結婚の条件は、ちびっ子神様の子守り役でした

 日の出とともに目が覚める。
 重い体で寝衣から絣(かすり)の着物に着替える。襷掛けにして袖を抑えたら、背筋とともに気持ちもしゃんとするものだ。
 まず片付けるのは洗濯から。
 井戸でたらいに水を汲み、たまった洗い物を洗濯板でゴシゴシと擦る。季節は秋で、かじかむ指はあかぎれがあって水が染みる。
 だけど、サボったら父や姉に蹴り飛ばされてしまうから、必死でやるしかない。
 だって私は、妾の娘。
 歴史ある神職の宮内家において一段低い身分の卑しい娘だ。
 宮内の家はさほど大きくはないけれど地元に密着した古い神社を代々守っている家系で、その分体面も大事になってくる。
 我が家が祀っている穂長比売命(ほながひめのみこと)は、稲穂の実りを見守る女神様。農家の多いこの地域では地味に信仰されている。
 そんな中で当主である父の落とし胤である私は、女中代わりに家に尽くすことを条件にここに住まわせてもらっていた。
 関東大震災以降、実家の両親が心配だからと、奉公に来てくれていた女中さんが居なくなってしまい、家の仕事は私が一手に引き受けている。
 異母姉である穂花姉さんは楽なお仕事ばかり選んで、大変なものは私に押し付けてくるものだから、毎日がいっぱいいっぱいだ。
 洗濯を片付けたら境内を掃除して、父と継母、穂花姉さんの分の朝食を用意する。私の食事は、料理中に味見と称して食べている。だってそうしなければ食いっぱぐれてしまうんだもの。
 朝食が終わればここからが大事な仕事。神社の名物でもあり、重要な収入源でもあるお饅頭を蒸しあげるのだ。
 うちは氏子様も少なく、奉納金もたかが知れている。副業的なことに手を出さないとやっていけない。
 素朴な黒糖饅頭だけれど、近所の人たちにはそれなりに評判がいい。
 一通り蒸しあがったら、巫女服に着替えて表に出る。
 お饅頭を売る屋台とお守りやお札を売る店を切り盛りするのも、私の仕事だ。
 野良仕事の隙間の軽食に、尋常小学校に通う子どもたちのおやつに。
 店番をしているとちまちまとお饅頭は売れていく。
 いつも通りの日常。
 お昼刻ぐらいまでは、そうだった。
「お腹が空いたのじゃぁー! 何か用意せよ、慶次」
「依丸様、ですが、こんな田舎に食べ物など……」
「あっちからいい匂いがするのじゃ! ほら、饅頭とのぼりが出ているではないか!」
 やけに古風な、平安風の着物に身を包んだ五歳くらいの男の子と、高価そうな洋装に身を包んだ長身の若い男性が、神社の境内に入ってきた。
 古風な子供はお腹が空いているようで、お饅頭を売っている屋台へ風のように駆け寄ってくる。
「そこな娘! この六つ入りの饅頭の箱を寄越すのじゃ」
「は、はい。六つ入りは、十二銭です」
「はよう、はよう」
「依丸様。饅頭は金がなければ買えません。今買うのでお待ちください」
 後ろにいる保護者なのかなんなのか、洋装の男性は慌てた様子で駆け寄ってくると、これまた高価そうな革の財布を取り出した。革の細工物など、舶来品好みのお金持ちなのだろうか。
 それにしては、子供相手にへりくだっているけれど。
 男性からお金を受け取り、依丸という子供にお饅頭を渡すと、依丸は目を輝かせてぱくっと一口でお饅頭を食べる。
「び、び、び……美味なのじゃぁ〜!!」
 依丸は大きな声で叫ぶ。よく晴れた秋空に声が吸い込まれていった。
 よっぽど気に入ってくれたようで、その無邪気に喜ぶ姿に私も嬉しくなる。
「そこな娘、これを作ったのは誰なのじゃ?」
 依丸は、きらきらとした目を私に向けて問いかける。
「え? わ、私ですが……」
「なんと! そなたがこの美味なる饅頭を作ったのか。気に入った! 慶次、この娘を嫁に迎えよ」
「はぁ⁉︎」
 依丸の言葉に、私と、慶次という男性が声を揃えて叫ぶ。
 子供というのは時に突拍子もないことを言うものだが、それにしたって驚きだ。
「よ、依丸様。それは流石に難しいのではないかと」
「慶次、我は本気なのじゃ。この娘に毎日饅頭を作らせる」
「それであれば、女中として雇うでもいいでしょう」
「嫌じゃ! 鷹宮家の嫁として迎えよ。我に仕えるのであれば、正妻でなくては」
「…………わかり、ました」
 慶次さんは苦渋の表情で首肯した。
 話についていけないのは私である。これほど身分の高そうな洋装に身を包んだ男が、子供の言いなりになって、私を嫁に迎えるだのなんだのという話をしている。
 何かの冗談だろうと思い、ぼうっとしていると、慶次さんは真剣な眼差しを私に向けた。
「少々、折いって話がしたい。あなたはここの神社の娘か?」
「は、はい。娘といえば娘ですが……。宮内千花と申します」
 初対面の相手に事情を話すものでもなかろうと、もごもご言い訳をするように口の中で呟く。
「巫女の服を着ているということは、独身だな」
「はい。そうですが」
「では、私と結婚してもらいたい」
「あ、あの……?」
 まさか本当に結婚など申し込まれると思わず、私は首を傾げる。
「あなたの父君は神社の中にいるのか?」
「は、はい。社務所におりますが」
「案内してくれ」
 どうしていいかわからず、ひたすら私はオロオロするばかり。
 まさか父にまで結婚の話をするつもりだろうか。だとしたらどうしよう。こんなわけのわからない話、どう対応していいものか全くわからない。
「頼む」
「あ、あの、困ります」
 屋台の前で押し問答をしていると、社務所のドアが開いてしまった。
「千花、何をしている。お客様を困らせているんじゃないだろうな」
 社務所の窓からは屋台が見えるのだ。いかにもお金持ちそうなお客様と押し問答をしているものだから、見かねて父が出てきてしまったのだろう。
「千花さんのお父君ですか?」
「そうですが……」
「私は鷹宮財閥を仕切る鷹宮家の長男、鷹宮慶次と申します」
「たっ、鷹宮財閥⁉︎」
 鷹宮財閥といえば、江戸から続く薬問屋の家系で、今は輸入薬品と製薬の両方を手広くやっている財閥だ。
「諸事情あって、千花さんを妻に迎えたく思います。どうか娘さんを私にくださらないでしょうか」
「へ……?」
 父はポカンとした顔で固まっている。突如として、財閥の御曹司が現れた上、それが妾の娘を妻に迎えたいと言っているのだ。青天の霹靂にも程があるだろう。
「い、いや……。一体何が何やら」
 父が冷や汗をかきながら困惑していると、お饅頭を食べ終わった依丸が、顔を上げた。
「そこな娘、饅頭をもう六個!」
「は、はい」
 微妙な空気が流れる中、慶次さんがお饅頭の清算をして、新しい箱を依丸に差し出す。
 その間に頭が冷えたのか、父はキリリとした顔を慶次さんに向けた。
「突然、妻に迎えたいと言われましてもな。千花は私の大事な娘。ちょっとやそっとで手放すというわけにはいきません。それに我が神社はこの通り小さく、人手を雇うにも金がいる。貴重な労働力である千花を手放せと言われましてもな」
 突然、大事な娘などと言い出した父に、私は頭を抱えそうになった。きっと、嫁にやるなら援助をというつもりだろう。父の話ぶりにそれを察した慶次さんは、当たり前のようにあっさりと頷いた。
「もちろん大事な娘さんを手放すのは神社としてもご苦労がおありでしょう。援助は惜しまないつもりです」
「わかりました。それでは、娘をどうぞよろしくお願いいたします」
 私をよそに、いつの間にか二人の間で話はまとまっていた。
 全くわけのわからない状況のまま、私の結婚が決まってしまったのだった。

 それからは怒涛の日々だった。
 あれよあれよという間に嫁入り道具が整えられ、三日後には慶次さんの車が迎えに来た。
「今から私の家に来てもらう」
「今からですか⁉︎」
 突然の話に、私は巫女服のままバタバタと用意を整える羽目になった。
 車の中で慶次さんは、私の方を見ないままに「依丸様が早くしろと仰せだからな」と言った。
「あの、依丸……様って、一体どこのどなたなんですか? 慶次さんは、鷹宮の御曹司、なんですよね?」
 その鷹宮の御曹司がへりくだる相手というのは、一体どういう立場の方なのだろう。
「依丸様は、我が家の守り神だ」
「守り、神?」
 突然出てきた非現実的な言葉に、唖然とする。
 運転手さんの顔色を伺うと、特に驚いた様子もない無表情で、鷹宮家では知られている話なのだろうか。
「そうだ。江戸時代より薬問屋を営んできた我が家の、商売を司る守り神。福依彦尊(ふくよりひこのみこと)様だ。関東大震災のおり、付近一体を守った影響で力を失い、今は幼い子供の姿となっておられるが。由緒ある正当な神だ」
「そんな、ばかな……」
 神様が、子供の姿をとって実際に出歩いている?
 もちろん神職の娘として、穂長比売命様のことは信じているし、大切に祀ってはいるけれど、神様が人間のような姿をとって出歩いたり、ましてやお饅頭を食べたりだなんて想像がつかない。
 戸惑う私をよそに、慶次さんはただ「そういうことだ」とだけ言って、そっぽを向いた。
 間も無く車は鷹宮家に辿り着く。
 そこは、豪奢な洋館だった。輸入薬品を取り扱う家にふさわしくというか、白亜のお城みたいな家だ。
 玄関扉は重厚な木製で、その両脇には精緻な彫刻を施された白い石柱が立っている。
「わわ、わぁ……」
 私があまりにも大きなお屋敷に尻込みしていると、慶次に肘を掴まれ、引きずられるようにして屋敷の中へと入ることになった。
「待っていたぞ! 千花! さあ、早速饅頭を作るのだ! 饅頭の材料は用意させてある!」
「依丸、様」
 玄関扉を開けるなり飛びついてきたのは、小さな男の子。依丸様だ。
「早速で申し訳ないが、厨房へ行ってくれ。依丸様が饅頭を所望だ」
 依丸様が神様だという話はにわかには信じ難いけれど、この鷹宮家において御曹司である慶次さんよりはるかに尊ばれる存在であることはわかった。
「この家には、依丸様の秘密を守るため、使用人が少ない。悪いが手伝いにつけられるのは一人だけだ」
「え、あ、はい」
「加代、頼んだ」
「はい。慶次様。千花様、厨房へご案内いたしますね」
 慶次さんに呼ばれたのは、まだ若い女中。加代と呼ばれたその女性に案内され、厨房へ行く。
「わ、ひ、広い」
「道具は揃っておりますよぉ。材料は、千花様が来ると伺ってから、饅頭づくりに必要そうな物は一通り揃えております」
 厨房は広々としていて、見たこともない黒い機械などが設置されている。
「あ、あの、かまどはどこでしょう?」
「当家は瓦斯焜炉(ガスコンロ)を使用しているんですよぉ。ほら、つまみを捻るとこの通り」
 加代が黒い機械を操作すると、ぼっと火がついた。
「わ! え、え、何これ。すごい」
 加代は瓦斯焜炉の説明をしながら、お饅頭の材料を一揃い、厨房の台に置いた。
「さあ。依丸様がお待ちですから。チャチャっと饅頭を作っちゃいましょうかね」
「は、はい」
 終始困惑しっぱなしの私だが、依丸様が神様だというなら、待たせるわけにはいかないことくらいはわかる。
 着物の袖を襷掛けにすると、私は饅頭の素材を手に取った。

「美味なのじゃぁ〜! やっぱり、千花を呼んでよかったのじゃ。我は千花の饅頭が大好きなのじゃ!」
 出来上がった饅頭を、広々とした食堂で依丸様に提供すると、依丸様は早速パクリと口に放り込んで叫ぶ。その愛くるしい様子を見ている限り、やっぱり一般の子供にしか見えない。もちろん、一般の子供にしては目鼻立ちが整いすぎているとか、口調がやけに古風だとかそういうことはあるけれど。
「依丸様、私は千花に話があるので、しばらく席を外しますね。饅頭を食べてゆっくりしていてください。千花、こちらへ」
 慶次さんは依丸様に言い含めると、私を別室へ案内した。
「この度の結婚について、詳細を詰めたい」
 応接室らしき場所で、慣れないフカフカのソファに腰掛ける。
 慶次さんは、私に向かって鋭い目線を向けた。
「あくまでこれは名ばかりの結婚だ。饅頭如きで、鷹宮家の妻を決めるわけにはいかない」
「あ、はい」
 言われてみれば当たり前の話だ。いくら依丸様が鷹宮家の守り神といえど、その力を失い子供返りしてしまっているというなら、その判断に従うわけにもいかないだろう。
「それゆえ、依丸様がご満足されるまでは妻として遇するが、鷹宮家の財産や地位が手に入るとまで勘違いしてもらっては困る」
「承知しました」
 私があっさり頷くと、慶次さんは戸惑いの表情を浮かべた。
「不満はないのか?」
「いえ、特には。それはそうだろうな、としか。あ、そうだ。家事などはいかがいたしましょう? 洋館のお掃除の仕方など知らないので、加代さんに教わればよろしいでしょうか」
 財閥の夫人なら家のことなどしないのかもしれないけれど、形ばかりの結婚だし、使用人も足りないと言っていた。ならば手伝ったほうがいいだろう。
 そういう考えで提案したのだが、なぜだか慶次さんは唖然とした表情で私を見た。
 その後、ぷっと吹き出す。
「慶次、さん?」
「いや、はは。ははは。君は面白いな。鷹宮に嫁入りするんだぞ。それを、家事は誰に教わればいいかなどと……」
「はあ……」
「いや、いい。立場を弁えているならば構わない。これから依丸様の世話を頼む」
「はい。承知しました」
 祝言らしい祝言もないまま、書類上だけでいつの間にか私は鷹宮千花になっていた。名ばかりの結婚だから仕方ないのだけれど、花嫁衣装には少し袖を通してみたかったような気もする。元々、実家で冷遇されている妾の娘だ、私の人生にそんな機会、訪れるはずもないのだけれど。
 唯一依丸様だけが、入籍の折に満足そうにニンマリ笑っておられたのが印象的だった。
 それからの生活は、鷹宮家の妻というより、依丸様の子守りとして雇われたというほうが納得のできる日々だった。
 依丸様は神様ではあるけれど、関東大震災の折に力を使い果たして子供返りしてしまっているというだけあって、立ち振る舞いはまさしく幼子のそれだ。
「千花ー! 千花ー! たすけてなのじゃー!」
 今日も朝から依丸様の叫び声が屋敷に響く。慌てて駆けつけると、依丸様は厨房で小麦粉の粉を引っ被っていた。
「まあ、どうしたんですか、依丸様」
「饅頭をな、饅頭を我も作ってみたかったのじゃ……」
 依丸様はしょんぼりと俯いている。
「まあ、まあ。お饅頭は後で一緒に作りましょうね。まずはお風呂に入らないと」
 鷹宮家のお風呂は、珍しいドイツ製のガス湯沸器がついていて、蛇口をひねればお湯が出るようになっている。加代さんに頼んで依丸様のお着替えを用意してもらうと、依丸様を抱っこしてお風呂場へ向かった。
 依丸様の服を脱がせ、上げみづらに結われた髪を解く。長い髪を下げていると、依丸様の愛らしい顔立ちでは女の子のようにも見える。
 私も着物の裾が濡れないようにたくし上げた。蛇口をひねれば、外国の宮殿のような浴室に湯気が立ち込める。
「さあ、依丸様。体を洗いましょうね」
「うむなのじゃ……」
 思い切り失敗をしてしまった依丸様は、しょんぼりしながら素直に頷く。
 壁に固定されたシャワーヘッドから出るお湯が、依丸様にかかっていく。
 髪洗い粉で依丸様の粉まみれになった髪を洗いあげ、シャワーで丁寧に流していると、浴室のドアが勢いよく開かれた。
「千花! 依丸様が粉まみれになってしまったと聞いたが!」
 焦った表情の慶次さんが浴室内に入ってくる。
 私には依丸様は幼子のように見えてしまうけれど、鷹宮家の方からすれば尊ぶべき守り神様で、粉まみれになるなどとんでもないことなのかもしれない。
「はい。お饅頭を自分でも作ってみたかったようで」
「そ、そうか。いや、洗髪中にすまなかった」
 慶次さんは私の格好を見ると気まずそうに目を逸らす。そういえば、濡れないように着物の裾を太ももまでたくしあげていたのだった。
 見苦しいものを見せてしまって、申し訳ない。
 慶次さんは焦った表情でまた浴室のドアを閉めると、ドア越しに「依丸様を頼む」と言って去っていった。
「慶次は奥手じゃのうー」
「おくて……?」
「なんでもないのじゃ」
 依丸様はお湯の温度が気持ちいいのか、のんびりと瞼を閉じながら言う。
「千花、洗い終わったら、お饅頭を作ってみたいのじゃ」
「うーん、そうですね。お饅頭は、ちょっと難易度が高いかもしれません。そうだ、はちみつきな粉棒などいかがでしょう?」
 厨房にはお菓子作りの教本なども置いてあって、私は暇な時にそれを読んだりしている。そこに書かれていたお菓子で、特に簡単そうなものがはちみつきな粉棒なのだ。
 五歳時ほどの見た目で中身もそれに準じている依丸様には、そのくらいがちょうどいいかもしれない。
「なんなのじゃ、それは?」
「はちみつできな粉を固めたお菓子ですよ。はちみつの甘い味に、きな粉の香ばしさがあって、美味しいらしいです」
「ふむ……。わかったのじゃ! それを作るのじゃ! そうだ、慶次も誘って一緒に作ろう」
「慶次さんを、ですか?」
 お仕事で忙しいのではないだろうか、と思いつつ、依丸様は慶次さんを慕っているから、一緒に何かやりたいのかもしれない。
 慶次さんも依丸様のためとあれば断らないだろう。
 依丸様の体を洗い終わって、加代さんに用意してもらった着替えを着せつけたら、慶次さんの執務室へ依丸様と一緒に向かった。
「失礼します」
「ああ、千花。先ほどはすまなかったな。依丸様を綺麗にしてもらって、助かる」
「いえ。それで、その、依丸様のお願い事なのですが……」
「慶次! 一緒にはちみつきな粉棒を作ろうなのじゃ!」
 依丸様は、勢い込んで慶次さんに飛びついた。机に向かって仕事をしている慶次さんの腕に、まとわりつく。
 慶次さんは戸惑いの表情を浮かべつつ、依丸様の頭を撫でていた。
「はちみつきな粉棒?」
「お菓子作りがしたいみたいで。ただ、お饅頭は難易度が高いので、もっと簡単なものから始めようかと」
「なるほど。わかった。四半刻ほど待ってくれ。すぐに仕事を終わらせる」
「承知しました」
 待っている間に、厨房で準備を整えることにする。
 依丸様を連れて厨房へ向かうと、加代さんが粉まみれになっていた厨房を片付けてくれていた。
「ああ、加代さんすみません。ありがとうございます」
「いえいえ。これが私の仕事ですからぁ。奥様も、依丸様を洗っていただいてありがとうございます」
「加代、加代。我ははちみつきな粉棒を千花と慶次と一緒に作ることにしたのじゃ! 加代にも食べさせてやるから、楽しみにしておるとよいぞ!」
「まあ、そうなんですか。楽しみですねぇ」
 加代さんと一緒に片付けを済ませて、必要な材料などを取り出しているうちに四半刻が経った。
「待たせたな」
「慶次さん、無理を言ってすみません」
「いや、依丸様の願いだ、無理などあろうものか」
 慶次さんが来たので、早速はちみつきな粉棒を作成にかかる。
 はちみつをたっぷり手鍋に注いで、瓦斯焜炉で火にかける。この作業は、依丸様もやりたがったけれど火を使うのは危ないので下がっていてもらう。慶次さんが焜炉から離れたところで依丸様を抱っこして待っていてくれる。
 しっかりはちみつが温まったら、今度はボウルにきな粉とはちみつを注ぎ入れ、ヘラで混ぜる。この作業からは依丸様も参加だ。
「硬いのじゃ、硬いのじゃー!」
「だんだん固まってきますからね。一緒に混ぜましょう」
 依丸様の握るヘラに手を添えて、一緒にまぜまぜする。
 しっかり混ざったら、きな粉を広げた平皿に生地を落とし、手で平べったく整形した。これを棒状に切って、出来上がり。もちろん包丁を使う作業は大人の仕事だ。
「はい、出来立てのはちみつきな粉棒ですよ。これを半日ほど置いて固くしたものも美味しいらしいですが」
「待つのは嫌じゃ! 今食べるのじゃ」
 依丸様は小さな両手できな粉棒を持ち、ちまちまと齧る。すると蕩けそうな笑顔を浮かべて「美味なのじゃー!」と叫んだ。
「では、私たちもいただきましょうか」
 お行儀が悪いと知りつつ、厨房で経ったまま味見をする。加代さんも呼んで、三人でぱくり。
「わ、美味しい」
「まあ! 甘くて美味しいですねぇ」
「うむ、これはなかなか」
 互いに頷き合っていると、慶次さんの膝の上にいた依丸様がうつらうつらし始めた。
「あら、朝からの粉まみれ騒動で、疲れちゃったのでしょうか」
「お昼寝の時間だな」
 屋敷の奥には、依丸様の祀られている部屋があり、そこにはベッドも備え付けられている。
 そちらへ依丸様をお運びして、掛け布団をそっとかけると、依丸様は本格的にすやすやとお眠りになった。
 その頭を、慶次さんが愛おしげな目つきでそっと撫でている。
「慶次さんは、依丸様を本当に大切に思っていらっしゃるのですね」
 その姿に、思わずポロリと感想が溢れた。
「そうだな。……二年前の関東大震災の折、依丸様は力を使い果たしてこのお姿になられた」
「はい」
「その時の光景は今でも忘れられない。遠くの方で炎が燃え盛る中、この一帯だけは火に巻かれることなく無事で済んだ。だが、依丸様はどんどん力を失い、体がボロボロと崩れていく中この地域を守ることをお止めにならなかったのだ」
 依丸様の体が崩れていくなんて、想像もしたくない。この小さな体になるまで、どれほど大変な思いをされたのだろうか。
「だから、このお小さい姿になられた時、父が我が子を守るように、私は依丸様をお守りしようと誓ったのだ。そして、千花。お前を依丸様が求めたのは、母のような存在を求めるような気持ちからなのかもしれないと思っている。強引にこの結婚を強いた身で過ぎた願いかもしれないが、依丸様を母のようにしてお守りしてほしいと思っている」
「それは、もちろん。依丸様のことを、私は大切に思っております。守り神様相手に傲慢かもしれませんが、我が子のようにも。こんなに愛らしくていらっしゃるのですもの」
「そうだな」
 すやすやとした健やかな寝顔を眺めていると、胸の奥に愛おしさが溢れてくる。そんな目で依丸様を見ていると、慶次さんは嬉しそうに私を見つめた。
 名ばかりの結婚で、夫と妻としては歪な関係なのかもしれないけれど、依丸様の父母のような存在として、絆を育めればいいなと思う。
 私たちはそれからしばらくの間、依丸様の寝顔を眺めて穏やかな時間を共にした。

 そんな、奇妙ながらも穏やかな均衡の保たれた擬似家族の関係は、ある満月の晩、壊れることになった。
「依丸、様……?」
 いつものように食堂で夜ご飯がわりのお饅頭をぱくぱくと食べていた依丸様は、ふと顔を上げると「力が戻ってきたような気がするのじゃ」と呟いて、急に光り輝きだした。
 すっかり依丸様を普通の幼子のように思っていた私は、その非現実的な光景に大慌て。執務室にいる慶次さんを呼びに走り彼を連れて食堂へ戻ると、見慣れない美青年がそこにはいた。
「依丸様……! 依丸様、お戻りになられたのですね!」
 慶次さんの言葉で、その美青年が依丸様の真の姿なのだろうと察する。
 察するが、それにしてもこれまでの依丸様とはあまりに雰囲気が違い過ぎて、戸惑いを隠せなかった。
 長く艶やかな黒髪にを背に流し、平安の世のような狩衣姿に身を包んだ青年は、神秘的な色香を漂わせている。その瞳には深遠な知性が宿り、ほのかに笑みを浮かべた唇は大人びた苦味を湛えていた。
「満月の夜であるからな。この姿に戻れるのは、今夜だけのことであろう。にしても、気苦労をかけたな、慶次」
「い、いえ。依丸様があれほどのお力を使い果たして、我々を守ってくださったのです。苦労など、何ほどのものでもございません」
 慶次さんの瞳には、涙が浮かんでいた。二年間、力を失った依丸様を見守ってこられたのだ。
「それから、千花。そなたの尽力にも感謝する。幼子の我では上手く説明できなんだようだが、神職の娘として力を持つそなたの御饌があればこそ、これほど早く力を取り戻すことができたのじゃ」
「依丸様……」
 御饌とは、神様に捧げる供物のことだ。毎日依丸様に捧げていたお饅頭が、御饌としてその力を取り戻させる役に立っていたなどとは、想像もしていなかった。
 だけど、私にそのような力が秘められていたからこそ、鷹宮家の嫁として依丸様は所望されたのだろうか。それならば、あの急な展開にも納得ができる。
「千花にも恩返しをせねばのう……。そうじゃ、千花、今宵は我のそばで休むとよい。巫女は神の花嫁と言うではないか」
「えっ?」
 依丸様が突然言い出した言葉に、唖然とする。確かに私は依丸様の巫女的な立場として祀る役割も任されているけれど、花嫁、だなんて。そもそも私は名ばかりとはいえ慶次さんの妻なわけで、それって不貞になってしまうのでは。
 などと戸惑っていると、依丸様は不意に私に近づいてきて、私の腰を抱き寄せた。
 そして、耳元で囁く。
「くっく。慶次は奥手ゆえ、嫉妬を煽ってやろうぞ、千花」
「よ、依丸様っ⁉︎」
 私と慶次さんがおろおろしているのを尻目に、依丸様はひどく愉しそうな笑みを浮かべている。
「よ、依丸様。その、千花に共寝を乞うのは、あまりにも……。彼女は男を知りませんし……」
 依丸様の言葉には常に付き従う慶次さんが、勇気を振り絞ったのか、その言葉に逆らった。
「慶次、じゃが、まだ千花をそなたのものにはしていないのであろう?」
「それは……」
「困るのう……。我を祀る鷹宮の血が途絶えるようでは。千花を我に奪われたくないのであれば、男を見せよ、慶次」
 依丸様は、身にまとう神威を強めて慶次さんに迫る。慶次さんはその気にあてられて青ざめていた。
「千花と真の夫婦(めおと)になれ、慶次」
 二人のやりとりに、名ばかりの結婚で納得していたけれど、そもそも鷹宮家には跡取りが必要であることを思い知る。財閥としても、依丸様を祀る家系としても。
「あの、依丸様。私は慶次さんと跡取りを設けにるは相応しい身の上ではありません。……妾の、娘なのです」
 私の腰を抱く依丸様に、勇気を振り絞って申告する。私は鷹宮家の妻に相応しい女ではない。今までは名ばかりの結婚であり、依丸様がお饅頭に満足するまでの間柄と思っていたからこそ受け入れていたが、真の夫婦になるなど、私のような娘には相応しい役割ではないだろう。
 しかし、そんな私の決死の申し出を、依丸様は鼻で笑った。
「人の世の理(ことわり)などどうでもよい。千花、そなたの御饌には力がある。我を祀る鷹宮の血筋に、そなたほど相応しい妻はおらぬよ」
 そう言い返されて、神の理を人の理で遮ることなど不可能だと思い知らされる。
 だけど——。
「依丸様。お言葉ですが、私は千花の意思を一番に尊重したく思います」
 慶次さんは、人の理で依丸様の言葉に真っ向から反抗した。
「ほう?」
「千花が立場の弱い妾の娘ならば尚更。鷹宮の権力でねじ伏せるような真似はしたくない。千花が私と真の夫婦になることを望まぬ限り、私は千花を今まで通りに遇しましょう」
「ふむふむ。なるほど。……して、千花はどうなのじゃ?」
 慶次さんが依丸様に逆らってまで、私の意思を一番に尊重してくれたことに感動していると、依丸様から不意打ちで意思を確かめられた。
 女の身で、自ら男を乞うようなことを言うのはあまりにも恥ずかしい。
 だけど、この生活で秘めていた思いは、ないわけではない。
「私は……。私は、依丸様と慶次さんと、この家で過ごしていて……。もしいつかこの腕で我が子を抱く僥倖に恵まれることがあるならば、その父は慶次さんであってほしいと……」
 そう、願わずにはいられなかった。この屋敷での、幸せな日々を過ごしているうちに。
 依丸様が、満足そうににんまりと笑みを浮かべる。
「よくぞ言った、千花」
 それまで私の腰に絡みついていた依丸様の腕が解かれる。
「それでは我は、穂長比売命に挨拶に向かうとするかのう。あれの貴重な巫女を貰い受けるのであれば、筋は通さねば」
 穂長比売命は実家の神社で祀っている神様だ。神様の世界の話に気が遠くなっていると、依丸様は食堂の窓からふわりと外へ出ていってしまう。
 そして、残された慶次さんと私の間には、気まずい沈黙が降りた。
「慶次さん。あの……」
「依丸様が突然色々と言って、迷惑をかけた。あの方は、お小さい時には目立たないが、神らしく尊大なところもおありだから」
「いえ……。あの、それで」
 依丸様は行ってしまわれたけれど、これからどうしたものか。
「屋敷を空けるというのは、まあ、そういうことだろうな」
 つまり、今夜、真の夫婦になれ、と。
 どくどくと音を立てて脈打つ自分の心臓を感じながらも、私は慶次さんの真っ赤に染まった耳を見て、少しだけ緊張が解ける気がした。