引きこもりのお嬢様を拾ったから社会復帰させる

 「女の人が怖い」と詩音が打ち明けた、あの夜から半月ほどが過ぎた。

 あれから俺は、友達の話を二度と口にしなかった。無理に傷を抉る必要はない。この子のペースでいい。そう思って。

 でも変化は、意外な方向からやってきた。

***

 その日の夕食のあと。詩音はいつになく思いつめた顔で、俺に向き直った。

「佐々木さん。……あの、お話があります」

「ん? どうした、あらたまって」

「わたし……」

 詩音は膝の上でぎゅっと手を握り、意を決したように言った。

「わたし……働いて、みたいです」

 俺は一瞬、言葉を失った。

「……働く?」

「はい」

 詩音はまっすぐ俺を見て頷いた。その目には怯えもあったけれど、それ以上に強い決意があった。

「わたし、ずっと……佐々木さんに、してもらうばかりでした。拾ってもらって。ごはんを食べさせてもらって。服も買ってもらって。……何もかも」

「それは、別に……」

「でもわたし、あのおにぎりを握った日から、ずっと思っていたんです」

 詩音は言った。

「わたしも、誰かの役に立ちたい。してもらうばかりじゃなくて……誰かに何かを、してあげられる人になりたい」

 その言葉に、俺は胸を突かれた。

 この子がはじめて握ったおにぎり。「人に何かをしてさしあげられたの、はじめて」と泣いた、あの日。

 あの小さな喜びが、この子のここまでの原動力になっていたのか。

「それに」

 詩音は少し俯いて続けた。

「……いつまでも佐々木さんに頼っていては、いけないと。わたしも、自分の力で生きられるようにならなきゃって……そう、思ったんです」

***

 嬉しい、と素直に思った。

 この子がそこまで前を向くようになった。自分の力で生きたいと思うようになった。それは俺が望んだこと、そのものだ。

 ……その喜びの片隅で、またあの名前のつかない何かがちらついた気もしたが、脇に置いた。今はこの子の決意を応援する。それが先だ。

「……分かった」

 俺は言った。

「働くの、いいと思う。応援する。……でも、いきなりフルタイムはきついだろうから、まずはバイトからだな」

「バイト……!」

「ああ。……ただ」

 俺は少し慎重に続けた。

「バイト先には気をつけないとな。……お前の、その」

 女の人が怖い、という言葉を、俺は飲み込んだ。

「……まあ、その辺も含めて一緒に探そう。無理のないところを」

***

 バイト探しは難航——するかと思いきや、わりとあっさり決まった。

 きっかけは詩音自身のひと言だった。求人サイトを二人で眺めていたとき、詩音がある求人に目を留めたのだ。

「佐々木さん。……この、お花屋さん」

「花屋?」

「はい。……なんだか、素敵だなって」

 詩音の指が示していたのは、駅から少し離れた商店街の、小さな花屋の求人だった。

 ——スタッフ募集。未経験可。花が好きな方、歓迎。

「花、好きなのか」

「はい。……家にいたころ、お庭にたくさんお花が咲いていて。それを眺めるのが……唯一の、楽しみでした」

 詩音は少し遠い目をして言った。

 差し押さえられた、あの家。この子が育った家には綺麗な庭があって、外に出られなくても、この子は窓からその花を見て慰められていたのかもしれない。

「それに……お花屋さんなら」

 詩音は続けた。

「お花を買いに来る人って、誰かに贈るためだったり、自分を元気づけるためだったり……するじゃないですか。そのお手伝いができたら、素敵だなって」

 ……ああ。

 この子はやっぱり「誰かに何かをしてあげたい」んだ。花屋はまさに、誰かの贈り物を、誰かの幸せを手渡す仕事だ。

 この子の「与えたい」という気持ちに、ぴったりだった。

「……いいじゃん」

 俺は言った。

「花屋。応募してみるか」

「はい……!」

 でもそのあと、詩音の顔が少し曇った。

「……でも。お店の人が……女の人、だったら」

 その心配はもっともだった。

 でも俺は、この花屋に賭けてみたい気がした。求人の写真に写っていた店主らしき初老の女性の、その穏やかな笑顔に。なんとなく、この子を傷つけるような人には見えなかったから。

「……大丈夫。まずは面接だけ受けてみよう。会ってみて無理そうなら、やめればいい」

「面接……」

「そう。働く前に、お店の人と話して、お互いこれでいいか確認する場だ」

 その言葉に、詩音はまた新しい恐怖に直面した顔をした。

 ……そうだ。この子にとっては「面接」も、生まれてはじめての大冒険なのだった。

***

 面接までの数日間、俺たちは面接の練習をした。

 志望動機。自己紹介。「週に何日働けますか」。想定されるやりとりを、何度も何度も繰り返した。詩音は緊張すると頭が真っ白になって、しどろもどろになる。それでも根気よく付き合った。この子が少しでも落ち着いて話せるように。

 ……教えながら、ふと思った。

 俺はこういう「面接の受け方」なんてものを、この一年すっかり忘れていた。

 いや——忘れていたかったのかもしれない。

 俺もいつか社会に戻るなら、こういう場所にもう一度立たなきゃいけないわけで。

 この子に面接の練習をさせながら、俺は自分の逃げてきた道のりを、突きつけられている気がした。

***

 面接当日。

 詩音はあの水色のワンピースを着た。はじめて自分で選んだ、あの服だ。

「……変じゃ、ないですか」

「大丈夫。ちゃんとしてる。……似合ってる」

 花屋の前まで、俺は付き添った。さすがに面接に同席はできないけれど、せめて店の前まで。

「……行ってきます、佐々木さん」

「おう。緊張したら深呼吸な。……お前は、大丈夫だ」

 詩音はこくりと頷いて、深呼吸をひとつ。

 小さな花屋の扉を押して、中に入っていった。

 その後ろ姿を見送りながら、俺は思った。

 拾ったあの夜、街灯の下で膝を抱えていたこの子が、今、自分の意志で、自分の足で、「働く」ための扉を開けようとしている。

 ……すごいな、お前。

 俺は店の外で、ただ待った。この子が、この子の戦いを終えるのを。

***

 三十分ほどして、詩音が店から出てきた。

 その顔を見て、俺は結果を悟った。

 だってこの子、泣きそうな顔で、でも笑って——こっちに走ってきたんだ。

「佐々木さん……! 佐々木さん……!」

「どうだった」

「……受かり、ました。来週から来てくださいって……!」

 詩音の目からぽろぽろと涙がこぼれた。

「店長さん、とっても優しい方で。わたしが緊張してうまく話せなくても……ゆっくりでいいですよって。お花が好きなの、伝わりましたって……!」

「……そっか」

 俺はこの子の頭を、ぽんと撫でた。無意識だった。

「よくやったな、詩音」

「はい……! ありがとうございます……!」

 この子のはじめての仕事。小さな花屋のバイト。

 でもこの子にとってそれは、世界への大きな大きな一歩だった。

 ……そして俺は、その嬉しそうな顔を見ながら、密かに決意を固めていた。

 この子がこれだけ頑張ってるんだ。俺もそろそろ、本気で動かなきゃいけない。この一年逃げ続けた「働く」ということに、もう一度向き合うときが来たのかもしれない。

 ……とはいえ、店長さんが優しい人でよかったとほっとする一方で、俺はまだ少し心配してもいた。

 花屋の仕事は接客だ。お客さんの中には当然、女性もいる。この子のいちばんの壁と、この子はバイト先で、いやおうなく向き合うことになる。

 ……大丈夫だろうか。

 その不安は、今夜のところは、胸の隅にしまっておくことにした。

 今夜はただ、この子のはじめての「合格」を祝おう。

 帰りにケーキでも買って帰るか——そんなことを考えながら、嬉しそうに隣を歩くこの子と、夕暮れの商店街を歩いた。