早くに出過ぎた。
そう後悔したのは、とっくに家を出てからだった。
時間帯的に人が多い…。以前より少しだけ耐えられはするけど…。
駅に着き、電車に乗る。人の声。足音。アナウンス。全部が混ざっている。
私は窓の外を見る。流れていく景色。迅に会えなければ、ずっと下を向いていたと思う。今日は、ほんの少しだけ顔を上げていた。
待ち合わせ場所。今回も同じ駅のベンチ。
私は座って待つ。約束の時間まで、まだ十五分ある。
「……早すぎた」
いくら何でも早すぎだと自分でも思う。自分でもおかしくなる。
迅はまだ来ていない。彼なら絶対に遅刻しそうだ。
私はスマートフォンを見る。
『着いた』
送ろうとして、やめた。待っていると言ったら、なんだか必死みたいだ。そう思ってスマートフォンをしまう。
けれど、五分後。
また出す。
通知はない。
「……」
さらに五分。
「……遅い」
そう呟いた瞬間。
「何が遅いって?」
「……っ!」
後ろから声がした。
振り返る。
迅だった。
「びっくりした……」
「ごめん」
「……いつからいたの?」
「今来た」
「……そう」
私は少し安心した。
「葵依、早くない?」
「……普通」
「いや、絶対早い」
「……」
図星だった。
「待った?」
「……少し」
「何分?」
「……」
「また『知らない』?」
「……うるさい」
迅が笑う。
その笑顔を見ると、何故か自分まで少し笑ってしまう。
「今日はどこ行く?」
「……どこでも」
「じゃあ、俺が決めていい?」
「いいよ」
「近くに古本屋あるんだけど、行ってみない?」
「本屋?」
「そう」
「……行く」
こうして、二人で並んで歩き始めた。
古本屋は、商店街の端にあった。
小さな店。少し古びた看板。中に入ると、紙と木の匂いがした。
「こういうの好き?」
迅が聞く。
「……好き」
「本読むんだ」
「昔は」
「また『昔は』?」
「……」
私は少し黙る。
「今は、あんまり」
「そっか」
迅はそれ以上聞かなかった。
私は棚を眺める。
小説。漫画。参考書。絵本。雑誌。いろんな本が並んでいる。
その中でも、一冊の本に目が止まった。
表紙に、白い花が描かれている。
白い花。
私はその本を手に取った。
「それ、好きなの?」
迅が言った。
「……」
私は少し驚いて、迅を見る。
「何で?」
「いや、葵依、白いもの好きなのかなって」
「……分かんない」
「そっか」
「……でも」
私は表紙を見る。
「嫌いではないかな」
「じゃあ好きじゃん」
「……そうなのかな?」
「たぶん」
私は少し笑った。
その瞬間だった。
店の奥から、若い女性の声が聞こえた。
「すみません、その本取ってもらえますか?」
「……」
私は振り返る。
普通の声。自分に言い聞かせる。『ただの日常会話だ』と。
なのに、胸がざわついた。
「葵依?」
「……え?」
「どうした?」
「……何でもない」
私は本を棚に戻した。でも、頭の中では別の声が聞こえていた。
――その本、取って。
中学三年生。
教室の窓際。昼休みのこと。
「ねえねえ、あおいさーん」
「……何?」
「そこの本取ってよー」
「……これ?」
「違うわ。それだよそれぇ」
「……これ?」
「そう」
本を渡す。
「どうもー」
周りの取り巻き達と笑い出した。笑い声が脳に響く。
「あおいってさー!やっぱ白いねー」
「……」
「本当に日本人?」
「まじウケるー」
「……」
「目、こわーい」
「……」
「近くで見るともっと変だー!」
――。
私は本棚の前で立ち尽くした。
「葵依?」
迅の声。
「……」
「大丈夫?」
顔を覗かれて、ようやく私は我に返った。
「……うん」
「顔、怖いけど」
「……そう?」
「うん」
私は本を棚に戻した。…手が、少し震えていた。
店を出る。
外は暑かった。
私は黙って歩いた。迅も何も言わない。
しばらくして、
「……さっき」
迅が口を開いた。
「うん?」
「何か思い出した?」
私は足を止めた。
「……なんで?」
「急に顔変わったから」
「……」
逃げたくなった。見透かされているようで。
でも、迅は追及しなかった。
「言いたくなかったら言わなくていい」
「……」
その言葉で、少しだけ呼吸が楽になった。
「……昔のこと」
「学校?」
「……うん」
「嫌なこと?」
私は頷いた。
「……中三」
「中三?」
「うん」
それ以上言えない。喉が詰まる。
でも、迅は待っている。待たれるほど、心は苦しくなる一方だった。
「……いじめられてた」
言った。ようやく言えた。言葉にしたのは、久しぶりだった。
迅の表情はすぐに変わった。
「……そうだったんだ」
そう返してきたことに、私は少し驚いた。
「……もっと聞かないの?」
「聞いてほしい?」
「……分かんない」
「じゃあ、今は聞かない」
「……そっか」
それが、ありがたかった。
公園に戻る。
ベンチに座る。
蝉の声がする。
私は膝の上で手を組んだ。
「……中三の一学期だった」
自分から話し始めていた。
「最初は、普通だった」
迅は黙って聞いている。
「クラス替えもあったし……仲良くなった子もいた」
「うん」
「私、学校……嫌いじゃなかった」
言葉にすると、胸が痛くなる。
「むしろ、好きだった」
迅は何も言わない。
「でも、ある日……」
私はそこで止まった。
記憶が戻ってくる。
教室。机。笑い声。白い髪。
「……私の髪のことを、面白がる子がいた」
「……うん」
「最初は、珍しいって言われるくらいだった」
私は自分の髪に触れた。
「でも、だんだん……」
言葉が詰まる。
「……畏怖の対象にして、からかわれるようになった」
「どんな?」
「……」
私は首を横に振った。
「そこは、言いたくない」
「分かった」
迅はすぐに引いた。
それだけで、まだもうちょっと話せる気がした。
「最初は我慢できた」
「うん」
「でも、少しずつ……教室にいるのが怖くなった」
「……」
「私が教室に入ると、笑われる気がして」
私は膝を見る。手に力が入る。
「誰も笑ってないのに、笑われてるような気がした」
「……」
「廊下を歩くだけで、誰かがこっちを見てる気がした」
「うん」
「それで、段々とエスカレートするようになって。机に変な紙が置いてあったり、靴箱に色々入ってたり」
自分の声が、少しずつ震えてくる。
「それで……ある日」
私は目を伏せた。
「トイレにいたら、何人かに囲まれて」
そこから先が言えなくなった。
喉が詰まる。
「……水を」
やっと声にする。
「水をかけられた」
迅は何も言わなかった。
「頭から……制服も濡れて」
私は自分の腕を抱えた。
「その後も、何もなかったみたいに学校へ行かなきゃいけなくて」
「…」
「友達に『どうしたの?』って聞かれても、何も言えなかった」
「……」
「先生にも相談出来なかった」
「…どうして?」
「怖かったから」
私は苦笑した。
「告げ口したって思われるのが怖かった。もっと酷くなる気がした」
「あと、先生にも……大したことじゃないって思われそうだったから」
私は笑った。自嘲するように。
「実際、大したことないのかもしれないし」
「それは違うと思う」
迅の声は静かだった。
「葵依が辛かったなら、大したことあるよ」
「……」
私は何も言えなかった。
迅の言葉に心を打たれ、私は涙した。
私が泣いている間、迅はずっと手を握ってくれた。
「それで、学校に行く前の日の夜ね」
やっと気を取り直して、私はまたゆっくり話し始めた。
「明日も何か言われるのかなって思った」
「……うん」
「朝になるのが怖くなった」
「……」
「制服を見るだけで嫌になった」
私は目を閉じる。
「それでも、行かなきゃって思った」
お母さんの言葉が頭に浮かぶ。
――学校は行くもの。
――みんな頑張ってる。
「行こうとはした」
私は言う。
「でも、玄関から出られなかった」
「……」
「それが何日も続いた」
迅は何も言わない。
私は少しだけ安心して、続ける。
「それで……いつの間にか、学校に行けなくなってた」
「……」
「だから私、学校が嫌いだったんじゃない」
私は顔を上げた。
「怖かっただけ」
その言葉を口にした瞬間。
胸の奥に引っかかっていた何かが、ほんの少しだけほどけた気がした。
「……ずっと、自分が弱いからだと思ってた」
『怖い』なんて感情、これまでの不登校生活の中でもよく感じていたのに。
「違うよ」
迅が言った。
「……何が?」
「弱いからじゃない」
「……」
「怖かったんだろ?」
「……うん」
「じゃあ、怖かった。それだけでいいんじゃね?」
私は迅を見る。
「それだけ……?」
「そうだよ」
「……」
何故か、また涙が出そうになった。
私は慌てて顔を逸らした。
「……泣いてないから」
「何も言ってないけど」
「……」
「俺何も言ってないよ?ていうか葵依、ついさっきも泣いてたじゃん」
「……うるさい」
私は笑った。
泣きそうなのに、いや、泣いていたのに。少し笑った。
「……変なの」
「またそれ?」
「だって変」
「何度も言うけど、俺は普通だからな」
「自分で言う?」
お互い見つめ合って、可笑しくなって、二人で笑った。
夕方。帰る時間がやってきた。
「明日は?」
迅が聞いた。私は少し考えた。
「……やっぱり分からない」
「そっか」
「でも」
私は続ける。
「……また来てもいい?」
言った瞬間、自分で驚いた。
迅も少し驚いている。
「もちろん」
「……そっか」
「待ってる」
「!」
その言葉に、胸が跳ねた。
待ってる。
誰かが、自分を待っている。
その感覚が、こんなにも嬉しいなんて知らなかった。
「……じゃあ」
私は少しだけ笑った。
「また来る」
「うん」
帰り道。
一人になった私は、何度も迅の言葉を思い出した。
思い出しては、心が躍って。気持ちが晴れて。思わずその場でジャンプしちゃって。
この感情の本当の姿を、この時の私はまだ分かっていなかった。
家に帰る。
「ただいま」
「おかえり」
お母さんがキッチンから顔を出してきた。
「今日はどうだった?」
「…楽しかったよ」
「そっか」
私は靴を脱ぐ。
「……お母さん」
「ん?」
「今日ね、中学校のこと、少し思い出した」
聞いた瞬間、お母さんの顔色が変わった。
「……そう」
「中三の一学期」
お母さんは黙っている。
「私……あの頃、結構辛かったんだと思う」
「……うん」
お母さんは俯いた。
「ごめんね」
「……」
「もっと早く気づいてあげればよかった」
私は何も言えなかった。
もちろん、お母さんを責めたいという気持ちもあった。でも、責めきれない。
「……まだ、全部は話せない」
「うん」
「でも……いつか話す」
母は頷いた。
「待ってる」
その言葉に、私は少し驚いた。
今日、二回目。
「……うん!」
私の口角は上がっていた。
そのまま、吸い込まれるようにして、リビングへ向かった。
そう後悔したのは、とっくに家を出てからだった。
時間帯的に人が多い…。以前より少しだけ耐えられはするけど…。
駅に着き、電車に乗る。人の声。足音。アナウンス。全部が混ざっている。
私は窓の外を見る。流れていく景色。迅に会えなければ、ずっと下を向いていたと思う。今日は、ほんの少しだけ顔を上げていた。
待ち合わせ場所。今回も同じ駅のベンチ。
私は座って待つ。約束の時間まで、まだ十五分ある。
「……早すぎた」
いくら何でも早すぎだと自分でも思う。自分でもおかしくなる。
迅はまだ来ていない。彼なら絶対に遅刻しそうだ。
私はスマートフォンを見る。
『着いた』
送ろうとして、やめた。待っていると言ったら、なんだか必死みたいだ。そう思ってスマートフォンをしまう。
けれど、五分後。
また出す。
通知はない。
「……」
さらに五分。
「……遅い」
そう呟いた瞬間。
「何が遅いって?」
「……っ!」
後ろから声がした。
振り返る。
迅だった。
「びっくりした……」
「ごめん」
「……いつからいたの?」
「今来た」
「……そう」
私は少し安心した。
「葵依、早くない?」
「……普通」
「いや、絶対早い」
「……」
図星だった。
「待った?」
「……少し」
「何分?」
「……」
「また『知らない』?」
「……うるさい」
迅が笑う。
その笑顔を見ると、何故か自分まで少し笑ってしまう。
「今日はどこ行く?」
「……どこでも」
「じゃあ、俺が決めていい?」
「いいよ」
「近くに古本屋あるんだけど、行ってみない?」
「本屋?」
「そう」
「……行く」
こうして、二人で並んで歩き始めた。
古本屋は、商店街の端にあった。
小さな店。少し古びた看板。中に入ると、紙と木の匂いがした。
「こういうの好き?」
迅が聞く。
「……好き」
「本読むんだ」
「昔は」
「また『昔は』?」
「……」
私は少し黙る。
「今は、あんまり」
「そっか」
迅はそれ以上聞かなかった。
私は棚を眺める。
小説。漫画。参考書。絵本。雑誌。いろんな本が並んでいる。
その中でも、一冊の本に目が止まった。
表紙に、白い花が描かれている。
白い花。
私はその本を手に取った。
「それ、好きなの?」
迅が言った。
「……」
私は少し驚いて、迅を見る。
「何で?」
「いや、葵依、白いもの好きなのかなって」
「……分かんない」
「そっか」
「……でも」
私は表紙を見る。
「嫌いではないかな」
「じゃあ好きじゃん」
「……そうなのかな?」
「たぶん」
私は少し笑った。
その瞬間だった。
店の奥から、若い女性の声が聞こえた。
「すみません、その本取ってもらえますか?」
「……」
私は振り返る。
普通の声。自分に言い聞かせる。『ただの日常会話だ』と。
なのに、胸がざわついた。
「葵依?」
「……え?」
「どうした?」
「……何でもない」
私は本を棚に戻した。でも、頭の中では別の声が聞こえていた。
――その本、取って。
中学三年生。
教室の窓際。昼休みのこと。
「ねえねえ、あおいさーん」
「……何?」
「そこの本取ってよー」
「……これ?」
「違うわ。それだよそれぇ」
「……これ?」
「そう」
本を渡す。
「どうもー」
周りの取り巻き達と笑い出した。笑い声が脳に響く。
「あおいってさー!やっぱ白いねー」
「……」
「本当に日本人?」
「まじウケるー」
「……」
「目、こわーい」
「……」
「近くで見るともっと変だー!」
――。
私は本棚の前で立ち尽くした。
「葵依?」
迅の声。
「……」
「大丈夫?」
顔を覗かれて、ようやく私は我に返った。
「……うん」
「顔、怖いけど」
「……そう?」
「うん」
私は本を棚に戻した。…手が、少し震えていた。
店を出る。
外は暑かった。
私は黙って歩いた。迅も何も言わない。
しばらくして、
「……さっき」
迅が口を開いた。
「うん?」
「何か思い出した?」
私は足を止めた。
「……なんで?」
「急に顔変わったから」
「……」
逃げたくなった。見透かされているようで。
でも、迅は追及しなかった。
「言いたくなかったら言わなくていい」
「……」
その言葉で、少しだけ呼吸が楽になった。
「……昔のこと」
「学校?」
「……うん」
「嫌なこと?」
私は頷いた。
「……中三」
「中三?」
「うん」
それ以上言えない。喉が詰まる。
でも、迅は待っている。待たれるほど、心は苦しくなる一方だった。
「……いじめられてた」
言った。ようやく言えた。言葉にしたのは、久しぶりだった。
迅の表情はすぐに変わった。
「……そうだったんだ」
そう返してきたことに、私は少し驚いた。
「……もっと聞かないの?」
「聞いてほしい?」
「……分かんない」
「じゃあ、今は聞かない」
「……そっか」
それが、ありがたかった。
公園に戻る。
ベンチに座る。
蝉の声がする。
私は膝の上で手を組んだ。
「……中三の一学期だった」
自分から話し始めていた。
「最初は、普通だった」
迅は黙って聞いている。
「クラス替えもあったし……仲良くなった子もいた」
「うん」
「私、学校……嫌いじゃなかった」
言葉にすると、胸が痛くなる。
「むしろ、好きだった」
迅は何も言わない。
「でも、ある日……」
私はそこで止まった。
記憶が戻ってくる。
教室。机。笑い声。白い髪。
「……私の髪のことを、面白がる子がいた」
「……うん」
「最初は、珍しいって言われるくらいだった」
私は自分の髪に触れた。
「でも、だんだん……」
言葉が詰まる。
「……畏怖の対象にして、からかわれるようになった」
「どんな?」
「……」
私は首を横に振った。
「そこは、言いたくない」
「分かった」
迅はすぐに引いた。
それだけで、まだもうちょっと話せる気がした。
「最初は我慢できた」
「うん」
「でも、少しずつ……教室にいるのが怖くなった」
「……」
「私が教室に入ると、笑われる気がして」
私は膝を見る。手に力が入る。
「誰も笑ってないのに、笑われてるような気がした」
「……」
「廊下を歩くだけで、誰かがこっちを見てる気がした」
「うん」
「それで、段々とエスカレートするようになって。机に変な紙が置いてあったり、靴箱に色々入ってたり」
自分の声が、少しずつ震えてくる。
「それで……ある日」
私は目を伏せた。
「トイレにいたら、何人かに囲まれて」
そこから先が言えなくなった。
喉が詰まる。
「……水を」
やっと声にする。
「水をかけられた」
迅は何も言わなかった。
「頭から……制服も濡れて」
私は自分の腕を抱えた。
「その後も、何もなかったみたいに学校へ行かなきゃいけなくて」
「…」
「友達に『どうしたの?』って聞かれても、何も言えなかった」
「……」
「先生にも相談出来なかった」
「…どうして?」
「怖かったから」
私は苦笑した。
「告げ口したって思われるのが怖かった。もっと酷くなる気がした」
「あと、先生にも……大したことじゃないって思われそうだったから」
私は笑った。自嘲するように。
「実際、大したことないのかもしれないし」
「それは違うと思う」
迅の声は静かだった。
「葵依が辛かったなら、大したことあるよ」
「……」
私は何も言えなかった。
迅の言葉に心を打たれ、私は涙した。
私が泣いている間、迅はずっと手を握ってくれた。
「それで、学校に行く前の日の夜ね」
やっと気を取り直して、私はまたゆっくり話し始めた。
「明日も何か言われるのかなって思った」
「……うん」
「朝になるのが怖くなった」
「……」
「制服を見るだけで嫌になった」
私は目を閉じる。
「それでも、行かなきゃって思った」
お母さんの言葉が頭に浮かぶ。
――学校は行くもの。
――みんな頑張ってる。
「行こうとはした」
私は言う。
「でも、玄関から出られなかった」
「……」
「それが何日も続いた」
迅は何も言わない。
私は少しだけ安心して、続ける。
「それで……いつの間にか、学校に行けなくなってた」
「……」
「だから私、学校が嫌いだったんじゃない」
私は顔を上げた。
「怖かっただけ」
その言葉を口にした瞬間。
胸の奥に引っかかっていた何かが、ほんの少しだけほどけた気がした。
「……ずっと、自分が弱いからだと思ってた」
『怖い』なんて感情、これまでの不登校生活の中でもよく感じていたのに。
「違うよ」
迅が言った。
「……何が?」
「弱いからじゃない」
「……」
「怖かったんだろ?」
「……うん」
「じゃあ、怖かった。それだけでいいんじゃね?」
私は迅を見る。
「それだけ……?」
「そうだよ」
「……」
何故か、また涙が出そうになった。
私は慌てて顔を逸らした。
「……泣いてないから」
「何も言ってないけど」
「……」
「俺何も言ってないよ?ていうか葵依、ついさっきも泣いてたじゃん」
「……うるさい」
私は笑った。
泣きそうなのに、いや、泣いていたのに。少し笑った。
「……変なの」
「またそれ?」
「だって変」
「何度も言うけど、俺は普通だからな」
「自分で言う?」
お互い見つめ合って、可笑しくなって、二人で笑った。
夕方。帰る時間がやってきた。
「明日は?」
迅が聞いた。私は少し考えた。
「……やっぱり分からない」
「そっか」
「でも」
私は続ける。
「……また来てもいい?」
言った瞬間、自分で驚いた。
迅も少し驚いている。
「もちろん」
「……そっか」
「待ってる」
「!」
その言葉に、胸が跳ねた。
待ってる。
誰かが、自分を待っている。
その感覚が、こんなにも嬉しいなんて知らなかった。
「……じゃあ」
私は少しだけ笑った。
「また来る」
「うん」
帰り道。
一人になった私は、何度も迅の言葉を思い出した。
思い出しては、心が躍って。気持ちが晴れて。思わずその場でジャンプしちゃって。
この感情の本当の姿を、この時の私はまだ分かっていなかった。
家に帰る。
「ただいま」
「おかえり」
お母さんがキッチンから顔を出してきた。
「今日はどうだった?」
「…楽しかったよ」
「そっか」
私は靴を脱ぐ。
「……お母さん」
「ん?」
「今日ね、中学校のこと、少し思い出した」
聞いた瞬間、お母さんの顔色が変わった。
「……そう」
「中三の一学期」
お母さんは黙っている。
「私……あの頃、結構辛かったんだと思う」
「……うん」
お母さんは俯いた。
「ごめんね」
「……」
「もっと早く気づいてあげればよかった」
私は何も言えなかった。
もちろん、お母さんを責めたいという気持ちもあった。でも、責めきれない。
「……まだ、全部は話せない」
「うん」
「でも……いつか話す」
母は頷いた。
「待ってる」
その言葉に、私は少し驚いた。
今日、二回目。
「……うん!」
私の口角は上がっていた。
そのまま、吸い込まれるようにして、リビングへ向かった。
