんの」
「泣いてない」
「いや、泣きそう」
「泣いてないってば」
「はいはい」
お兄ちゃんが笑う。私も少しだけ笑った。
昔みたいだった。ほんの少しだけ。
「……お兄ちゃん」
「何?」
「ありがとう」
「何が?」
「……分かんない」
「なんだそれ」
二人で笑った。
それから、お兄ちゃんが立ち上がった。
「じゃあ、俺そろそろ行くわ」
「うん」
扉のところまで行ったお兄ちゃんが、振り返る。
「あ」
「何?」
「葵依」
「うん?」
「無理に学校行かなくてもいいと思う」
私は目を見開いた。
「……」
「だけど、ひとつだけ俺のわがままを言うとすれば…。俺が卒業するまでに、もう一度だけ、一緒に登校したい。中学の頃のように。」
お兄ちゃんは少し考えてから、続けて言った。
「まあ、葵依が元気になる方が先だけどな」
胸の奥が熱くなる。
「……考えとく」
「ありがとう。じゃあな」
「うん」
扉が閉まる。
一人になった部屋。
私はしばらく動けなかった。
「……お兄ちゃんも、ちゃんと考えてたんだ」
ぽつりと呟いた。
私は今まで、お兄ちゃんを『母が作った比較対象』としてしか見ていなかったのかもしれない。
颯斗。
学年主席。
優秀。
お母さんが誇る息子。
そんな肩書きばかりを見ていた。気にしてきた。
その奥にいる、一人の人間を、私はちゃんと見ていなかった。
「……ごめんね」
誰もいない部屋で呟く。
けれど、まだ、完全に気持ちが楽になったわけではない。
母の言葉が積み重なった時間は、数分の会話だけで消えるほど軽くない。
それでも、今日初めて、『お兄ちゃんが悪いわけじゃない』ということを、ちゃんと自分の言葉で認められた気がした。
昨日のことを思い出しながら、私はベッドの上でごろごろと寝返りを打った。
その時だった。
コンコン。
部屋の扉が軽く叩かれた。
「葵依、起きてる?」
お兄ちゃんだった。
…私が不登校になってからは、毎朝こうして呼びに来てくれている。
「……起きてる」
「朝ご飯、もうすぐでできるって」
「分かった」
足音が遠ざかっていく。
私はゆっくり起き上がった。そして洗面所へ向かう。鏡の前に立つ。
白い髪。白い肌。淡い色の瞳。何も変わってはいない。
でも。
「……」
私は、すぐには目を逸らさなかった。
昨日より少し長く、鏡の中の自分を見る。
まだ好きにはなれない。だけど、昨日よりほんの少しだけ、逃げなくなった気がする。
毎日こうして見つめているおかげだ。
「……迅のせいかな」
そう呟いて、水を出した。冷たい水が手に触れる。
その瞬間、ふと、昔のことを思い出した。
――お兄ちゃんはできる子なのに。
――颯斗は学年主席なのよ。
――お兄ちゃんを見習いなさい。
お母さんの声。
私は蛇口を閉めた。
「……」
胸の奥が、少しだけ重くなる。
以前の私なら、ここで考えるのをやめていた。
でも今は…。
迅の言葉が頭に浮かんだ。
『自分が何で苦しいのかを、少しずつ知る』
私は小さく息を吐いた。
「……お兄ちゃん、か」
私はリビングへ向かった。
朝食の席。
お兄ちゃんはいつものようにテレビを眺めながら、ご飯を食べていた。
何も変わらない朝。なのに、今日は妙に気になった。
お兄ちゃん。
颯斗。
私より二つ年上。成績優秀。運動もできる。先生からも頼りにされている。友達も多い。お母さんが自慢したくなるのも分かる。
――分かるからこそ、嫌だった。
「葵依?」
「……え?」
顔を上げる。
お兄ちゃんがこちらを見ていた。
「どうした? ぼーっとして」
「なんでもない」
「そっか」
それ以上は聞いてこなかった。
私は箸を動かす。でも、頭の中では昔のことが浮かんでいた。
中学生の頃。まだ学校へ普通に通っていた頃。
私は、お兄ちゃんのことが嫌いだったわけじゃない。
むしろ…。昔は、かなり仲が良かった。
小さい頃、お兄ちゃんは、私の手を引いてよく公園へ連れて行ってくれた。転んで泣いた時には、母より先に駆け寄ってくれた。私が算数の問題で分からなくなった時には、一緒に考えてくれたし、教えてくれた。中学受験も手伝って貰った。
「ここはこうすればいい」
「……ほんとだ」
「葵依、頭いいじゃん」
「お兄ちゃんが教えたからでしょ」
「じゃあ俺がすごいってこと?」
「調子乗らないで」
「ひど」
そんなくだらない会話をして。二人で笑って。
昔の私は、お兄ちゃんが大好きだった。
だからこそ。
いつからだろう。お兄ちゃんの名前…。『颯斗』と聞くだけで、胸が苦しくなったのは。
「葵依」
「……なに?」
「今日、塾あるんだろ?」
「うん」
ん?あれ?…塾?聞き間違いだろうか…。
「じゃあ、頑張って」
「……うん」
その言葉に、ほんの少しだけ引っかかった。
そして、『頑張って』という言葉。
悪い言葉じゃない。
むしろ、優しい言葉のはずなのに。私はどうしてか、胸がざわついた。お兄ちゃんが悪いわけじゃない。
そんなこと、分かっている。
でも。
「……」
私は箸を置いた。
「ごちそうさま」
「もういいの?」
「うん」
私は席を立った。その背中を、お兄ちゃんがじっと見ていたことには気づかなかった。
午前。
いつものオンライン授業を終える。
画面が暗くなった。
「……疲れた」
私は椅子から立ち上がった。
机の上を片付けていると、スマートフォンが鳴った。
『今日も会えそう?』
迅からだった。思わず口元が緩む。
『うん』
送信。
すぐに返事が来る。
『よっしゃ』
『何その喜び方』
『葵依が来てくれるから』
「……」
私はスマートフォンを見つめた。顔がやたら熱い。
なんだろう。胸の奥が、痺れるというか、疼くというか…。
『じゃあ、昨日と同じ駅ね』
『了解』
『遅刻しないでね』
『努力します』
『そこは絶対って言ってよ』
『絶対』
「ふふっ」
思わず笑った。
その時。
コンコン。
また扉が鳴った。
「葵依?」
「……お兄ちゃん?」
扉の向こうから声がする。そういえば、今日は部活がないとか言ってたっけ?
「入っていい?」
「……うん」
扉が開いた。お兄ちゃんが入ってくる。
「何?」
「いや……」
珍しく、歯切れが悪かった。いつもなら、もっと何でも迷わず言う人なのに。
「……何か用?」
「その……」
お兄ちゃんは私の机の横に立った。
少しだけ間があって。
「最近、俺のこと避けてる?」
心臓が跳ねた。
「……え?」
「いや、なんとなく」
お兄ちゃんは苦笑した。
「朝もあんまり目合わせないし。俺が話しかけると、すぐ部屋に戻るし」
「……そんなことな…」
「あるよ」
即答だった。
私は黙った。
「俺、何かした?」
その言葉を聞いて、胸が詰まった。
「……してない」
「本当に?」
「うん」
「じゃあ、なんで?」
答えられない。
『お兄ちゃんが嫌いだから』なんて、そんなこと、言えるわけがない。
だって違うから。私はお兄ちゃんが嫌いなわけじゃない。嫌いじゃない。
ただ――。
「……お兄ちゃんを見ると、苦しくなる」
しまった!口から出てしまった。否定しないと!
お兄ちゃんの表情が変わる。
「……俺のこと、嫌いってわけ?」
「違う!」
思わず大きな声が出た。
「嫌いじゃない」
「じゃあ……」
お兄ちゃんは困ったように眉を寄せた。
「なんで俺を見ると、そんな苦しそうな顔するの?」
「……」
また答えられない。
喉の奥が詰まる。私は俯いた。
「……お兄ちゃんが悪いんじゃない」
「でも」
「本当に違う」
私は自分の膝の上で手を握った。
「私が勝手に……」
「何を?」
「……比べちゃうの」
「比べる?」
「お母さんが」
その一言で、お兄ちゃんの顔から表情が消えた。
「……ああ」
きっと、分かったのだろう。
「お兄ちゃんはできるのに」
「……」
「颯斗は学年主席」
「……」
「お兄ちゃんを見習いなさい」
一つずつ、言葉にするたびに、胸の奥が痛くなった。
「何回も聞いてるうちに……」
声が震える。
「お兄ちゃんを見るだけで、その言葉が頭の中に浮かぶようになった」
お兄ちゃんは何も言わなかった。
「だから……」
私は顔を上げる。
「お兄ちゃんが嫌いなんじゃない」
「……うん」
「むしろ、昔は好きだった」
「……昔?」
「小さい頃」
少しだけ笑う。
「公園連れてってくれたし。私が転んだら助けてくれたし。勉強も教えてくれた。」
「……覚えてたんだ」
「忘れるわけないじゃん」
お兄ちゃんも少し笑った。でも、その笑顔はすぐに消えた。
「じゃあ、俺はどうすればいい?」
「……え?」
「葵依が苦しんでるのは分かった」
お兄ちゃんは少し俯いた。
「でも、俺、どう声かけたらいいのか分からなかったし、今も分からない」
その言葉に、私は驚いた。
「学校行けって言ったら傷つけるかもしれない」
「……」
「頑張れって言っても、今の葵依にはきついかもしれない」
「……うん」
「だから、何も言わない方がいいのかなって思ってた」
私は黙って聞いていた。
「でも、何も言わなかったら、今度は俺が葵依を見捨ててるみたいになる気がして」
お兄ちゃんは苦笑した。
「……難しいよな」
その顔は、私が知っている『完璧なお兄ちゃん』とは全然違った。
いつも何でもできて。何でも分かって。何をやっても失敗しない。そんな人だと思っていた。
でも、違った。
お兄ちゃんだって、分からないことがある。私への接し方が分からなくて、悩んでいた。
「……私も」
「ん?」
「お兄ちゃんにどう接したらいいか分からなかった」
「……そっか」
「お兄ちゃんは何も悪くないのに」
「うん」
「勝手に苦しくなって……」
「うん」
「勝手に避けて……」
「うん」
「……ごめん」
お兄ちゃんは少しだけ笑った。
「謝らなくていいよ」
「でも」
「俺も悪かった」
「お兄ちゃんは悪くないって」
「それでも」
少しだけ間を置いて。
「俺も、葵依が苦しんでることに気づくのが遅かったから」
私は何も言えなかった。
しばらく沈黙が続いた。
でも、嫌な沈黙ではなかった。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「私さ」
私は少し迷ってから言った。
「勉強、ちゃんとやってるよ」
「……知ってる」
「え?」
「父さんから聞いてる」
私は目を丸くした。まさか、あれ程口の硬いお父さんが、お兄ちゃんには言っていたなんて…。信じ難かった。
「お父さんから?」
「うん」
お兄ちゃんは笑った。
「毎日四時間くらいやってるんだろ?」
「……うん」
「すごいじゃん」
「……」
その言葉が、妙に胸に響いた。お母さんからは一度も言われたことがない。
『すごい』
その一言だけなのに、涙が出そうになる。
「何泣きそうになってんの」
「泣いてない」
「いや、泣きそう」
「泣いてないってば」
「はいはい」
お兄ちゃんが笑う。私も少しだけ笑った。
昔みたいだった。ほんの少しだけ。
「……お兄ちゃん」
「何?」
「ありがとう」
「何が?」
「……分かんない」
「なんだそれ」
二人で笑った。
それから、お兄ちゃんが立ち上がった。
「じゃあ、俺そろそろ行くわ」
「うん」
扉のところまで行ったお兄ちゃんが、振り返る。
「あ」
「何?」
「葵依」
「うん?」
「無理に学校行かなくてもいいと思う」
私は目を見開いた。
「……」
「だけど、ひとつだけ俺のわがままを言うとすれば…。俺が卒業するまでに、もう一度だけ、一緒に登校したい。中学の頃のように。」
お兄ちゃんは少し考えてから、続けて言った。
「まあ、葵依が元気になる方が先だけどな」
胸の奥が熱くなる。
「……考えとく」
「ありがとう。じゃあな」
「うん」
扉が閉まる。
一人になった部屋。
私はしばらく動けなかった。
「……お兄ちゃんも、ちゃんと考えてたんだ」
ぽつりと呟いた。
私は今まで、お兄ちゃんを『母が作った比較対象』としてしか見ていなかったのかもしれない。
颯斗。
学年主席。
優秀。
お母さんが誇る息子。
そんな肩書きばかりを見ていた。気にしてきた。
その奥にいる、一人の人間を、私はちゃんと見ていなかった。
「……ごめんね」
誰もいない部屋で呟く。
けれど、まだ、完全に気持ちが楽になったわけではない。
母の言葉が積み重なった時間は、数分の会話だけで消えるほど軽くない。
それでも、今日初めて、『お兄ちゃんが悪いわけじゃない』ということを、ちゃんと自分の言葉で認められた気がした。
